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「それじゃあ、留守を頼むよ」
そう言って、カイラスは名残惜しそうに私の頭を撫でた。
彼が仕事で遠征に行くと決まったのは、あの話し合いをしてからすぐのことだった。
補佐を務めるヒックからはとても感謝され、執事のウィルソンからはご褒美にとこっそりケーキをおやつで用意してもらったり。
気のせいかな? 今後もなにかあったときにはお願いします、という見えない圧力を感じたんだが。
ははは、私がカイラスを手懐けられるわけないだろう。彼の言葉ひとつで振り回されまくりなのに。自分のちょろさに泣けてくるわ。
「本当に、大丈夫かい?」
「はい」
私はしっかりと頷いた。
正直、不安じゃないと言ったら嘘になる。
だってここは、私の家じゃないし知らない土地だ。
カイラスは私の家でもあると言ってくれるけど、至れり尽くせりの生活の中でそれを感じるのは難しい。欲しいと思った物もすぐ手に入ってしまうし、彼もよかれと思ってなにかと贈り物をしてくれるし。
恋愛抜きにしても、大事にされてるのは身をもって感じている。
本当に、なんでこの人は私なんかを選んだの?
つくづく疑問しか残らない。
一応私も伯爵家の娘だけれど、カイラスのように広大な領地を持っているわけでも富豪でもない。父のおかげで何不自由なく暮らせているが、周りの令嬢と比べたらそこら辺の田舎娘に過ぎないわけで。
そう、私がこの屋敷にいる状況になったのはすべて父が原因なのだ。
会ったらとりあえず腹に一発決めよう。話はそれからだ。
「今回は一週間ほどで戻れると思うけど、長引く可能性もなくはないから……先に言っておくよ」
「はい」
「……すまない、いきなり長く留守にしてしまって」
「いいえ、大事なお仕事ですから」
さすがに、ここまで来て行かないでください、なんて言えるはずがない。言うつもりもないけれど。
「私が留守の間も気にせず屋敷で過ごしてもらってかまわないから」
「え?」
「遠慮しなくていい。みんなにもキミの好きにさせるよう言ってある」
「……それって、なにしてもいいんですか?」
「……アイラは良い子だからね、悪いことはしないだろう?」
優しく微笑んで、カイラスは手を伸ばすと私の頬に触れた。
今日も眩しいなぁ。空は曇ってるのになぁ。おかしいなぁ。
目線を逸らしながら、触れている手をさりげなく避けようと、した。したんだ、確かに。
でもそれよりも早く、カイラスの手が私の首に回り楽々と抱き寄せてしまった。
すっぽりと腕の中に包まれながら。鼻先に触れた彼の着ているシャツから爽やかないい匂いがして。
無になれ、アイラ、無になるんだ。
「一週間もキミと会えなくなるなんて、寂しいよ」
「……っ」
息しろ、アイラ、息をするんだ。
「だから忘れないように……ほら、顔をよく見せて?」
あかん、死ぬ。
無理だ。こんなの無理。無理すぎて無理。
私は気が動転して、彼の言葉を拒否するために触れていたシャツに顔を埋めた。
わあ、めっちゃいい匂い。うん、バカか。
「アイラ?」
「……無理です」
「…………少しは慣れたと思ったんだけどな」
「無理です、勘弁してください」
皺になるとも気づかずに、カイラスのシャツを握り締めて私は精一杯の言葉を返した。
彼が小さく笑ったのが触れている箇所から伝わって、余計に羞恥に見舞われる。
「心配だな。久しぶりに会ったときキミが逃げそうで」
「……そ、そんなこと」
「……しない?」
「ひっ、」
わざわざ私の髪を耳にかけて、吐息混じりに囁くなんて。
距離を取りたいのに、背中と首に回った手が逃げることを許してくれない。
仕方なく、もうやめてと言いたくて顔を上げると、楽しげなカイラスの顔が見えた。
前に愛でるのが好きと言っていたが、意地悪するのが大好きの間違いではないか?
