朦朧の銃声
規則的な電子音が鼓膜を振るわせて彼女の意識を現実へと引きずり戻していく。彩穂は睡眠中に現実へ戻されたことが不満で、力一杯、直したばかりの目覚まし時計を叩いて黙らせた。彼女が目を開けると、カーテンの向こうは既にオレンジ色の夕暮れ時だった。時計を見上げると時間が派手にずれている。舌打ち。
彼女は大きく息を吸い込んで寝返りを打った。枕元に右手を滑らせたとき、ひんやりとしてごつごつとした何かに指先が触れる。一瞬で眠気が吹き飛び、飛び起きて枕元を見ると。拳銃があった。機械的で無機質な冷たい表面に夕日を反射して怪しく輝いている。
拳銃を手に取り、その重さと冷たさを感じた瞬間、彼女の両手は震え出す。
やっぱり、夢や幻なんかじゃ、ない。
そう思った瞬間、彼女は窓の外の日没具合を見て大急ぎで着替えると、例の如く拳銃を鞄に押し込んで家を飛び出し、学校へと向かって走った。
彩穂が学校に着く頃には、既に夕日は地平線の向こうへと殆ど吸い込まれ、僅かに残っている光は闇に塗りつぶされ掛かっていた。校庭横の石碑の元へと向かうと、彼はそこにいた。
「あの」
石碑の元へと辿り着いた彩穂が声をかけると、彼は視線を彼女の方へと向ける。
「やはり、戻っていたか」
「はい。ですから、私も一緒に」
彩穂の言葉に彼は頷くと、校舎の方へと向かって歩き出した。彩穂もその後を付けていきながら、鞄の中から拳銃を引っ張り出す。
彼は昇降口の手前で止まると、顔を彩穂の方へと向ける。
「校舎の中に二人で侵入して暫くしても親父が出てこないなら、二手に分かれて校舎を回ろう。恐らく真っ先狙われるのはお前だろうから、何かあったら発砲しろ、駆けつける」
「はい」
「もしかしたら、かなり巧妙な手口を使って俺達の合流を妨害してくる可能性もあるから、気をつけてくれ」
「は、はい」
「あと、これを」彼は金属製の箱のような物と紙箱を彩穂に渡す。「予備の弾倉と、実包三十発分だ。出来れば頻繁に使うような状況にならないことが望ましいが、そうはいかんだろうからな」
「弾倉? 実包?」聞き慣れない単語に彩穂は首をかしげる。無理もない。一般人には無縁の単語である。
「噛み砕いて言ってしまえば、弾薬入れと、弾薬だ。弾倉に予め実包を込めておいて、弾切れになったら空の弾倉を銃から取り出して、装弾済みの弾倉を銃に入れて再装填すればまた撃てるという物だ」
「そ、そうですか」頷きはしたが、いまいち分かっていないという顔の彩穂。
「まあ、奴に遭遇したら一発撃って後は無理せず逃げ回るだけでもいい。お前が奴の気が逸らせてくれればそれだけで俺が攻撃できる機会も増える」彼は彩穂の肩を軽く叩く。「じゃあ、行くぞ」
「わかりました」
緊張と恐怖で声が裏返ったことを自覚しつつ、彩穂は彼の後に続いて校舎の中へと足を踏み入れたのだった。
彼と共に彩穂が校舎へと入ってから既に30分が経過しようとしているが、一昨日のように〈鉄砲さん〉は簡単に現れてくれなかった。既に校舎を一周しているにも拘わらず全く遭遇していない。彼に言わせればいるのは確実だというのにである。
何事もなく一周を終え、昇降口の前に到着すると、彼は彩穂の方へ向き直ると言った。
「二手に分かれよう。俺はこのまま先へ、お前は回ってきた場所を逆戻りだ。何事もなければ二階で合流できるだろう」
最後に「無理はするなよ」と言う彼の言葉を合図として、二手に分かれた。
先程まで二人で見てきた道のりを逆行し始める彩穂であったが、やはり二人で進んでいた先程までとは薄暗い校舎は全く別物に見えた。暗闇が迫ってくるような錯覚すら覚える。この時彩穂は自身が急ぐあまりに懐中電灯を忘れてきていたことを酷く後悔していた。頼りない非常灯の明かりだけでは隅々までよく見えず、余計に恐怖に拍車が掛かってしまう。
校舎の構造はコの字型で、突き当たりに階段がある。だが、そこに至るまでに廊下の角を曲がらなければならない。彩穂は曲がった先に何かが潜んでいて、角に到達した途端に襲いかかってくるのではないかと怯えていた。過去二回ほどの増築によって歪に飛び出た廊下の出っ張りやくぼみにも恐怖が潜んでいる。小柄な人間くらいの大きさならば容易に息を潜められるその地点の横に差し掛かる度に其方に視線と意識を集中させ、警戒して通り抜けた。
