触覚が生えたので婚約破棄しましょう。
婚約破棄ものを書きたかったのですが、何か間違えた気がするのは気のせいではないですね。たぶん。
清々しい朝の空気。賑やかな小鳥たちのさえずり。カーテンを揺らす柔らかな風。今日という一日を迎えられたことに感謝をこめて。
ふだんと何も変わらない平和な一日の始まりにおいて、私の周りの使用人たちは妙にそわそわ、私の頭上をチラチラ見やり、哀れみとも困惑ともとれる表情を浮かべていた。
「これは....触覚.....?」
朝目が覚めて、どういうわけだか私の頭上を凝視して固まっているセバスチャン。視線の先を追って頭に手を伸ばし、それの存在を認識した。
そこに生えていたのは長さ20センチほどの一本の触覚。髪が綺麗に束になって先端にいくにつれて細まり、それは見事な曲線美を表現していた。ためしに横に倒してみたが、形状記憶をしているのかすぐにビョーンと元に戻る。風にも負けず、力強く大地に根をはっているようだ。たくましいたくましい。
メイド頭のアンヌが部屋に入ってきた瞬間に驚きのあまりモーニングティーを落としそうになり、それをセバスチャンが素早く支え、ほっと一息ついたところで私は改めて今の状況を受け止めた。今日は午後から婚約者のフリッツ王子が我が家にお見えになる。この頭を見たらどう思われるだろうか。
「ふむ、どうしたものかしら...」
静かに紅茶を啜りつつ、私は頭のそれをビョーンともう一度引っ張ってみた。
...なんか可愛い。
◆
家族そろっての朝ごはん。
いつも静かなお父様とお母様も、私が座席につくとあからさまに目を丸くして驚いていた。
「イザベラ、頭のそれはどうしたんだい?」
「朝起きたら生えていました。」
「...そうかい。朝起きたら...」
それっきり口をつぐんでしまったお父様は、どこか興味深そうに触覚を凝視、いや観察している。昔研究者として王宮に勤務していた時期があるため、未知の生きもの(?)を見て、探求心が湧いてきたとかそんなところだろうか。
「イザベラ、頭のその子は...」
「はい。」
「リボンとかつけてみてもいいかしら?」
フラワーアレンジメントが大好きなお母様は、触覚を植物のように思っているのだろう。確かにその辺に生えてる雑草並のたくましさはある気がする。「いいですよ」と返事をかえして、私は白パンをちぎり口にほおりこんだ。
(今日も我が家は平和だ。)
◆
少し自己紹介をしようか。
お母様ゆずりの黒いストレートの髪にお父様ゆずりの濃紺の瞳をもつ私、イザベラ・ユリーシスは、貴族社会を織りなすほんの1人の令嬢にすぎない。
とりたてて秀でた能力があるわけでもなく、特別美しい容姿をしているわけでもない。幼い頃から習っているバイオリンも趣味というには程遠い出来栄えだ。
そんな私に唯一自慢できることがあるとすれば、婚約者のフリッツ・レオナルド様の存在だろうか。この国の第一王子である彼に、10歳の時にどういうわけだか婚約を申し込まれ、男爵令嬢である私は断ることも出来ずそのまま今に至っている。
いまだにどうして彼が私を婚約者に選んだのかは分からない。が、おそらく何かの手違いで間違えて私に婚約を申し込んでしまい、本命の方がほかにいることを言い出せず、今まできてしまったとかそんなところだろう。
フリッツ様は人徳にあふれた素晴らしい方なので私にもとても優しく接してくれているが、タイムリミットは近づいている。あと3カ月で私は18歳、婚約を破棄するならもう時間はない。
(私から切り出した方がいいのかなぁ...)
廊下を歩きながらふと、窓ガラスに映る自分の顔が目にとまった。
昨日までの私とは明らかに何かが違う。頭の上には異様な存在感をはなつそれ。
(...そうよ、これを理由に婚約を破棄してもらえば....!)
そもそも初めから私が王子の婚約者にふさわしいなんて、これっぽっちも思っていない。頭のこれを理由にすれば、フリッツ様も自責の念に駆られることなく、きっと清々しい婚約破棄ができることだろう。我ながらいいひらめきだわ。
青いドレスを身に纏い、触覚にリボンを結んでもらうと(お母様に)、私は大きく息を吸い込んでフリッツ様の待つ応接室へ向かった。
◆
「フリッツ様、ようこそおいでくださいました。」
「イザベラ。あなたも元気そうで何よ....、」
ソファーから立ち上がって私に歩み寄ろうとしたフリッツ様は、三歩目でその歩みを止め笑顔のまま固まった。が、さすがこの国の第一王子。すぐさま硬直を解き、何事もないかのように手を差し伸べてきた。
「あなたも元気そうで何よりです。今日は私が以前送ったドレスを着てきてくれたのですね。とてもよく似合っていますよ。」
「ありがとうございます。」
基本的にユリーシス家の人間は無口である。お父様とお母様とは目だけで会話できるので日常生活に何も問題はないのだが、フリッツ様とはそうもいかない。伝えたいことはきちんと口にしないと伝わらないのだ。私は唾をのみこんだ。
「フリッツ様。今日はあなたにどうしてもお話したいことがありまして。」
「イザベラがですか?なんでしょう。楽しみですね。」
柔らかな笑みをくずしてくしゃっと子犬のように笑うフリッツ様は、あまりにも眩しすぎて思わず後退りそうになる。この笑顔に何度やられそうになったことか。彼に恋するご令嬢だったら卒倒していただろう。
しかし私はあくまでも偽の婚約者。彼の隣に立つのは私ではないはずだ。
「単刀直入にお聞きします。私の頭の上に何が見えますか?」
「え...っと、リボンでしょうか。」
