疾風怒濤 前編
王都アディノポリスの貴族街区画の一角に、やたらと警備が厳重な小さな館がある。
リーズの生家――ストレイシア男爵の家だ。
王宮から派遣されてきたそれなりに位の高い兵たちが、玄関はもちろん、裏口から庭、ベランダまで、ありとあらゆる空間に5人一組以上で警備態勢が敷かれていた。
ここまで警備が厳しい理由は、ほぼ公然の秘密となりつつある「第二王子セザールと結婚するリーズの家族を保護するため」とは言われているが、もちろんそれは表向きの理由であり、実際のところはリーズの家族を軟禁するのが目的であることは誰の目から見ても疑いようがない。
そんなリーズの実家は、以前であればリーズの母親マノンが常に在中していて、ほかの家族は仕事やら学業やら冒険者やらで家に帰らないことが多かった。
父親のフェリクスは仕事柄遠征が多いせいで一度家を空けると1か月以上は戻ってこなかったし、リオンとフィリベルの兄弟は近衛兵を率いているので王宮の兵舎に滞在しっぱなし、そして何よりリーズは冒険者となってから一回も家に帰ってきたことがない。
リーズの姉ウディノは比較的家にいる方だったが、学生になってからは学生寮に入らなければならないので、やはり家にいる時間が大幅に減った。
要するにこの一家は(母親を除いて)ナチュラルボーン帰宅キャンセル派なのであった。
だが、今は以前のような雰囲気はない。
マノンがウディノとともに失踪し、代わりに諸々の事情で強制的に休暇を取らされた父親フェリクスが妻の代わりに留守を担っているのだが――――
「332……333……334……335……」
(ここ数ヶ月ずっとトレーニングか。よくもまあ飽きないものだが……)
(この人は一体何になる気なんだ?)
護衛兵(という名の監視役)たちが見守る中、リーズと同じ鮮明な赤色の髪の壮年男性は、上半身裸で腕を使わない腕立て伏せという控えめに言って意味不明な筋トレをしていた。
この男、年末にエノーと会話した時はまだ「がっしりした筋骨隆々の武人」といった姿だったのだが……リーズの母親と入れ替わるようにして家に軟禁されてから、あまりの退屈さと、時々訪ねてくる第二王子派貴族の要求にストレスが溜まり、気が付けばほぼ一日中筋トレに励む生活となった。
勇者リーズの父親だけあって、フェリクスがひとたび筋トレに没頭すると、見る見るうちに全身にものすごい筋肉が付き始め、既存のトレーニングがすぐに物足りなくなると言って、かなりハイペースに負荷をかけていく。
その結果、肩幅は急激に広がり、腕も2倍以上太く、足も丸太並みという、立派な筋肉モリモリマッチョマンの怪物が出来上がったのだった。
「498……499……500……っ! ふぅ、腹筋と背筋はこんなものだろう。次は腕と足だ…………」
「あの、フェリクス殿……お取込み中恐縮ですが、セザール殿下からの使者が参りました」
「ふん、またか。今は忙しいと言っておいてくれ」
「いえ、もうこちらに来られていまして」
「主人の許可なく勝手に通すか。まあいい」
次のメニューに移ろうとしたところで、新たに王宮から派遣された使用人から第二王子からの使者の来訪を告げられた。
以前のフェリクスであれば、第二王子からの使者となれば平身低頭で迎えざるを得なかったが、筋トレのし過ぎで思考が吹っ切れてきたのか、近頃は第二王子からの使者が来てもぞんざいに扱うことが多くなった。
内容もいつも通りだろうということで適当に追い返すよう命じるものの、使用人はフェリクスの許可を取らずに通してしまった。
「そなたが第二王子殿下からの使者か、用件は前と同じか?」
「は、はい……その…………」
「こちらは今、王国を守る武人としての鍛錬に忙しいのだ、手短に頼む」
いつもは第二王子の威光を笠に着て威張り散らす使者だが、上半身裸で片手に大きな鉄の球を握りしめているマッチョを目の前にすると、すっかりしり込みしてしまった。
フェリクスは内心で「やはり筋肉はすべてを解決するのだな」と改めて思った。
「せ、セザール殿下は……勇者様との婚姻を確固たるものとすべく、勇者の父親であるそなたへ、こちらの書類に署名をと……」
「やはりか。私は前にお伝え申したはずだ、婚姻をするのであれば、本人同士で同意すべきだ。父親が紙切れ一枚で子供の婚姻の是非を決めるべきではないとな」
「で、ですが、ここでそなたが署名をすれば、ストレイシア男爵家はセザール殿下に取り立てられ、栄達は間違いなし……その気になれば、一足飛び出公爵叙任も夢ではなく――――」
「ふん」
「!?」
フェリクスは突然、手に持っていた鉄球に力を籠めると、鉄球にビシビシとヒビが入った。
あまりにも人間離れした握力に、使者は驚きのあまり思わずフェリクスから遠ざかった。
「ああすまない、つい力んでしまってな。まったく、この世のものは脆すぎる、この鉄球も買い替えねばならんな」
「あわわ……」
「ん、どうした、そのように後退って? なるほど、もう帰るということか、そなたも随分忙しいようだし、引き留めはせぬからもう帰ってよいぞ」
「ま、まてまてまて! 無理やり帰らそうったって、こっちも手ぶらじゃ帰れないんだよ、察してくれよ!」
「知らんな」
パニックのあまり、使者はとうとう本音を吐露する。
なんだかんだ言って、彼もまた上の貴族たちからフェリクスの署名を得てくるまで帰ってくるなときつく言い聞かされている。
署名をもらえませんでしたとおめおめ帰るようでは、子供のお使いと何ら変わらない。
「とにかく、そなたから署名をもらえるまで、私は何日でもこの家に居座ってやる。どのみち勇者様はセザール様と婚姻することは確定なのだから、さっさと認めてしまえば…………うん?」
「ん、別の来客でもあったか?」
使者がごね通そうとしたところで、何やら玄関の方で騒ぎ声とドタバタ音が聞こえてきた。
フェリクスたちと居合わせていた兵士たちがいぶかしがっていると、居間の扉が勢いよく開かれ、武装した貴族や騎士たちが現れた。
「な、なんだ貴様ら!? ここをどこだと思っている!?」
「お前には用はない、用があるのはフェリクス殿だ」
「馬鹿なことを言うな! 今は俺が大事な交渉中でヌフウッ!?」
乱入者たちに抗議した使者の男は、先頭に立っていた老齢の貴族から腹部に強烈なリバーブローを叩き込んだ。
使者は激痛とともにその場に崩れ落ち、強制的に道を開けさせられた。
「誰かと思えば……シャストレ伯爵殿か。伯爵殿とはいえ、アポイントも取らずに押し入ってくるとはいったいどのような了見でしょうかね」
「久しいなストレイシア男爵フェリクス。あの娘の葬儀以来であるが、随分と様変わりしたものだな。てっきり、娘が気に入らない男と勝手に婚約を結ばされ、憔悴しているかと思っていたが」
シャストレ伯爵マトゥーシュ――――結婚式の日に婚約者を第二王子に奪われ、そして殺された悲しき男が、フェリクスの前に立ちふさがるように語り掛ける。
「貴公をジョルジュ殿下が欲している。何も言わずに我々に同行してもらおう」




