第九話 君と僕の距離感
聖女服に身を包んだ彼女は、俺の姿を認めると、それはもう。
青く蒼く碧い瞳をオロオロと燻らせながら。
「随分早いんだね? 今日は何か朝から用事あったっけ。あ、そうだ、私は今日もミドルドーナに行かなきゃならないから、カシスに伝えてくれたら嬉しいな。ところで、シャルル様の件なんだけどね、やっぱりあの兄の派閥がごちゃごちゃと煩くて、なかなか事が上手く進んでいないんだ」
「セレーネ」
「というか、まず兄が表に出てこなきゃ話にならないと思うんだけど、色々と理由をつけて引きこもってるみたいなんだよね。おかしいよね? 無責任だと思わない? 民をなんだと思っているのさ? 今は非常事態で、教会の最高責任者であるカリウス様には何としても公に言葉を貰わないと――」
「セレーネ!」
「……っ」
壮絶なマシンガントークだ。
何が何でも俺と会話したくないという強い意思を感じる。
なし崩し的にこの邂逅を終わらせて、さっさと部屋に戻りたいらしい。
セレーネは話しながらも歩を緩めることなく、悠然と俺の横を通り過ぎ、屋内に入ろうとする。そんな彼女の手首を、冷たい手首を掴んで、俺は無理矢理足を止めさせた。
……少し、雨が強くなってきた。
前髪からポタポタと液体が滑り落ちる。
出かける気を削ぐ陰鬱な天気だ。
「話をしよう、セレーネ」
「話ならしてるじゃん、だから、カリウス様が――」
「そうじゃない」
ざぁざぁと。
一秒ごとに雨の勢いが強くなってくる。
もうずぶ濡れもいいところだ。
シャワー浴びないと風邪引きそう。
だが、今ここで、こいつを逃がすわけにはいかない。
今、この瞬間。
俺とセレーネ、二人だけの、決して逃げ場のないこの瞬間だけは。
「…………」
「何で俺を避けるんだ?」
「……避けてないよ」
「避けてるでしょ。
君とまともに会話するのは随分久しぶりな気がしてるし。
何せ今まで毎日話してたんだからね」
最後にちゃんと話したのは――多分、遥を連れ戻すために、ポルタニアで別れて以来だったか? シャルルの件を問い質した時も話はしているが、結局は事務的な対話だった気がするし、思えば、あの時もちゃんと目を合わせていない気がする。
本当に、ロクに喋った覚えがない。
同じ場所で生活しているのに、どうしてこんな事が起こり得るんだ。
ほんのちょっと前までは、やれあぁしろこうしろ、あぁするべきだ、こうあるべきだって、理想の勇者像を押し付けてきて煩わしかったのにな。
子犬みたいにちょこちょこついてきていたセレーネは、もういないのだろうか。
「俺、何かした?」
「……」
「あのな……俺だって超能力者じゃないんだから、言ってくれなきゃ何もわからん」
「……」
「もし気に障ることをしたんだったら謝る。
土下座しても構わない。
許してくれなくたっていい。
だけど、何も言わずに避けるのは止めてくれ。
君にやられると、結構しんどい」
「……その、『君』っていうの」
ポツリと言葉が漏れる。
セレーネは決してこっちを見ないままで、
「ユタカ様は、口調とか二人称とかで他人と距離を測ってるよね」
「……?」
「怒った時とか、普段でも、ハルカ様には言わない。『お前』って言う。口調ももっと荒々しいっていうか、野暮ったいっていうか。だから、あぁ、これがユタカ様の素で、ユタカ様は私たちに対して壁を作ってるんだなって、ずっと思ってた」
……そうだっただろうか。
少なくとも自覚はない。
ないけど、遥に接しているようにこいつらとも接しているかと言われたら、確かに首をかしげざるを得ないかもしれない。
だって遥は幼馴染で。
物心ついた時からずっと一緒にいる、俺の片割れみたいなもんなんだから。
