序章
序
僕は目の前の子に恋をしているかもしれない。
そう自覚したのは、彼女が僕の肩に凭れ掛かってきて、思わず唇を重ねた時だった。
ほんの一瞬だった。拒否されたらやめるつもりだった。けど、彼女は僕の口づけを迎え入れた。僕は、それに応えるように優しく重ねた。
カラオケボックスでそのような行為に及ぶ背徳感と、彼女のその魅力的な雰囲気、今まで出会ったことないような、妖艶な輝きに、僕の頭の中は真っ白で、思考もうまく回れていなかった。
きっかけは、ネットだった。彼女にふられた反動から、SNSで友達を探していたら、彼女と出会った。名前は、新田洋子。
ネットで知り合ってから三か月で、会う約束をこぎつけた。最初は軽い気持ちだった。食事をして、その後に、彼女の代わりを求められればいいなと、下心が前提にあり、彼女と会うつもりでいた。
けど、本当に好きになってしまった。
もう一度、彼女と唇を重ねる。今度はもっと長い。積極的に舌を出すと、彼女もそれを迎え入れ、舌と舌が絡み合う形となった。彼女の小気味よい鼻息が、僕の鼻孔をくすぐり、ますます高揚感を得た。
「……いい?」
唇を離して、洋子の肩に手をかけると、呟くように言った。洋子は頷き、僕は彼女を、カラオケボックスのソファーに押し倒す。座るためだけのソファー故に窮屈だが、仕方ない。
僕は洋子を押し倒すと、またキスをした。キスをしながら、彼女の胸の方へ手を這わせていく。膨らみを発見すると、優しく、包み込むようにその感触を確かめる。十六歳にしては、豊満だった。
洋子の鼻息は次第に荒くなり、時折唇の間から喘ぎ声を漏らすが、それもまた僕を興奮させる要因の一つとなった。
胸を十分堪能した後、手を徐々に下へ移動させていき、洋子の秘部へと手をあてがい、下着の上から優しく触ってあげる。軽く湿っているのに気付いた。
下着の上からじゃ物足りなくなり、さり気なく下着の中へ手を入れようとすると、少し拒否するような素振りを彼女は見せ、僕は唇を離した。
「どうした?」
洋子の顔を見る。彼女の瞳は、うっすらと潤んでいるように見えた。
「いやだった?」
首を横に振るが、では何故涙を流していたのか、僕には皆目見当がつかなかった。
「じゃあ、どうして泣いているの?」
まるで日本人形みたいに整った顔立ちが、苦しそうな表情と涙で崩れていた。洋子にそんな思いを抱かせてしまったことに罪悪感を覚え、僕は理性を取り戻し、彼女の頭をそっとなでる。
「おいで」
彼女を起こすと、抱き寄せた。
「ごめんね」
「違うの」
蚊の鳴くような声で、洋子は呟くように言った
「違うの……」
それきり、洋子は口を閉ざして、何も喋ろうとしなかった。
カラオケボックスを出るまでの間、洋子は何も僕に語ろうとしなかったし、僕も無理に喋らそうとは思っていなかった。結局、洋子としたのはキスまでで、彼女が涙を落としてからは、重苦しい沈黙が続き、退室時間の一時間前に出ることにした。
十一月の初旬、時刻は午後の九時を示し、本格的に肌寒い夜が訪れる頃だった。僕は鞄から、予め持ってきておいたパーカーを取り出して羽織、洋子は手に抱えていたカーディガンを着た。
お互い何も喋らず、人通りのない路地をあてのないまま歩いていた。
「あそこ、座らない?」
ただ歩いているだけじゃ意味がないと思った僕は、通りかかった公園を指さして、洋子に提案した。彼女は何も言わず黙って頷くと、僕が先導してベンチへ歩を進めた。
洋子の胸中には、なにがあるのだろうか。
ずっと考えていた。彼女とカラオケボックスに入って、彼女が思わせぶりな態度をしてきた時から。
僕に気があるのではないか。
彼女と会う前から下心があったことは肯定しよう。けど、それは彼女と合意の上でそのような行為に及べればするつもりだった。洋子が僕を拒否する、または、僕に興味がないことを汲めれば、今日女の子と遊べたと、ただそれだけの満足感を抱いて、帰るつもりだった。
しかし彼女は、少なくとも僕に好意があるように思える。だから、いい雰囲気になった時、僕は彼女とキスをした。自信があったからだ。
涙を流されるわけが、未だに分からなかった。
ベンチに腰掛けると、今日何度目か分からない沈黙が訪れた。このままだと、カラオケボックスの時と変わらないではないか、僕は、単刀直入に切り出した。
「どうして、泣いているの?」
率直な質問にも、洋子は動揺をみせずに、ただ俯いているだけで答えてくれようとはしなかった。それがまた、僕の不安を煽り、悪い方向へ想像を掻き立てる要因の一つともなってしまうのだった。
「どうして私にキスをしたの?」
ようやく口を開いたと思ったら、質問返しだった。彼女の声は今にも消え入りそうで、まるで独り言を呟いたかのようなトーンだったため、危うく聞き逃してしまうところだった。
「どうして、って言われても」
どうして私のことを好きになったの――?
