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【裏野ハイツ・男女三名監禁殺害事件】
二〇××年、七月。世間を震撼させる事件が明らかになった。
当時、二〇一号室に住んでいたM(仮名)という老婆とその次男が長男夫婦を監禁し、死体を細かく裁断して下水へ流した。水道管の度重なる不調をおかしく思った住人が近隣の水道業者に修理の依頼をしたことで事件は発覚した。
被害者は三名。
裏野ハイツのオーナー・D(仮名)とその妻・K(仮名)。そして、二〇三号室のY(仮名)だ。
老婆は息子夫婦への計画的な殺意を認めているが、Yに関しては「成り行き上、仕方がなかった」と供述した。
老婆が部屋を引き払い、息子夫婦と同居するか否かという、ほんの些細な諍いが事件の発端となった。
愛着のある家を離れたくない老婆と、家賃収入を優先したい息子。二人の意見が一致することはなかった。
力ずくで老婆を裏野ハイツから転出させようとした息子夫婦は、最後の説得として老婆の住む部屋を訪れた。その際に出された番茶には睡眠薬が混入しており、逆に老婆に監禁される形となる。
息子夫婦はそれぞれベッドの柵に手足を手錠で繋がれ、口にはさるぐつわという想像を絶する状態の中、非を責められ続けた。
「息子が同居を撤回すれば解放するつもりだった。警察へ行くと言われたので(殺害を)決意した」
老婆はそう供述した。
Kが衰弱死した直後、二〇三号室にYが入居した。
Yが荷物の整理をするために立てる物音に巧妙に紛れ、老婆はKの亡骸を解体する。それを自室と二〇二号室、それぞれの冷凍庫で冷凍保存した。
しかし、一週間も経つと冷凍していた遺体が異臭を放ち始めた。一刻も早い処分を求められた老婆は、解凍した遺体の一部をミキサーで細かくし、排水口へ流した。
肉片の一部は排水口に詰まり、裏野ハイツ全体に異臭が流れ込んだ。
それを下水の不調と説明した老婆は、住人を他所へ退避させ、配管工の経験がある次男のHに詰まった遺体を取り出せさせた。
Hはその時になって初めて、母親が長男夫婦を監禁していたことを知る。
その後、冷凍庫に残っていた遺体をHの車で運び山中に捨てた。
これが一件目の殺人である。
Kの遺棄から数日後の深夜、酒に酔って帰宅したYが誤って二〇二号室の扉に鍵を差し込んだ。本来なら開かないはずだが、運悪く鍵が開いてしまった。
部屋を間違えたとは知らず、Yは室内でくつろいでいた。その物音に気付いた長男・Dは救いを求めてYのいるリビングに這いずっていった。
Dの存在を認めたYは、驚きのあまり悲鳴を上げて逃げ出した。その声で隣室の老婆は飛び起きた。
その後警察が呼ばれ空き巣事件として捜査が始まった。だが、紛失したものはYが仕事に使っていたバッグだけで、誰かが侵入した痕跡もなかったことから早々に捜査は打ち切られてしまう。
この時に紛失したバッグは、二〇二号室に置き忘れられていたのである。
部屋にあったバッグからYが二〇二号室に入ったことを知った老婆は、Yの監禁を決意する。監禁に必要な手錠やさるぐつわ用のタオルはKに使用したものがそのまま残っていた。
老婆は怯えるYを言葉巧みに自室へと招き入れ、息子夫婦と同様に睡眠薬を混入したお茶を飲ませた。
Yの監禁から二日、無断欠勤が続いていることを怪しんだ同僚が彼女の自宅を訪ねた。
その際に老婆は「彼女なら引っ越した」と嘘をついた。間もなくして老婆は次男のHを呼び出し、Yの部屋にあった荷物を処分してしまう。
間もなくして二〇三号室には新たな住人が入居し、Yの存在は忘れ去られていった。
新たな住人がやってくるのとほぼ時を同じくして、衰弱死した長男・Dが妻のK同様に解体・廃棄された。
その時次男のHは出張で他県におり、やむを得ず同様の手段をとったものと考えられている。
前回の反省を踏まえ、老婆は念入りに死体を裁断し処理した。
しかし、それでも水道管は詰まってしまう。秘密裏に処理を任せられる次男は出張で駆けつけることが出来ず、代わりに住人が呼んだ水道業者が修理に当たった。
その際、遺体の一部が発見され、事件が発覚した。
警察官が押し入った際、Yは辛うじて生きていた。骨と皮ばかりになったその姿は、数々の事件現場を経てきた警察官でも直視しえないありさまだったという。
極度の栄養失調により、意識不明だったYは三日後に息を引き取った。
老婆は現行犯逮捕され、次男も共犯として逮捕された。
次男は老婆に脅されており、協力せざるを得なかった状況から執行猶予付きの判決が下され、老婆には認知症の症状が見られたことから責任能力がないという判決が下された。その後、老婆は専門の医療機関に送られた。
以上が裏野ハイツ・男女三名監禁殺害事件の全容である。
「お前んちってさぁ、事故物件なんじゃねぇの?」
酒盛りの最中にマコトが放った一言はワタルの酔いを一気に蹴散らした。
霊感がなく心霊現象を一切信じていないワタルだったが、友人の放った「事故物件」という言葉は聞いていて心地のよいものではなかった。
