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不沈艦

作者: 葵れい
掲載日:2016/12/15

 今日も腕によりをかけたパンがいい香りを立てている。

 パン屋の主人は満足そうに目いっぱいに息を吸い込む。ああ、やっぱりいい。

 パンのにおいは最高だ。

 これだけで幸せになれる。もう充分に幸せだ。

 朝になるとこのにおいに釣られて、ぞろぞろとお客さんがやってくる。

 モーニングセットは珈琲と一緒に。

 今日は出来立てのクロワッサン。偶然手に入った卵もつけよう。

 窯から出したピザ、チーズがジュワジュワ言っている。

 この音を主人は、「笑っている」と呼んでいる。

 焼きたてパンが笑ってる。

 そんなパンでいっぱいのお店は。

 もう、これだけで、目いっぱいの幸福だ。




 最近遠くからのお客さんも来るようになって。

 時々主人は聞かれる。

 〝あの時〟どこにいたのかと。

 すべての人が抱えている、〝あの時〟〝あの日〟の記憶。

 主人は答える。

 僕はここにいたと。

 〝あの時〟誰もが違う場所にいて。

 違う人生の中を歩いていた。

 それを語り切る事なんて、どれだけかかっても不可能だろう。

 生きとし生けるすべての者達が。

 幸福の中にいた。困難の中にいた。もがいている最中だった、諦めた瞬間だったかもしれない。

 でも、それらすべてを凌駕した。

 あの瞬間にあったのは――誰もが口を揃えて言う事ができる言葉があったとしたならば。

 それは、〝光〟だった。

 誰も見た事のないような光。

 この世の物とは思えぬ光。

 それは白に近く。

 だが黒でもあって。

 無の中に。

 すべてを含み、はらんだ上で。

 誰もが抱え持っていた現実、限界、笑い、涙、驚愕、怒号――全部凌駕した。

 ……超えた先にあったのは、絶望だったのか。

 いや、それでも、世界のどこかかにそれが希望であった者もいたのかもしれない。

 ……滅びを望んでいた者だけが、夢を叶えた瞬間だった。




 今日もたくさんパンを焼いて、たくさんのパンたちの笑いに包まれた。

「あんた、最近また太ったんじゃないか?」

 言われて笑ってしまう。捨てるのがもったいなくて全部食べてしまうから。

 朝もパン、昼も夜もパン! ……って歌ってもいいくらい。

「パンダさん」

 子供に呼ばれて、パン屋の主人は驚いた。ちょっとそれは、キャラの方向性が違う。

 でもまぁいいかと、主人は否定せず。

 子供たちに、新商品のパンダパンを渡すのだ。




「……絶対に落ちないと言っていた船が……」

 ランチに来ていた老人たちの会話が耳に飛び込んでくる。

「それで、どれだけの人が亡くなったのか……」

 もうすぐ、ソーセージパンが焼ける。別の窯ではカレーパンもそろそろいい具合だ。

 だがパンに意識を集中しても、耳は断片的に単語を拾ってしまう。

 光の大戦。

 不沈艦。

 ――どうしても。

 目は閉じられても、耳は塞げない。

 ……今日も遠方からわざわざ訪ねてきてくれる人がいて。

 何度目かの質問をされる。

 いつからここに?

 ――ずっと、ここに。




 空を飛んでいた時から、ずっと。





 ……天井は墜落の直後に吹っ飛んだ。

 エンジンもボイラーも全部大炎上して。

 搭乗員のほとんどが、原型を留めはしなかった。

 操縦席は……見に行った事はない。

 墜落の瞬間まで、伝令菅は叫び続けた。

 咄嗟に耳を塞いでしまったからだろうか?

 ――たった一人だけ生き残った。でも、右腕は吹っ飛んだ。

 それでも生き残った。

 それでもまだ、生きている。




 ……朝のパン。

 焼きたてのにおいを嗅ぐと、嬉しそうに笑っていた船の皆の顔が蘇る。

 だから今日もパンを焼く。

 あの頃の仲間は、皆、今じゃパンになって笑っている。

 ジュワジュワ、クツクツ。

 あ……焦げてる。……このパンはあれだ、きっと、艦長だ。あの人せっかちですぐに熱くなる人だったから。

 お客さんには出せないから、これは今日の朝食だな。久しぶりに語り合いましょう、艦長。

 今日もいいにおい。

 そしていい天気。

 あれから風は吹かない。

 世界は一変した。

 それでも思うのだ……今が、幸せだと。

 ……笑える、それが、幸せだと。




 もう二度とこの船は沈まない。

 彼がいる限り、未来永劫。

 パンのにおいに包まれて。

 笑顔を乗せて、ここにあり続ける。




 パンのにおいは汽笛となり。

 空を駆ける、無双の艦となる。



 

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― 新着の感想 ―
[良い点] またしても、ですよ。 タイトル詐欺とでも言いましょうか。 まさかの展開を持ってくるところはさすがです。 ほのぼのとした雰囲気の中にも陰が見え隠れ。 いや。やっぱりさすがですわ。
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