以前付き合っていた彼女も、僕に同じようなことを聞いてきた。どうやら僕は、相手に愛情を示すのが下手らしい。
どうして好きになったの、と聞かれても答えようがない。
「それは、いつの間にか君のことが好きになっていたからさ」
ドラマとかでよく耳にするくさいセリフを吐くことしか、今の僕にはできなかった。自分のボキャブラリのなさを呪う。
彼女はロマンチストを求めているのかもしれないが、そしたら相手を間違えていると忠告しておこう。こういう場でも、気の利いた言葉の一つも思いつかない自分をもどかしく感じた。
しばらくの間があり、洋子は重い溜息を一つ吐いた。
「あたしと燐君ってさ、いわゆる出会い系で出会ったわけじゃん」
そのことについては触れないでおきたかったが、彼女がせっかく喋りだしたのに水を差したくなかったし、事実だったので黙って耳を傾けることにした。
「わたしさ、よく利用するのね、出会い系って」
それは初耳だった。
「でも、そういう出会い系サイトの男ってヤリ目が多いわけじゃん。何もしないよ、だから会おう、っていうのは建前であって、本当はやりたいだけなんでしょ、って」
耳が痛かった。僕も最初は、洋子とそういうことができればなという下心があって、会うことにしたのだから。
「私は、燐君のこと信じていた。私たち、会う前から電話していたじゃない。それで、燐君の声って、優しくて、癒されて、安心できて。会う前からちょこっと気になっていて、今日会える日をずっと楽しみにしていたの」
涙ぐみながら彼女は語る。聞いているこちらも辛かったが、きっと彼女はもっと辛い思いをしているのだろうと思うと我慢できなくて、これが自分の戒めだと思い、黙って聞いていた。
「そして会ってみたら、やっぱりいい人で、優しくて、他の男とは違って……」
いったん彼女は言葉を切る。
「いつの間にか恋に落ちていた自分がいた」
洋子の肩に手をまわして、そっと抱き寄せ、なだめるように背中をさする。
「ごめん……ごめん」
「謝ってほしくていったんじゃないよ」
彼女の強い語気にたじろぎ、肩から手を離した。
「謝られたら、よけい惨めじゃん」
僕は、彼女に返す言葉が見当たらなかった。十六歳の彼女に与えた傷は、僕が想像している以上に深く、自分の軽率な行動がこのような事態を招いたのだと自覚した。
「燐君だけは、他の男と違うと思っていた。けど、私を押し倒した時、やっぱりやりたいだけだったのかな、って」
「違う!」
強く否定するも、説得力なんか微塵もなかった。
「確かに、そういう雰囲気にしたのは私だよ。私にも責任はある。けど、キスするなら、せめて嘘でも、好きって言ってほしかった」
彼女の一つ一つの言葉が、僕の胸に深く突き刺さる。
「どうせだったら、最後まですればよかったのに」
その、軽蔑と侮蔑の混じった言葉、口調が、僕を落ち込ませた。
「でも、できるわけ訳ないじゃんか。あんな涙みせられたら」
彼女に涙を流させたのは自分であるにも関わらず、そのことを棚に上げて、言う。
素直に伝えられたらよかった。彼女に自分の気持ちを。
いつの間にか、恋に対して臆病になっている自分がいるのかもしれない。こんな状況になっても、洋子に好きだという気持ちを伝えらないでいた。彼女は、待っているのに。あんなことをした、史上最低のクズであるのに、そんな僕のことを、待ってくれているのに。
「ごめんね」
二人の間に流れる重い空気を払拭するかのように、陽気な声で洋子は僕に謝った。
「今日のことは忘れて」