「か、からかわないでください」
「からかってないよ。私はキミの顔が見たかっただけさ」
「…………」
ああ、うん。通常運転ですね。口説いて、額にキスして、抱き締めて。
私だけが顔を真っ赤にさせて、身体ぷるぷるさせて泣きそうになるんだ。
そして、極めつけの「可愛い」まで頂いた私の心臓は、もう溶けてなくなるのではないだろうか。
「離れがたいな……」
そう言いながら、本当に困った顔をしているカイラスに、私は伝える言葉を探した。
私が耐えきれなくなる前に早く行ってくれ、とはさすがにこの顔を見たら口にはできない。
「気をつけて、行ってきてくださいね?」
「……ああ」
「あ、の、待ってますから。ここで」
なんだかものすごく照れた。別に恥ずかしがるような言葉じゃないのに。
でもカイラスは嬉しそうに笑って、もう一度私を抱き締めた。
その顔に絆されたわけじゃないけれど、ちょっとだけ勇気を出して背中に手を回すと、離れる間際で頬にキスされた。うん、もうしない。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「はい……行ってらっしゃい」
軽く手を振ってカイラスの背中を見送る。
用意された馬車に彼が乗り込むと、そのまま直ぐに出発してしまった。
あれほど出るまでに時間がかかっていたのに、出てしまうとあっという間に姿は見えなくなってーー。
後ろを振り返ると、リラが心配そうに私を見ていた。
「アイラ様、大丈夫ですか?」
「リラまでそんなことを言うの? 平気よ」
「本当です?」
「ふふっ、本当よ。リラは心配性ね?」
あの話し合いのあと、部屋に戻ったらリラは号泣していた。
私のせいでお二人が離婚なんてことになったら……っ、となにやら飛躍して考えてしまったらしく、宥めるのに時間がかかった。
そもそも結婚してねぇから。
この屋敷の人間は、私を奥様として見すぎではないか。婚約者ね、婚約者。一応ね。そこ重要だから。
「アイラ様、旦那様が出かけられたあとすぐに話があると仰っていましたが……私に何用でしょうか?」
屋敷の中に戻ると、ウィルソンが恭しく頭を下げて声をかけてきた。
カイラスの父親の代から執事を務めているらしいが、執事歴が長いだけあって、子供のような私が相手でも丁寧な態度は一切崩さない。逆に丁寧すぎてこちらが恐縮するくらいだ。
「ウィルソンさん」
「どうぞウィルソンとお呼びください、アイラ様」
このやり取り何回目かな。
でも私はここで折れるわけにはいかないのだ。
ウィルソンを呼び捨てにしてしまったら、家政婦のマチルダや料理長のガースもそう呼ばなければならなくなる。
カイラスよりも年上で、長くこの屋敷を守ってきている人達を、期間限定で図々しく屋敷に滞在してるだけの私が、そんな呼び捨てでなんて呼べるわけがない。
せめて「さん」だけはつけさせてほしい。
「えっと、ウィルソンさん」
「…………はい」
あ、今日はすんなり引いてくれた。いつもはこのやり取り何度か繰り返すのに。
「実はお願いがありまして」
「お願い、ですか?」
「私、学園でそれなりにマナーとかいろいろ学んではきているんですけど……卒業してからはサボりがちというか、いろいろあって家に籠っていたというか」
「はい、存じております」
ーーですよね。
私が婚約破棄されたことなんて筒抜けですよね。
「……えっとですね、それで、その……もっとちゃんとやらなきゃならないなと思いまして。マナーとかダンスとかいろいろ、しっかり身につけたいなと」
「……それは、旦那様のためでしょうか?」
ウィルソンがにっこりと笑顔で聞いた。
なにその生暖かい目は。孫を見る目かそれは。
私は少し恥ずかしくて目を泳がせながら頷くと、ウィルソンはさらに笑みを深くした。
「そうですか。では、すぐにでも講師を呼びますか?」
「こ、講師?」
「はい。時が経てばアイラ様も共にパーティーへ行くことが増えるだろうと、旦那様と以前から話はしておりましたので、いずれダンスの講師は雇うことになっていましたから」
「えっ、そうなんですか? 全然知らなかった……」
「まずはアイラ様のご実家にきちんと出向き、ご挨拶をして落ち着いてからにしたいと旦那様が仰っていたので、伝えていなかったのだと思いますよ」
ああ、そうか。実家に挨拶をしたいというのは婚約の話を受けたときにカイラスが言っていた。
ちゃんと彼は考えてくれている。私のペースに合わせて。慌てないようにと。
「あの、講師を呼んでしまうとカイラス様の言いつけ破っちゃいますけど……いいんですか?」
「旦那様より、留守の間はアイラ様の好きにさせろと仰せつかっておりますゆえ、ご心配はいりません」
つまり、したいなら好きにやれと。
微笑むウィルソンと目が合う。
きっと、私の考えはお見通しなんだろうな。
いない間に、少しでもカイラスにつり合うように頑張ろうなんて。
いつもしてもらってばかりだから、せめてできることを。
なにもしないでいい女になれるわけがないから。
あの人を悔やませたいと思って願ったことだけど、その気持ちに変わりはないけれど、でも。
カイラスのためになにかしたいと思っているのも嘘じゃない。
「じゃあ、お願いします」
「かしこまりました。アイラ様のためにすべてのマナーに秀でたスペシャリストをすぐご用意いたします」
「す、すぺ……?」
な、なんだって?
お任せください、とまた恭しく頭を下げて、ウィルソンは静かに去っていった。
傍にいたリラを見ると「ウィルソン様、とってもご機嫌でしたね」と不思議そうに言われて驚く。
確かに嬉しそうに笑ってはいたけど。ご機嫌だったのか。
「けれど、まさかカイラス様の留守の間に講師を呼んで学ぼうだなんて、アイラ様素敵です!」
「え?」
「だって学ぶのはカイラス様のためですよね? ふふっ、愛ですね」
ち、違う。リラ、違うよ。
うっとりと頬染めて可愛いけど、そうじゃない。しっかりしろ、リラ。それは勘違いだ。
「私も、カイラス様が帰ってこられるまでにアイラ様をさらに美しくできるよう頑張りますね!」
「う、うん……?」
まずは美容に関する情報をもっと手に入れないと、と一人やる気に満ちているリラに、私はなにも言えず頷くしかなかった。
そして、ウィルソンが見つけてきたスペシャリストが、王族も信頼する凄腕の講師だと耳にするのは翌日のことである。
R15のラインを本気で気をつけて書かないと。
このイケオジほんと、ほんと気抜くと危ないから。