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二〇二  作者: 牧田紗矢乃
 
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 溜まった疲れをため息と共に吐き出した。

 職場の飲み会など気をつかうばかりで、何の気晴らしにもなりはしない。これなら適当な理由を付けて断ればよかったとかぶりを振った。


 異臭騒ぎからあっという間に半月が過ぎてしまった。

 あの時はどうなることかと思ったが、今となっては住人間のいい笑い話だ。おばあさんの対応が早かったおかげで日常が戻っている。

 どれだけ感謝の言葉を並べても足りないくらいだった。


 夜道を闊歩して、住み慣れたハイツへ辿り着く。

 深夜を回った裏野ハイツは闇の塊と化していた。思えば、こんな時間に帰宅するのは初めてだ。

 少し離れた所に灯る街灯の明かりを頼りに、手すりを握り締めて慎重に階段を上がる。酩酊するほどの量は呑んでいないが、それでも足元は雲を踏むように危うい。


 鞄から取り出した鍵を鍵穴に差し込むが、酔いのせいかいつも通りには開いてくれなかった。ただ金属のぶつかり合う音が響き、猫のキャラクターのキーホルダーが揺れる。

 近所の迷惑にならぬよう気を付けながら揺さぶるように鍵を動かした。

 しばし格闘していると、ようやく鍵が回った。


「ただいまー……」


 乱雑に靴を脱ぎすてて電気を付けながら部屋になだれ込む。電球が三度明滅して部屋を照らし出した。


「……う、うぅ……」


 自分しかいないはずの部屋で、何かの音が聞こえた。低くくぐもった、うめき声のような……。

 音のした方へ視線を向ける。


 寝室の引き戸が、細く開いていた。


 誰かいるのか様子を確認しようと全神経をそちらへ集中させる。

 かさり、と何かが動く軽い音がした。下だ。

 隙間の床に近い位置から黄色く濁った二つの瞳がこちらを見ている。




 我に返った時には、私は下の部屋の奥さんに抱きしめられていた。パトカーのサイレンがけたたましく鳴り響き、近づいてくる。赤い光が夜闇を切り裂いて現れ、網膜に軌跡を残した。

 私たちを認めたパトカーはゆっくりと停車し、警察官が歩み寄ってきた。何事が起きたのかと問いかけられる。

 ……が、それに答えうる言葉を私は持っていなかった。


 部屋で「何か」を見た後、私は悲鳴を上げて部屋を飛び出し、転げるように階段を駆け下りたらしい。尋常ではない物音に目を覚ました階下の夫婦が様子を見に来たところ、ハイツの前に私がいた。

 うわごとのように「男が」と繰り返すのを聞いて、大急ぎで警察へ連絡してくれたのだそうだ。


 夫婦の話からそれだけの情報を得たが、本当に自分がそんなことをしたのか確証が持てない。

 それに、なぜ私はあの瞳を男のものだと思ったのだろう。

 混乱している間にも警察官は電話で何やら連絡を取っていた。


「犯人はまだ現場にいるかもしれません。安全な場所に退避していてください」


 ひとしきり連絡を終えると、私たちに注意を促す。そこへ応援のパトカーも駆けつけ、いよいよ緊張感が高まってきた。

 漏れ聞こえてきた話によれば、これから私の部屋へ突入するらしい。


 そろそろと警察官たちが私の部屋へ近づいていく。

 窓から逃走する可能性も考えて、ベランダが確認できる位置にも見張りが配置された。


 緊迫した空気の中、ドアノブに手が掛けられた。離れた所からではあるが、私も目を凝らして一部始終を見守った。

 内側から鍵を掛けられているらしく、扉は動かない。しばらく格闘した後、私の元へ駆け寄ってきた。


「合鍵は」

「あいにくですが……」


 荷物はすべて部屋に置いてきてしまった。あるとすれば、まだ見ぬ管理人の手元だろう。その旨を伝えると、再びどこかへ電話をかけはじめた。

 鍵を壊すのか、扉を外すのか。いずれにしろ部屋は無傷とはいかないだろう。

 今後のことを考えると頭が痛くなってきた。


「すみません。ちょっとコンビニに行ってきます」


 よほどやつれて見えたのか、私が小声で告げると階下の奥さんは心配して同行すると申し出てくれた。

 それを丁重に断って歩き出す。手持ちの金はないが、雑誌の立ち読みでしばらく時間は潰せるだろう。




 扉が開いたという知らせが入ったのは、コンビニに入ってから三十分ほど経ってからだった。遅々として進まない時計の針に苛立っていたところなので救われた形になる。

 知らせに来てくれた階下の旦那さんと連れ立って自宅へ向かった。

 彼も真下の階という緊張があるのか、ほとんど何も喋らなかった。沈黙のいやな生々しさに晒されつつ、ハイツの様子を窺う。


「一通り捜索しましたが、侵入者の痕跡は確認できませんでした」


 盗まれている物がないかご確認ください。そう促されて自分の部屋に向かった。

 ご丁寧に外した扉が立てかけられた部屋は、まるで自分の家ではないような錯覚を与えた。


 警察官の言う通り、室内は私が家を出た時となんら変わっていない。

 まさか見間違えだったのだろうか。


 首をかしげつつ、私は警察官に告げた。


「仕事に持って行っていたハンドバッグがなくなった他は、家を出る前と同じです」

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