不沈艦
今日も腕によりをかけたパンがいい香りを立てている。
パン屋の主人は満足そうに目いっぱいに息を吸い込む。ああ、やっぱりいい。
パンのにおいは最高だ。
これだけで幸せになれる。もう充分に幸せだ。
朝になるとこのにおいに釣られて、ぞろぞろとお客さんがやってくる。
モーニングセットは珈琲と一緒に。
今日は出来立てのクロワッサン。偶然手に入った卵もつけよう。
窯から出したピザ、チーズがジュワジュワ言っている。
この音を主人は、「笑っている」と呼んでいる。
焼きたてパンが笑ってる。
そんなパンでいっぱいのお店は。
もう、これだけで、目いっぱいの幸福だ。
最近遠くからのお客さんも来るようになって。
時々主人は聞かれる。
〝あの時〟どこにいたのかと。
すべての人が抱えている、〝あの時〟〝あの日〟の記憶。
主人は答える。
僕はここにいたと。
〝あの時〟誰もが違う場所にいて。
違う人生の中を歩いていた。
それを語り切る事なんて、どれだけかかっても不可能だろう。
生きとし生けるすべての者達が。
幸福の中にいた。困難の中にいた。もがいている最中だった、諦めた瞬間だったかもしれない。
でも、それらすべてを凌駕した。
あの瞬間にあったのは――誰もが口を揃えて言う事ができる言葉があったとしたならば。
それは、〝光〟だった。
誰も見た事のないような光。
この世の物とは思えぬ光。
それは白に近く。
だが黒でもあって。
無の中に。
すべてを含み、はらんだ上で。
誰もが抱え持っていた現実、限界、笑い、涙、驚愕、怒号――全部凌駕した。
……超えた先にあったのは、絶望だったのか。
いや、それでも、世界のどこかかにそれが希望であった者もいたのかもしれない。
……滅びを望んでいた者だけが、夢を叶えた瞬間だった。
今日もたくさんパンを焼いて、たくさんのパンたちの笑いに包まれた。
「あんた、最近また太ったんじゃないか?」
言われて笑ってしまう。捨てるのがもったいなくて全部食べてしまうから。
朝もパン、昼も夜もパン! ……って歌ってもいいくらい。
「パンダさん」
子供に呼ばれて、パン屋の主人は驚いた。ちょっとそれは、キャラの方向性が違う。
でもまぁいいかと、主人は否定せず。
子供たちに、新商品のパンダパンを渡すのだ。
「……絶対に落ちないと言っていた船が……」
ランチに来ていた老人たちの会話が耳に飛び込んでくる。
「それで、どれだけの人が亡くなったのか……」
もうすぐ、ソーセージパンが焼ける。別の窯ではカレーパンもそろそろいい具合だ。
だがパンに意識を集中しても、耳は断片的に単語を拾ってしまう。
光の大戦。
不沈艦。
――どうしても。
目は閉じられても、耳は塞げない。
……今日も遠方からわざわざ訪ねてきてくれる人がいて。
何度目かの質問をされる。
いつからここに?
――ずっと、ここに。
空を飛んでいた時から、ずっと。
……天井は墜落の直後に吹っ飛んだ。
エンジンもボイラーも全部大炎上して。
搭乗員のほとんどが、原型を留めはしなかった。
操縦席は……見に行った事はない。
墜落の瞬間まで、伝令菅は叫び続けた。
咄嗟に耳を塞いでしまったからだろうか?
――たった一人だけ生き残った。でも、右腕は吹っ飛んだ。
それでも生き残った。
それでもまだ、生きている。
……朝のパン。
焼きたてのにおいを嗅ぐと、嬉しそうに笑っていた船の皆の顔が蘇る。
だから今日もパンを焼く。
あの頃の仲間は、皆、今じゃパンになって笑っている。
ジュワジュワ、クツクツ。
あ……焦げてる。……このパンはあれだ、きっと、艦長だ。あの人せっかちですぐに熱くなる人だったから。
お客さんには出せないから、これは今日の朝食だな。久しぶりに語り合いましょう、艦長。
今日もいいにおい。
そしていい天気。
あれから風は吹かない。
世界は一変した。
それでも思うのだ……今が、幸せだと。
……笑える、それが、幸せだと。
もう二度とこの船は沈まない。
彼がいる限り、未来永劫。
パンのにおいに包まれて。
笑顔を乗せて、ここにあり続ける。
パンのにおいは汽笛となり。
空を駆ける、無双の艦となる。