「……」
「うん、わかってるんだ。だって、私たちの付き合いはまだ一年にも満たない。十八年を一緒に過ごしてきたハルカ様や、ニホンにいるユタカ様の友達とか、ご両親とかに並べるはずがないって思ってる」
「いや、それは」
「でもね」
俺の反論を遮り、そこでセレーネは一拍置いた。
掴まれていない方の手を胸にあて、呼吸を整えているに見えた。
艶やかな長い髪が、雨に濡れて首元に張り付いている。
荘厳で神秘的な聖女服も、これでは台無しだ。
……今のこいつには、どちらかというと町娘スタイルの方が似合う気がして。
ジッと見つめるも、その目元が見えない。
髪に隠れて見えない。
「ですが、私たちが共に過ごした月日は、そんなにも儚いものだったのでしょうか。共に笑い、共に嘆き、共に戦った日々は、そんなにもつまらないものだったのでしょうか。あなたに心を許して頂く事は、出来なかったのでしょうか」
随分久しぶりに、こいつの公的な言葉遣いを聞いた気がした。
もう、どちらがこいつの素なのかはわからない。
あぁ――でも、確かに、普段通りの口調じゃないと、どことなく距離を感じる。
セレーネの訴えが、チクリと胸に刺さる。
「寂しいと、切ないと、悔しいと思ってしまいました」
「これから先、どれだけの歳月を重ねても、きっと私はあなたに踏み込めないのだと」
「……それが私と、ユタカ様の距離感。
こんなに一緒にいたのに、縮まらない距離感です」
何を。
セレーネは何を言おうとしているのだろうか。
わからないが、多分、今を逃しては決して聞くことが出来ないんだろう。
口を挟んではいけないと、そう思った。
人の出会いは一期一会と、昔、偉い人が言ったっけ。
その日その時その瞬間は、まさにもう二度と訪れないタイミングで、決して選択を間違えてはならない分水嶺で、追いかけるべき道筋が決定してしまうターニングポイントだった。
胃がキリキリする。
「ユタカ様」
そして。
セレーネは、本当に久しぶりに俺を見据えながら、
「私はユタカ様をお慕いしています」
「心から愛しています」
「そして、ハルカお姉ちゃんも、本当に大好きなんです」
「だから、今は……。今は、まだ、待っていてくれませんか」
そのターニングポイントを。
俺はずっと前から見逃し続けていた事に、ようやっと気付いた。
彼女の告白を聞いて。
「――――」
なんで――。
なんで気付けなかったのだろう。
気付いてやれなかったのだろう。
思い返せば、セレーネのそんなアプローチは山ほどあった。
出会った時からベタベタしてきたし、すぐに頬を染めるし、酔っ払ったら甘えてくるし、いつの間にか俺の寝床に忍び込んでいるし、それ以外にも、たくさん、たくさん、たくさん――。
フランやトーマスが言っていたじゃないか。
それ以前に、カシスからもガンラートからも忠告を受けた。
振り返れば誰もが俺に気付け、察しろと訴えかけてくれていたのに。
どうして今回は俺じゃダメなのかわかった。
ガンラートが正しかった。
カシスが。
エンが。
あいつらが正しかった。
俺じゃ、いや、今の俺じゃ、こいつの力にはなれない。
力になってやってはいけない。
俺は遥が好きなんだから。
だから俺じゃダメなんだ。
「……実は私、徹夜なんです。
今日も午前中から、動かなくてはならなくて。
……ですから申し訳ございません。
少々、おやすみさせて頂きます」
愕然とする俺を尻目に、セレーネは優しく、愛おしげにその手を離し、アジトへと入っていく。
風邪引くなよ、と。
気軽な一言をかける余裕すら、俺にはなかった。
頬を流れる滴が、雨の水滴なのか、涙なのかも、俺には判別できなかった。