蓮華の回想~誰かの記憶。筆頭教官と、司令の兄
以前もこんなことがあった――そんな気がする。
「《我慢しろ!》」
ビリビリと、青い稲妻のような光が体を包んで、目の前の地面には、赤い液状のものが嘘みたいに拡がってゆく。錆びた鉄のようなにおいが、鼻の奥から脳を直接揺さぶっているような――そんな衝撃が心と体を襲っていた。
「《やめて……。》」
やめて。壊させないで。傷つけたくなんかない。そんな風に泣いていた。
「《泣かないで、佳廉。》」
やわらかなハスキーヴォイス。――それは、よく知ってる、誰かの声。抱き締めてくれているその人の体はだんだん冷たくなっていく、腕から力が抜けて、ガクン、と首が折れるように落ちた。やわらかい、ハチミツ色の髪が頬を掠めた。
「《いやあぁぁぁ!》」
それはきっと、夢だったのだろうと思う。うなされた私を落ち着かせるように、大きな手のひらが額から瞼にかけて、そっと被せられた――ような気がした。
(柑橘の香り……)
やさしい香りに包まれる、そのなかで、痛みが和らいでいくのが分かった。
◆◆◆◆
目覚めたとき、暗い部屋の中だった。寝かされている腰と背中がわずかに痛いが、素足に触れる感触はそこそこ柔らかい。……少し固いが、薄いマットレスにシーツが敷かれていること。タオルケットと、薄い布団がかけられていることがなんとなく分かった。足元、その数メートル先……左の壁際から光が漏れている。その向こう側から、誰かの話し声が聞こえた。
「ここは……?」
身体に異常はなさそうである。それでも、なんとなく違和感を感じて首から胸元にかけて触れて確かめたところ、着ているものが、温泉宿に置いてある浴衣のような形をした寝巻きへと変わっているのが分かった。
(いつ着替えたんだっけ……?)
頭がぼんやりして、何が起きたかもまだ思い出せずにいた。自分が置かれた状況について知りたくて、なんとなく、隣の部屋の会話に耳をそばだてる。
「傷の回復には、少しかかりそうということです」
「代わりに使えるヤツもいるだろう?」
「それが、適任者がいない、と……」
「ふん、だったら無理してでも引っ張り出してくることだな。」
ちょっと神経質そうな印象がある声の主は、そこでふと黙った。カツカツカツカツ、と机を固いペン先で突っつくような音が聞こえる。
「……おいレン!起きてるだろう。聞き耳たてる余裕があるなら、とっとと来んか!」
甲高くわめくような声に聞き覚えはない。……が、それは記憶が欠けているせいかもしれない。
(レン、って……私のこと、だよね?)
寝乱れた髪をひとつにまとめる。足元に置かれていたスリッパに足を入れて、小走りで扉に向かった。
(あ、ドアストッパーだ……。)
光が漏れていた扉は、意図的に開かれていたのだ――と、その瞬間に理解した。
◆◆◆◆
「失礼します。」
いかにも仕事部屋という雰囲気の……雑然とした空間だった。中には、二人の男がいる。椅子に腰かけているのは短い金髪を七三分けに撫で付けて、偏光レンズを身につけた細面の男で、眉間にシワを寄せてトントンと指をせわしなく机に打ち付けている。
(うわぁ……。)
あまり長居したくない。できれば、この人とはあまり関わりたくない。そう感じてしまった。
(あ、あの人――)
向かって右奥、壁を背にして立つ長身の男には覚えがある。
「臨……筆頭……教官?」
精悍な顔立ち。艶やかな黒髪の狭間からふっ、と向けられた鋭い瞳は、上質の菫青石のような、深いスミレ色をしていた。
(あれ……?怖く――ない。)
初対面の時に感じた威圧感を、その時の私は、もう感じなくなっていた。
「臨、きさま……!む、向こうを向け!」
陽射しの強い昼でもない、しかも室内なのに偏光レンズをかけている――金髪の神経質そうな男は、へんな風に顔を歪めた――と思ったら、唐突に大声でわめきだした。
「蓮華!さっさと上からなんか羽織らんか!そんな格好で平気で出てくるな!」
なぜ怒鳴られなければならないのか、理解できなかった。下着は着ていないようだが、浴衣のようなものはちゃんと着ていたのに。
(あ、もしかして寒くて風邪を引くって心配してくれたのかな……?)
