8.森の拾い物
その日、フラヴィアは、奥地と集落との境界に、男が倒れているのを見つけた。
後ろでゆるく縛られたつややかな黒髪にどきりと胸が嫌な音を立てる。
おそるおそる近づくと、その髪はゆるやかに波打っており、頭に浮かんだ人物のものではなかった。
ーーかつての婚約者の弟、第二王子クラウス・ルスリエースであった。
フラヴィアは眉を八の字にした。この男のことは嫌いだったのだ。
フラヴィアより年も下だというのに、会うたびに苦言を呈してくるからだ。
やれ民の気持ちを考えろだの、使用人にも感謝の心を持てだの。
妙に暑苦しいその思考も、フラヴィアの美貌など気にもならぬといったような飄々とした振る舞いも、すべてが生意気に思えた。
だが、今ならわかる。
彼の言っていたことは、確かに正論であった。
フラヴィアは、森笛を吹いた。
これは黒曜の実に穴を開けてつくるもの。
村の男たちの一部しかつくることができない特別な製法で、吹き方によって違う内容の連絡ができる。
今、フラヴィアが吹いたのは、助けを求める緊急の音であった。
はじめて耳にする森笛の音は、きーんという高い音であった。
ふいにばさばさと鳥たちが飛び立ち、森全体が揺れたかのような錯覚を覚えた。
それにしても、と、フラヴィアはうつ伏せに倒れた男を眺める。
固く閉じられた瞳は本来、つり目がちの三白眼で猫のようなのだが、今はただ苦しげだ。
男の背中には袈裟懸けに斬られた跡があり、傷はかなり深い。
何が起こったら、王子がこんな森の奥地で死にかけるのだろう。
フラヴィアは淡々とそんなことを考えつつ、ちょうど採取したばかりの、キャンディフラワーの葉から落ちた朝露を、その傷に振りかけてやった。
それから、チェリーに教わった癒しの歌を、つぶやくように舌に乗せる。
すると、傷口が白く光り、ゆるゆると再生していった。
知らせを受けた妖精たちが武装して飛んできたのは、それからすぐのことであった。
男の倒れていた場所がここだったのは僥倖だ。
彼の頭は妖精の領域に、足は人間の領域にと、境界をまたぐようにして伏していたのだ。
あとわずかでも向こう側であったなら、あるいはフラヴィア以外の者が彼を見つけていたのなら、きっと命はなかっただろう。
妖精は基本的に、人間には不干渉をつらぬくし、人間の領域までを見通す力はフラヴィアにはなかった。
こうして外に出たのもたまたまなので、まさに奇跡のようだった。
森の奥地には、人間が知りえぬ境界線がある。
たとえば特殊な形のきのこであったり、どんぐりの落ち方の配置であったり。
こうしたものは不思議と人間の目には止まらず、風景の一部として素通りされるのだ。
フラヴィアがくぐってきた鉱物のトンネルもまさにそうであった。
そのような森の地図の見方を覚えるだけでも、フラヴィアは一年もの月日を費やした。
ところがチェリーときたら「フリフラヴィアリアったら、たった一年で森地図を読み解いたのよ!」と、周りに、吹聴して回ったのだった。
クラウスを保護することに妖精たちは反対した。だが、チェリーに頼み込むと、少し悩んでから承諾してくれた。
「あたしたちの最後のわがままだから」
そう言った説得の決め手は、フラヴィアの耳には届かなかった。