弐
荷解きに夢中になっていると、日はあっという間に傾きはじめていた。窓から見える灰色ががったマンションの壁が淡いオレンジに染まっている。
片付けはまだ半分も進んでいない。気合を入れ直すため、伸びをして連日の力仕事で疲労した筋肉をほぐした。
思い切り上半身をひねると、固まっていた関節がぴきぴきと音をたてた。それと同時に、視界にデパートの紙袋が映り込んだ。
「……っ、いけない!」
隣の部屋への引っ越しの挨拶をすっかり忘れていた。
先ほど壁を叩く音がしたのだから、住人はとっくに帰宅しているのだろう。大急ぎで手土産の袋を掴んで隣室へ向かった。
チャイムを鳴らすが、反応はない。
夕飯の支度をしていてもおかしくない時間だ。偶然が重なって音が聴こえなかったのかもしれない。
学校帰りの学生たちの声を聞きながら、改めてチャイムのボタンに指を掛けた。
二度、三度と繰り返し鳴らしても人が出てくる気配はなかった。
また出掛けてしまったのだろうか。また明日出直すというのも何か違う気がするし、明日はいつも通り出勤しなければいけない。となれば、手紙を添えてドアノブに掛けておくのが最善だろう。
部屋に戻ってメモ帳を、と思ったところで、奥の部屋の扉が開いた。
二〇一号室のおばあさんだ。買い物に出かけるところなのか、黒い手提げ鞄を持っている。
「こんばんは」
目が合ってしまったからには無視はできない。私が会釈すると、おばあさんは人の好い笑顔で私の方へやってきた。
しゃんと伸びた背筋に、快活な語り口。節々が痛むと文句ばかり言っているうちの祖母と同年代とは思えない人だ。
「あら、そこのお宅に用事かい?」
「……はい。引っ越しのご挨拶がまだだったので」
おばあさんは私が手に提げた紙袋に目を留めて、何度も首を縦に振った。
細められた目じりの皺が深くなる。
「そういえば言い忘れてたねぇ。そこは空き部屋だよ」
だからこれは持って帰りなさい。おばあさんはそう言って紙袋を握る手に節くれだった手を重ねた。
しかし。腑に落ちない私はおばあさんの顔を見据える。
「さっき物音がしましたし、どなたかいらっしゃるんじゃないですか?」
空き巣の可能性も含めた問いかけだった。
どの部屋も表札を出さないこのハイツなら、一見しただけではどこが空き部屋ともわからない。ならば、無人の部屋に侵入する者がないとは言い切れないだろう。
おばあさんの口から紡がれたのは、私の不安を打ち消すような言葉だった。
「……ああ、なら息子が来ていったんだねぇ。うちに顔を出せばいいのに」
曰く、おばあさんの息子さんはこのハイツのオーナーであるらしい。
元はここに住んでいたのだが本業で転勤を言い渡され、必要な家財だけを持って引っ越してしまったのだそうだ。今では必要な荷物を取りに来るくらいしかしないため、実質的な管理はおばあさんが総括しているとのことだった。
「そうだったんですね」
「まあ、そういうことだから多少うるさくても大目に見てやっておくれ」
「はい」
率直な返事をしたものの、オーナーに挨拶をしないわけにはいかない。
次にここへ立ち寄る機会があれば話をしたいので、と理由付けをしてオーナー夫妻が訪れた際に取りついでもらう約束をした。