「違います。触覚です。」
「......」
「触覚です。」
断固として言い切った私にぽかんとしているフリッツ様。私は繋いでいた手を離し、頭上のそれにそっと手を添えた。うん、相変わらず元気元気。
窓のそばに立って少しだけ俯き、手を目頭に添えた。こうすると泣いてるように見えるとアンヌが教えてくれたのだ。
「...朝目が覚めると生えていたのです。どんなに頑張って撫でつけようとしても倒れてくれませんでした。このような見た目ではもう恥ずかしくて、フリッツ様の隣を歩くことはできません。...ですからフリッツ様。どうか私のことはお気になさらず、婚約を破棄してください。これは私の最後の望みなのです!」
久しぶりに長いセリフを喋ったせいか息が切れる。肩で息をしながらフリッツ様を振り返った。
「.......」
どういうわけだかフリッツ様の肩が震えている。
「あ、あの。フリッツ様...?」
「ふっ、ふはははははははっ!」
急に笑い出した。
私はというと完全にパニックである。何かおかしなことを言っただろうか。思い当たる節は何もない。
「ふっ、しょっ触覚っ、ふはははははははは!ふーっ、...ふははははははは!」
「.....」
だめだこれ。
私ではどうすることもできないので、廊下にいる使用人を連れてこようかとくるりと後ろを向いた途端、手首を王子に掴まれた。
「どこ行くの?」
気のせいだろうか。目が座っていらっしゃる。
「え、えっと使用人を呼びに行こうかと。」
「今は俺とイザベラだけの時間でしょ。その必要はないよ。」
そのままソファーに連行すると、隣に腰掛けて王子はじぃーと私の目を見てきた。気のせいだろうか。目が座っていらっしゃる。
「婚約破棄?そんなものするわけないでしょ。今更君を手放すつもりなんてさらさらないよ。」
どうやらフリッツ様は真剣なようだ。この際なので私も真剣に、思っていることを聞いてみることにした。ソファーに座り直し、フリッツ様を正面から見つめる。
「お言葉ですが、本来婚約とは本当に愛している方とするべきものです。それを私と結ぶのは手違いではないでしょうか?フリッツ様はお優しい方ですから、婚約を破棄すれば私が傷つくかもしれないと心配しているのかもしれませんが、その必要はありません。私が18歳になるまであと3カ月。もう時間が無いのです。手遅れになる前に、本当に愛している方と婚約を結んでください。」
「.......」
フリッツ様はしばらく大きく目を見開いて驚いた表情で私を見ていたが、やがて脱力したように、その場にうなだれて頭を抱えた。
「....えーっと、つまり?俺の気持ちは全くイザベラに届いてなかったってこと?」
「はい?」
フリッツ様の気持ち?一体何のことだろうか。
「........」
「あの、フリッツ様?」
「......はぁぁあぁ。」
盛大なため息をついてフリッツ様が顔を上げる。その表情には何かを諦めたような、振り切ったようなそんな色が浮かんでいた。
「あのさ、嫌なら突き飛ばしていいから。」
何の話ですか?と尋ねるよりも先に、私の体はフリッツ様に抱きしめられていた。頬を髪にすり寄せ、背中に回された腕にぎゅっと力が入る。突然のことに顔が熱くなるのが分かった。
「ちょっちょっとフリッツ様!ん....っ」
「...本当はずっとこういう風に抱きしめたかったんだ。君に一目惚れした日から、一日だって忘れたことはなかった。」
低くかすれた甘い声が耳元で震える。
「どうせイザベラは覚えてないんだろうね。俺の9歳の誕生日パーティーの日のこと。」
「...誕生日パーティー?」
抱いていた腕を解き背中から肩に手を回すと、目線を合わせてフリッツ様は懐かしそうに微笑んだ。
「まあいいんだ。君が覚えていなくても。俺は絶対に忘れないし、第一王子という権力をふりかざしてやっとの思いで君と婚約を結ぶことができたんだ。」
(いや、権力乱用はだめだろ。)
心の中でツッコミをいれつつ、とろけるような笑みでこちらを見てくるフリッツ様から自然と目を逸らしたい衝動に駆られる。だから目が座っていらっしゃるんだよなぁ。
「とりあえずそういうわけで。」
「どういうわけで?」
「触覚が生えたごときで婚約破棄はしないから。」
「はぁ、さいですか...。」
「ていうかイザベラ、俺のことそんなに嫌いなの?」
「いえ、嫌いというかそもそも関わるのがめんどくさいというか。」
「...分かった、分かったからもうそれ以上何も言わないで。」
またも頭を抱えているフリッツ様。表情がコロコロ変わる人だ。
ちょっと面白いかもしれない。
「よしわかった。それじゃあ3カ月以内に、俺のことを好きにならせてみせる!」
今度はふんすと意気込んでソファーから立ち上がった。そのはずみでソファーが大きく揺れる。...立ち直り早いな。
「そうですか。せいぜい頑張ってください。」
「ねぇイザベラ。気のせいかもしれないんだけど、なんか俺へのあたり冷たくなってない?」
「フリッツ様こそ、キャラブレブレだと思いますよ。」
こくりと一口飲んだアップルティーからは爽やかな香りが漂ってくる。窓から吹きこむ柔らかい風が頭の上の触覚を優しく撫でた。あと3カ月ほどすればこのあたりの地域は黄金色に染まった小麦畑でそれは美しく彩られるだろう。
「3カ月後が楽しみですね。」
「え、なんか言った?」
カップの底に残った紅茶を飲み干して、私は目を細めた。触覚から始まった1日がもうすぐ終わりを迎えようとしている。
(今日も平和だ。)
頭の上でそいつが、小さく揺れたような気がした。