「心配ありがとうございます。寒くはないので、……?」
金髪の男は口をあんぐりと開けて、なぜかプルプルと震えている。
(!)
バサッと、手元に何かが投げられた。……見ると大きなジャケットで、まだ温もりが残っている。
(臨教官の上着……。)
金髪の男に言われ後ろを向いている。なぜそうしなければならないのかは理解できなかったが、臨教官が紳士的で細やかな気配りもできる人だということは分かった。
(……柑橘系の香りがする。)
借り物のジャケットは、蓮華の指先まですっぽり隠れてしまう大きさで、丈夫そうな生地の割に肌触りがよい。
(無骨な印象なのにな……。)
なんとなく、水谷さんとは対照的なようで、どこか似ていると思った。カツカツカツ、とペン先で机を叩く音がする。
(!)
量販店に上下セットで売られていそうなグレーのスーツはサイズが合わないのか、微妙によれている。白いシャツに、紺とえんじ色のストライプのネクタイ。まさに七三分けにされた短い金髪。アウトドアスポーツの選手がかけているような偏光レンズの影響で、外から目の表情はほとんど見えない。
「座れ。」
彼の言葉の意味が一瞬、わからなかった。正確には、奥に立つ臨に対してか、自分に言われたのか判断がつかなかった。
「座れと言っているんだ。」
「司令。……見回り行ってきます」
臨教官は軽くため息をつくと、そう言ってその場をあとにした。
◆◆◆◆
雑然とした机の上に、飲み口の分厚い湯呑みが載っている。こんなものどこで手に入れたのかと逆に聞きたくなるほど、趣味のよくない柄である。
「記憶をなくしているそうだな。」
ずず、と湯のみに口をつけて、その男は息をつく。
「俺が誰かわかるか。」
先程、臨が言っていた言葉を思い出す努力をする。
「司令……でしょうか。」
「お前の兄だ」
「えっ!?」
反射的に出てしまった言葉に、男は眉間の皺を深くした――。
◆◆◆◆
――というのも、今思えばちょっと可笑しい思い出だ。
「時間的には、まだ、そんなに経っていないはずなのに……」
短期間で色々なことがありすぎて、かなり以前のことのように思えてしまう。
「それだけ、この世界に慣れたってこと、なのかな――。」
その時の水谷のケガはそれほどでもなかったらしい。神経質な次兄、竜司令に呼び出されて結局その場に駆けつけてきた。――相変わらず、狐のお面で顔の上半分を隠したまま。
(上司の前でもお面のままなのは、さすがにビックリしたけど……)
ひどく神経質な竜司令は、なぜかその点は咎めることもなく――相変わらずヒステリックに怒鳴り散らしていたものの、飄々と、ふざけた感じで返す彼と言い合っていたのが印象に残っている。
(意外と仲良しみたいだった……)
言葉の表面ではない部分で、何となくわかることはある。ケンカしているように見えても、厳格な縦社会のなか、上司と部下、しかも上司側の妹の目の前で、言い合うことができる……それは、心根の部分では信頼し認めあう関係でなければなし得ないことのような気がする。そしてもうひとつ、分かったことがある。
(水谷さんは……私に隠してることがある。)
担当とはいえ上官である、まだ研修期間の蓮華には想像もつかないような任務があるのかもしれない。彼が自分に全てを打ち明けているわけではないこと、あえて打ち明けないことがあったとしても、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。そう思いつつも――何となく引っかかるものがあった。
(とりあえず、寝よう……)
明日は緊急で朝会が入ると思うから、早く寝ておいた方がいいよ――と、水谷から言われていた。