彼女にそんな言葉を言わせてしまう自分が、情けなくて、許せなくて、恥ずかしかった。それに、謝るのは僕の方だ。
「友達、でいいかな?」
前の一点を見つめたまま、彼女は隣に座っている僕に問う。
「友達、ね」
僕の返答を待たずに、彼女は言った。
「お互いに、今日のことは水に流そう? ただ、私っていう女の子と出会ったことだけは、忘れないでね」
今日のことは全て忘れる。
キスしたことも、押し倒したことも。
彼女の気持ちを踏みにじり、傷つけたことも……。
「友達でいてくれるだけで、私は十分だから」
心臓が締め付けられるような感覚だった。恋をした時に訪れる症状。僕は、間違いなく、彼女に恋をしている。洋子のことが好きだ。
けど、どうしてそれを伝えられない。どうして言葉にできない。
好き、の簡単な二文字が、どうして言えない。
言うのは簡単な言葉だ。しかし、その二文字に含まれている重み、責任は、どんな言葉よりも重い。
それを、僕が経てきた恋愛経験が実証し、口に出させるのを妨げてもいた。
人を好きになるイコールは、決して傷つくとは限らない。だが、肉体的な痛みよりも、精神的な痛みの方が、人間、無意識的に躊躇してしまうものだった。
もう二度と、誰かを好きになるなんてことはしないと、誓ったのに。
「それじゃあ、ばいばいしようか」
彼女は腕時計に目を落とすと、おもむろに言った。
「今日は楽しかった。ありがとう」
早々と切り上げようとしているのがひしひしと伝わってきた。僕に喋らせたくないみたいに。
「あの、さ」
彼女の気持ちを汲まないで、僕は切り出した。
「僕……」
無言のプレッシャーが、彼女から押し寄せてくる。これは果たして、もう何も言うな、というものなのだろうか。それとも、好きって言ってほしい思いからなのか。
僕は人の気持ちを読むのが下手だ。その場の空気を読むのも。故に、よく地雷を踏むのだが、今回もその二の舞を演じるかもしれない。
つまらない意地をはって自分の気持ちを隠し、彼女を傷つけるぐらいだったら、僕は気持ちを伝えよう。
後悔したくないから。
「洋子ちゃん」
立ったまま、彼女は振り向かず、ただじっと俯いていたが、聞いてくれているのだろうと信じ、続ける。
「僕は、君が好きだ」
自分の気持ちを正直に、目の前の十六歳の少女に告げる。
「だからこれから、僕のそばにいてほしい」
長い沈黙があった。それはおそらく、数十秒であっただろう。しかし、僕の感覚からすれば数十秒ではなく、数時間のように感じられた。
「本当に?」
洋子の口調は沈んでいたが、どこか期待も含めた言い方だった。
「本当に私でいいの?」
僕も立ち上がり、俯いている彼女を後ろからそっと抱きしめて、耳元で呟く。
「うん。洋子ちゃんじゃなきゃダメなんだ」
決して、洋子に言われたから好きだと言い直したわけじゃない。傍から見れば、その場しのぎの軽い言葉に聞こえるかもしれないが、僕は本気だ。本気で洋子のことを大切にするつもりだし、何より、自分が幸せになれる自信がある。
僕が幸せになれれば、洋子のことだって幸せにできるはずである。その根拠の薄い自信が、僕を突き動かしていた。しかし、何よりも確信を持てた。
「僕と、これからもずっと一緒にいてください」
彼女との出会いのきっかけなんてなんでもいい。そんなの関係ない。
一番大事なのは、彼女のことを見ていられるかどうか。そして、僕が彼女のことをどう幸せにするかだった。
洋子は、自分の体に回されている僕の腕をとり、俯きながら答えた。
「私でよかったら」
今日、十一月三日。僕と洋子の記念日となった。時刻は、午後の十一時を回っていた。