第16話 「監査官の男」01
気持ちの良い天気の日、小高い丘の上の月乃の住まう家の玄関に、ひとり来客があった。
軽く刈り上げた黒い髪。眼鏡にパリッとしたスーツ。よく磨かれた革靴。眼鏡の向こうの瞳は夜明けの色をした細身の男――「第八図書館」所属の正人という。
エリート然とした立ち姿で表情は少ない。
彼はドアノッカーをつかみ、ゴンゴンと鳴らすが数分待っても家主が出てこない。足音さえ聞こえず、疑問符を浮かべた。
「留守、では無いはずだが……」
もしかしたら裏庭でハーブ摘みでもしているのかもしれないと思い、ぐるりと回って裏庭を目指す。
すると何か声が聞こえてきた。
苦しげに喘ぐ女性の声だ。
「あっ……は、あ……ッ! も、むり……ッ、し、んじゃ……けほっ!」
涙ぐみ、喉をカラカラにしてむせている声は間違いなく月乃だ。正人は様子をうかがうように聞き耳を立てる。
「まだ終わらないぞ? さあ、もう一度やるんだ」
「くら、でぃ……げほっ、は、は……ッ! うぅ……!」
正人は監査官である。「第八図書館」内でも司書や魔術師の不正や問題行動などを監視する立場なのだ。しかしそれと同時に保護と管理をする立場でもある。
月乃は「第八図書館」内でも特殊な立場であり、貴重な人材なのだ。
正人は腰の後ろに手を構え、現場に踏みこむ。
目の前に飛び込んできた光景に、正人は目を見ひらいた。
「む、りっ……! げほっ!」
「あと三回だ」
「うぇっ……ひ、ぃ……」
「あと二回」
ジャージ姿の月乃がへろへろとバーピージャンプをしていたのだ。なんとも力なく頼りないジャンプをしたあと、しゃがんで腕を小刻みに振るわせて浅い腕立てをしている。目の前の巨漢の男は「もっと深くだ」とからだを下げさせようとしていた。
あっけにとられた正人は構えの姿勢のままその場に立ち尽くしてしまう。
「ラスト一回」
「うっ、はぁ、ひぃ……」
最後の一回が終わり、月乃がぐしゃりと地面に倒れる。ぜーひゅーと何度も苦しげな呼吸を繰り返し、途中喉の乾燥からか咳をしてはからだを痙攣させた。
クラウディオは月乃を抱き起こし、ボトルのスポーツドリンクを含ませる。途中何度かむせているのをさすったりタオルを差し出す巨漢――クラウディオは甲斐甲斐しい。
「……何をしているんだ」
正人の存在に気付いたらしいふたりが視線を向ける。月乃が「あ」という顔をして力なく手を振った。クラウディオのほうは軽く会釈をし、月乃を支えて立ち上がる。
「まさひと、くん、いら、しゃい……ちょと、たいりょくづくり、を……ね……?」
「あ、ああ……」
「くらうでぃお……きゃく、まに、あない、して……げほっ!」
「了解した」
クラウディオは生まれたての子鹿状態の月乃を米俵のように抱き上げ運ぶ。正人はふたりの後につき、客間に案内された。
「(上着の下に膨らみがあった。腰にも何か膨らみがあったな……銃か?)」
クラウディオは正人をちらりと見る。
クラウディオの視線を感じたのか、正人も彼を見る。ばちりと噛み合った視線のまま、しばらくふたりは沈黙した。
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「そういえば例の件の後に軽く挨拶したきりだったな。俺は正人。『第八図書館』所属の監査官だ。主に『第八図書館』所属の職員の管理監視などを行っている」
「クラウディオだ」
「ああ、月乃から聞いている」
クラウディオは差し出された正人の手を握り、軽く握手を返す。
客間につくと、椅子を勧められた正人と向かい合うように席に着かされる月乃。ぐったりと背もたれにもたれかかる月乃は未だ呼吸が整わないらしい。
「飲み物はどうする?」
「まさひと、くんにはコーヒー、ブラックで……わたくしは、こうちゃで……」
「ああ、わかった」
キッチンへ消えるクラウディオの背中を見ながら、正人は眼鏡のブリッジを持ち上げ、月乃を見た。
アメーバか液化した猫の如くだらりと伸び広がっている月乃の様子に、思わず溜息をつく。
クラウディオがトレーにコーヒーと紅茶、そして皿にパイをひとつ乗せて持ってきた。
「コーヒー、飲むようになったのか?」
正人は月乃が紅茶派であることを知っているらしい。香りからしてインスタントではないことが察することができるコーヒーに反応したらしかった。
「クラウディオが、コーヒー派なの」
月乃は気安さのある口調で答える。
クラウディオが配膳を済ませると月乃の隣にかけた。正人は無表情なクラウディオを眼鏡越しにちらりと見て礼を言う。
「それ、甘くないパイだから。正人くんも美味しく食べられると思うわ」
笑みを浮かべてすすめる月乃は、ティーカップを手にしようとする。しかしぷるぷるとまだ手が震えて零しそうになり、あきらめて椅子にかけ直した。
「ああ、それなら頂戴しよう」
長方形の形をしたパイをフォークで切ればマッシュされたじゃがいもとたまねぎ、そしてベーコンがごろりと出てきた。一切れ口に運べば、塩胡椒で味付けされた具材がサクサクのパイ生地とよくあって美味である。
中身はジャーマンポテトらしかった。
よいオイルとベーコンらしく、香りもよい。粒マスタードの風味が良いアクセントだ。
甘いものが得意でない正人もこれなら食べられる、とたまにコーヒーを口にしながら平らげた。
月乃はようやく紅茶を口にし、クラウディオもコーヒーを飲んで静かに時間が経過した。
「ごちそうさま。美味かったよ」
少しだけ口元に笑みを浮かべる正人に、月乃も嬉しそうにする。
月乃はクラウディオを見て、正人に視線をやった。
「それ、クラウディオのお手製なの。美味しいでしょ?」
正人は一瞬むせる。
コーヒーを吹き出すところだった。
「君は助手にハウスキーパーまでさせているのか?」
正人がジト目で月乃を見ると、彼女はきょとん、とした表情をする。
「住み込みで働いていたらいているし、適材適所じゃない? クラウディオ、料理好きみたいだし、洗濯もしてくれるし」
「……君はそういうタイプの人間だよな」
正人は額に手をやる。何かいけないのだろうか、と首をかしげる月乃に溜息をつきそうになった。
クラウディオは正人がどことなく月乃との距離感が近いような雰囲気を感じ取ったが、悪いやつではなさそうなので問題なしと判断する。
「今日はいくつか話があってな」
「もしかして」
月乃がのんびりと尋ね、正人は姿勢を変える。菫のような不思議な色の目が、光ったような気がした。
クラウディオがふたりの会話に疑問符を浮かべていると、正人が「ああ」と気付いたようにクラウディオにも顔を向ける。




