9.傲慢令嬢の手料理
クラウスが目を覚ますと、見知らぬ粗末な天井があった。
ひどい頭痛に顔をゆがめながら、なんとか身体を起こす。背中にじくじくとした痛みがあったが、触れてみるとなにも不自然なところはない。
とんとんとなにかを切る音が響いている。ふと見ると、部屋の奥のほうに調理場があるようだ。
そこには粗末な服を着た女がひとり立っており、なにかをこしらえている。食欲のわく、優しい香りが鼻をくすぐった。
「あら、お目覚めかしら」
その声には聞き覚えがあった。だが、声の色がクラウスの知るそれとは明らかに違い、彼は警戒に身を硬くした。
「なによ。その亡霊を見るような目は」
女はさくらんぼのようにつやつやとしたくちびるを尖らせた。
「--俺は、死んだのか?」
「寝言は寝てから言ったらいかが? あなたは死んでいないし、ここは森の奥地よ」
女はふたたび背を向けて答える。
「森の奥地だと? じゃあ君は、生きていたのか……」
クラウスの胸には己の無知を恥じる気持ちと、彼女が無事であった安堵感が広がり、涙となって溢れだしてきた。
「いやだ、あなたったらどうして泣いているの? 気持ち悪いわ」
フラヴィアが眉根を寄せた。
だが、その耳は赤く、こころなしか嫌そうには見えなかった。
「ほら、さっさと食べなさいよ」
目の前には、欠けた器が置かれた。
その中には白くどろどろしたものが入っており、ジャムが添えられている。見た目は不可思議だが、においは決して悪くはない。
それから、干し肉のようなものときのこ、葉ものの入ったスープ。金色のスープの中には卵が落とされており、とろりと半熟に固まっていた。
「これを君が?」
クラウスが尋ねると、フラヴィアは顔を背けた。
そして調理台の方へ戻り、かちゃかちゃと静かな音を立てて、食器を洗い始めた。
「--甘いな」
フラヴィアが作ってくれたのは、パンを切ってミルクで煮た粥であった。
パンはとろりとやわらかく、するすると喉を通る。
上にかけられたジャムはいちごや桃など、さまざまな果物の風味がした。
クラウスは戸惑っていた。
目の前の女は、本当にあのフラヴィア・ミューヴィセンなのだろうか。
公爵令嬢とは思えぬ、素朴な服に身を包み、髪の毛は見たことの無い形に長く垂らすようにして編み込まれ、小花が飾られている。
雪のように真っ白だった肌は、いつか王城で見た時よりも健康的だ。
何よりも、あのフラヴィアが料理をしている。ーー使用人のことを虫のように扱ってきた、あの傲慢な女が。
「おまえがどうして料理なんか、なんて思っているのでしょう?」
フラヴィアは振り向かずにこぼした。
心を見透かされたようで、クラウスはどきりとする。
「ここで暮らしてみて、わたくしは、あまりにも無知で傲慢だったと気がついたのよ。
自分が生まれながらの特別な人間だと奢っていたけれど、実際には、さまざまな人に助けられ生かされていたのだ、と。ーー滑稽でしょう?」
それからこちらに向き直り、泣きそうにわらった。
「やり直せるものなら、やり直したいわ」
それは、クラウスが生まれて初めて見る、信じられないくらいの美しいものであった。
気がつくとクラウスは、フラヴィアの手を握っていた。
彼女はきょとんと掴まれた手に目をやり、それからみるみるその頬を紅潮させていった。
「じょ、女性に許可もなく触れるなんて、ぶ、無礼よ!」
「フラヴィア嬢、ともに王城に戻ろう」
フラヴィアははっと顔を上げた。
それからクラウスの手から、するりと華奢な腕を抜き取り、うつむく。
「それは無理よ。わたくしは、濡れ衣を着せられて捨てられたのよ?
どのような醜聞になっていることか」
「君こそが王妃になるべき人間だ!」
クラウスはそう言い、それから、心のどこかになにか棘のようなものがあるのに気づいたが、--続けた。
「今の王城は腐敗している。モニカ・バルベリは兄だけでなく多くの側近まで誑かし、堕落させている。
それどころか、君のように濡れ衣を着せられ、森に捨てられた女性もいたのだ」
「なんですって……?」
フラヴィアはまなじりを吊り上げた。
「私がここに来たのは、恥ずかしながら、一年経ってはじめて、君の身に起きたことを知ったからだ。
森の中でティベリア嬢に会った」
「ーーそう。ティベリアが。あの子は、わたくしが唯一友と呼べる人だわ」
彼女は気の毒そうに眉を寄せた。
「ティベリアは無事なの?」
「ああ。君の父上がすぐに見つけて保護してくれていた」
クラウスは、フラヴィアの顔色が変わったのには気づかずに続けた。
「お父上は一年経った今も、君のことを捜しているのだ。
君には確かに居場所がある。一緒に戻ろう」
俯いてしまったフラヴィアに寄り添うようにして、クラウスは言った。
「フリフラヴィアリアは連れていかせないわ」
入り口から飛び込んできて、フラヴィアとクラウスの間に割り込んだのは、複雑な色彩と翅を持つ妖精であった。
クラウスは初めて見る妖精の姿に驚き、固まった。
妖精はまるで猫のようにこちらを威嚇している。
「チェリー……」
チェリーと呼ばれた妖精は、クラウスを睨み続けていたが、やがてぷっつりと糸が切れたように崩れ落ちた。
それは突然の出来事で、小屋の中に、フラヴィアの悲鳴が響いた。