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第9話 「司書の仕事」04

 クラウディオは客間のティーカップを片づける月乃を手伝い、キッチンについて行く。

 クラウディオの住む安アパルトマンのキッチンとは大違いの広さだった。

 シンクも広く、備え付けのオーブンも立派で、大きなケーキも大量のクッキーだって焼けるだろう。コンロだってたくさんあるし、冷蔵庫も大きい。

 しかし月乃は冷蔵庫から取り出した材料をいくつか切り、バケットをトースターで焼く程度でキッチンをあまり使っていない様子だった。そもそも冷蔵庫の大きさに対してあまり食材は入っていないし、コンロも使用頻度が高い一カ所があるだけのように見える。


――もったいない。


 クラウディオの内心が顔に表れていたのか、月乃は眉をハの字にして苦笑いをする。


「ひとり暮らしで少々持て余しているんです」


 そう言って彼女は皿を並べる。

 切ったトマトにたっぷりのオリーブオイルをかけ、塩こしょうで味付けたものを木製ボウルで。鴨のドライハムとベビーリーフはプレートで。クリームチーズとアカシアの蜂蜜をスフレカップで。

 大きな皿にクラウディオの手の半分程度の大きさのバケットが、こんがりと香ばしく焼かれ、並んでいる。


「どうぞ、召し上がって」


 バケットに乗せて食べろ、と言うことらしい。月乃は手を合わせてから自分用にクリームチーズをバケットに塗り、蜂蜜を垂らす。噛みついたバケットはザク、といい音をさせた。

 クラウディオもドライハムとベビーリーフを乗せてかじる。塩とハーブのよく効いた鴨のドライハムがベビーリーフとバケットと一緒にすることでちょうど良い。

 二口で消えた。

 トマトも新鮮で赤と黄色の二種がざくざくと切られ、香りの良いオリーブオイルが味を引き立てた。よほど良いオイルらしい。

 二口で消えた。

 クリームチーズの濃厚さと、クセの少ないアカシアの蜂蜜は相性が良い。

 勿論二口で消えた。

 バケットを口に運びつつ、クラウディオは月乃を盗み見る。クリームチーズと蜂蜜を乗せたバケットを食べ終えたらしく、二色のトマトをバケットに乗せていた。

 クラウディオはどうしても自分が基準になってしまうため、月乃の食事姿が小動物のそれに見えてならない。

 結局クラウディオがバケットを九枚食べたのに対し、月乃はバケット三枚で終わっていた。さすがに少食すぎないか、とクラウディオはひっそり思う。


「うまかった」

「そう、よかった」


 今度は林檎の香りのする紅茶が出され、まったりとした時間が流れる。

 喧騒もなく、渦巻く欲もなく……窓の外のオリーブの古木で鳴く鳥の声が黙したふたりの耳に届く。ゆるく温かい空気が、部屋には満ちていた。

 柄にもなく気が抜けてしまったクラウディオだったが、月乃と視線が合った途端、ここに来た理由を思い出す。食事の趣味は割と合いそうだなと思ってしまったせいでほんの少しだけ気を許しそうになっていた。

 わずか一時間前に、この女は触手で自分のからだをなで回してきたのだ、ということを忘れてはいけない。

 頭を振るうクラウディオに、月乃は穏やかな声をつむぐ。


「わたくしが肩代わりしたお金は、助手として働いていただければそこから、そうでないなら毎月決まった額をお返しいただければけっこうです」


 月乃は一応、クラウディオに対して選択肢を用意してはいたらしい。ただクラウディオに助手として働いてもらいたいと言う気持ちが強いらしく、「助手のほうが返済に時間が掛からないはず」、とつけ加えた。


「ただ場合によってはカニ漁船に乗るよりハードかも知れませんが」


 クラウディオの脳内で極寒の海で、暴れる波に弄ばれながらカニを水揚げする姿が浮かぶ。世界でトップクラスのハードさを誇るカニ漁よりハード……「魔道書」の力を思えば、カニ漁よりハードなものがあるのは想像がついた。

 クラウディオは過去に命が砂塵のように手からこぼれ落ちる場所にいた。今なお己の命はそこに含まれているという感覚がある。

 機関銃の一斉掃射やミサイル攻撃と人外の暴虐に何の違いがあろうか。綱渡りを踏み外すか否かでだけの差である。

 そう思えばクラウディオの腹は決まっていた。


「わかった。お前の元で働こう」


 クラウディオの言葉に、月乃はぱぁ、と表情を明るくさせる。よほど嬉しかったのだろう、膝が少し跳ねている。


「こちらとしてはありがたいですが決断が早いのですね? よろしいのですか?」

「ああ、かまわない」


 にこにこと笑う月乃はぽん、と手を合わせる。何か思いついたらしい。


「もし住み込みで働いてくださるなら、歓迎いたしますわ。部屋はありますし、生活費に関しては保証いたします」


 よほど助手が確保できたことが嬉しいのだろう。しかし禄に知らない異性を住まわせるとは、何を考えているんだ、と頭にそんなことが浮かぶ。が、すぐにそれも消える。

 目の前でほわほわとした表情を浮かべる女は、いざとなれば自分を一撃で殺せる程度の力を有しているのだ。そういう意味で「害が無い」、いや「害を及ぼせない」と思われているのだろう。

 事実先ほどの触手から抜け出すことは出来なかったわけである。「魔道書」に限らずあの扉の絵のようなものをこの家のあちこちに仕込んでいるなら到底勝ち目は無かろう。



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「それでは通いかどうかのお返事は三日以内にいただければ」


 手を振る月乃に見送られ、クラウディオは丘を下ってゆく。

 アパルトマンに着いたクラウディオは、狭いキッチンをしばらく眺めた後、バックパックを取り出す。元々持ち物は多い方では無い。服や下着も強めに押し込めばすべて納まってしまう。


「(あの女は信用ならないが、どのみちここにも執着はないからな……)」


 不要な分はゴミ袋に入れ、キッチンの収納を開く。しまい込んでいた製菓道具をひとつひとつ検分しながら、段ボールに詰めていった。

 ここに住む以前から、捨てられなかったものだ。段ボール一箱分に納まるなら、持っていってもかまわないだろう。

 大半が備え付けの家具である。まとめてしまえば荷物はバックパックと段ボールひとつ。

 食材は適当に夕食で消費して、翌朝分も作ってしまえばバスケットに収まる。

 荷物まとめはあっという間だった。

 手続き完了自体は先ではあるが、行動はすぐに起こせる。

 対して執着の無いアパルトマンの温度調整のなってないシャワーを浴び、狭いベッドでからだを丸めて眠る。

 それがここしばらくの日常だった。それも終いかと思うと、妙な気分になる。

 まどろむ意識の中でクラウディオは月乃を思い出した。


――誰かと顔をつきあわせて食事をしたのは、久しぶりだったな……


 まぶたの裏に、昼の映像が浮かぶ。クラウディオの鼻腔に、あの時のバケットの匂いが思い出された。










 翌日、再び月乃の家の玄関をノッカーで叩く。


「住み込みで働かせてもらう。これから頼む」


 無表情のクラウディオはバックパックを背負い、小脇に段ボールを抱え、もう片方の腕にはバスケットという姿だ。少しばかり驚いた表情の月乃はエプロンを着けている。

 どうやら掃除中だったらしい。

 しばらく黙したのち、困ったように小さく笑い声をあげた。


「……行動がお早いこと」


 月乃はクラウディオを招き入れる。


「これからよろしくお願いしますわ、クラウディオ」

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