新築同様の部屋なのに家賃は格安で、曰くつきの物件だと言われても納得がいく。その事実が余計にワタルを焚き付けた。
「……だとしたら何なんだよ」
「んー、や。肝試しでもすっかと思ってさ」
「テメェ、人んちを何だと思ってやがる!」
マコトの胸ぐらに掴みかかったワタルを見て、傍観に徹していたアキフミが声を上げて笑った。
赤縁の眼鏡の奥で細められた無邪気な瞳は中学生の頃から変わっていない。
「ホントお前らって仲いいのな」
タバコをもみ消し、スマホに持ち替える。いがみ合う二人を横目に何やら操作していたかと思うと、画面をワタルに向けた。
「出た。七年前だな」
楽しげな調子のアキフミとは対照的に、マコトとワタルは悲鳴のような声を上げた。
画面には黒い背景に赤で「裏野ハイツ・男女三名監禁殺害事件」の文字が躍っている。事件の概要は文章を追っているだけで不快感をもよおすものだった。
「おい、二〇二号室ってお前の部屋じゃねぇか!」
「まさかのドンピシャだよなぁ」
顎を撫でるアキフミは二人の反応を面白がっているようだった。
「でも全面リフォームしてあるんだろ? なら……」
「リフォームで霊が消えるってか?」
「へぇ……、ビビってるんだ」
「……んだとぉ!?」
恐怖心をかき消すため、缶ビールの残りを一気に煽った。後に残った苦みをかき消すため、イカの燻製を鷲掴んで口へ押し込む。
「お前の部屋、隣って婆さんか?」
「知らねぇよ」
「挨拶行ってねぇのかよ」
これだから都会の若者は、とおどけた口調でマコトが笑う。
「ならさ」
安物のワインの栓を抜きながら、アキフミがいたずらっぽく提案した。
その内容は、ポンという小気味いい音とは対照的に、場の空気を冷え固まらせた。
「お隣に挨拶に行こっか?」
既に日付も変わろうかという時刻であるのに加え、酒盛りをしているマコトの家からだと裏野ハイツまでは徒歩で三十分はかかる。
迷惑になるからと、やんわりと拒絶しようとしたマコトは「言い出しっぺのクセに」「本当は怖いんだろ」というアキフミの挑発に乗せられる形となった。そうとなれば家主であるワタルも同行しないわけにはいかず、二次会という名目での移動が決定する。
おふざけで夜間に騒いで退去を命じられては、元も子もない。一度チャイムを鳴らして反応がなければそこで終わりと固く言い含め、全員がそれを了承した。
しかし、いざ部屋の前に立つとインターホンに指をかけることができなかった。
「……な、なあ……。ひとまず飲み直さないか?」
耐えかねたワタルの言葉に他の二人も縋り付く。
三人仲良く二〇二号室になだれ込むと、冷蔵庫に押し込められていた缶チューハイ引きずり出し勢いよく飲み下す。よく冷えたアルコールは全身にいきわたり、緊張感から解放してくれた。
「あのバーサン、押し入れから出入りしてたんだろ」
空になった缶をゴミ袋に投げ込みながらアキフミが目を輝かせる。この男だけは懲りるということを知らないらしい。
彼の意図を汲み取ったワタルは首を横へ振った。
「普通のクローゼットだよ。ここへ入る前に確認した」
「何だよ、エロ本でも隠してんのか?」
口を尖らせるアキフミを、中学生でもあるまいし、と一笑に付す。
「なら見せろよ」
「……ああ。好きにしろ」
呆れたワタルはグラスに氷を詰め込むと、ウィスキーのビンを持って座卓へ向かった。マコトは肝試しに飽きたらしくテレビのチャンネルをあれこれと切り替えていた。
深夜のくだらない番組を見るともなしに流しながら、ロックのウィスキーを煽る。
結局のところ、心霊物件というのは作り話か借り手の考え過ぎでしかないのだ。何か起きそうだと思うから、ごく自然で偶然の出来事が怪奇なものと捉えられる。
結論を導き出して安堵する二人を馬鹿にするように、アキフミが間抜けな悲鳴を上げた。
アキフミは真っ暗な部屋の中、クローゼットに頭を半分突っ込んで震えていた。
窓から差し込む薄明りで肝試し気分を増幅させようとしていたらしい。やれやれと肩を落としながら電気をつける。
二、三明滅してから煌々と輝いた蛍光灯に導かれるように、アキフミがずるずると後退してきた。
「今度は何だ」
アキフミは震えながら呆れたような、怒ったようなワタルをかえり見る。ずり落ちた眼鏡を押し上げ、震える手でクローゼットの右側を指示した。そちら側の扉はまだ閉ざされたままである。
不審に思いつつ、そちら側の扉に手を掛けた。
好奇心に駆られたマコトもいつの間にやら万年床の上に陣取っている。
アキフミの声にならない制止を振り切って、軽い音と共に扉が開かれた。
そこに何もないことは、部屋の主であるワタルが誰よりもよく知っていた。あるのは左側に寄せてハンガーに掛けられた、何着かの上着だけである。はずなのに――。
何か黒っぽい布の塊があった。
こんなもの、自分の持ち物にはない。前の住人の忘れ物だろうか。
ワタルが悠長に考えを巡らせていると、目の前の塊が動いた。
ゆっくりと首を持ち上げたソレは、老婆だった。
真っ黒な布切れのようなものを纏った老婆が、身体を丸めて座り込んでいるのだ。
「いたずらはおやめ」
はっきりとした声で告げると、老婆はにぃっと口角を上げて笑った。