そうしてゆっくりと進んでいくうちに問題の角へと差し掛かろうという所まで来た。知らず知らずのうちに呼吸が浅く、粗くなる。拳銃をぎこちなく構えた両手が震える。肩と脇腹が緊張で痙攣していた。角の向こうが見えかける。意を決して、勢いよく身体を角の向こうにさらけ出す。
角には何もおらず、頼りない非常灯の明かりが廊下を所々照らしているだけだった。彩穂はひとまずホッと胸をなで下ろしながら月明かりが照らす窓辺付近まで歩いて進む。
「ねーちゃん……」
突然自身の足下から幼い子供の声が聞こえて彼女は再び全身を緊張させて固まった。背中に冷や汗が吹き出す。
「なあ、ねえちゃん」
ふ、二人、足下に……。
彼女は身体を動かすことが出来ないまま、油が切れた人形のように自身の足下を見下ろす。瞬間、背筋が凍った。
彩穂の足にしがみつくようにして、小さな子供が二人、彼女を見上げて無邪気な笑みを浮かべていた。
「ねーちゃん」女の子が言う。
「ねえちゃん」男の子が言う。
いるはず、ない。普通の子供が、日の落ちた中学校で平気そうに笑ってるなんて―――。
「ねーちゃん、ええ匂いすんね」彩穂の右足に猫のように顔をこすりつけながら女の子が言う。
「石けんや、ねえちゃんから石けんの匂いがすんのや」両腕で彩穂の左足をガッシリと押さえながら男の子が言った。
身動きが取れない彩穂はどうにか出来ないかと前を向くが、直後彼女の心臓は凍り付きそうになる。
すぐ目の前、1メートル先に〈鉄砲さん〉がぬらりと立っており、彩穂の顔を覗き込むようにして見つめていたのだ。
「かッ!! …………かあ、はっぁ!」
極限の緊張と恐怖に耐えきれなくなった彩穂はその場で呼吸困難に陥り、堪らず蹲るようにして倒れ込む。口の端に泡を溜め、浅い呼吸を繰り返しながら喉を掻きむしるようにして酸素を取り込もうとする。
「ねーちゃん、具合悪いんか」口ぶりとは裏腹に楽しそうな表情をしながら女の子。
「ねえちゃん、苦しいんか」此方は明らかに心配するふりすらせず悪意のある笑みを浮かべながら顔を覗き込んでくる男の子。
「は、……ハッ……はッハァ―――!!」藻掻きながらも何とか這いずってその場から逃れようと手足をばたつかせる彩穂。
「逃がさないでー」
逃げようと四つん這いになった彩穂の上にのしかかる女の子。男の子は彩穂を蹴り倒そうと脇腹を思い切り蹴りつけている。その蹴りの一発が鳩尾に入り、今度こそまともに呼吸できなくなった彩穂はその場にくずおれた。そして彼女は見た、目はぽっかりと黒く穴となってくぼみ、笑う口元には歯茎が無く、米粒のような歯がびっしりと生えている子供の化け物を言うべき物を。
「ねーちゃん、うまそうやなあ」恐ろしい笑顔を彩穂の顔にずいっと近づける女の子。
「喰ってしまお、うまそうなら」同じ表情の男の子
二人の子供の口がガバリと開かれ、米粒のような湿り気のない大量の歯が彩穂に迫る。
突然、銃声と共に窓ガラスが吹き飛び、その破片が子供達の口に入り込んだらしく二人とも悲鳴を上げて悶絶する。
彩穂はじたばたと手足を動かして立ち上がると、その場から逃げようと走り出した。
「にがさへんぞ、クソアマアァァァァァ!」
「またんかい、アバズレエェェェェェエ!」
ガラス片の痛みから立ち直った子供達が彩穂に飛びかかり、右の太ももと左の背中に食い千切らんばかりの力で食らいついた。
「アアアアァァアァァアァァアァアア!!!!!!!」食らい付かれた激痛で彩穂は猛烈な悲鳴を上げる。
子供達はそのまま右へ左へ首を力任せに振って肉を引きちぎろうとする。そのたびに彩穂の服に血が滲んだ。
再び銃声。彩穂の背中に食らい付いていた子供がくぐもった悲鳴と共に吹き飛ばされる。これで流石にこのままは拙いと判断したのか、太ももに食らい付いていた子供は彩穂から一旦離れようとする。だが、三回目の銃声で此方もあえなく弾き飛ばされた。
校舎の中庭を猛烈な速さで駆け抜ける足音が近づいてくる。〈鉄砲さん〉が中庭を駆ける足音へ発砲する。だが、足音は止まらずに再び鳴り響くガラスの破砕音と共に小銃を持った男が廊下へ飛び込んでくるのを見た彩穂は、そのまま意識を手放した。
つくづく俺は迂闊だった。
廊下の真ん中で小銃を構えている彼は後ろで気を失っている彩穂を見て唇を噛む。肩と太ももから酷く出血しているらしい、早く止血しなければ傷の具合によっては命取りとなる。
「おい、お前ら」声を発した彼はこれが自分の声だと気づくのに若干の時間を要した。怒気が宿りすぎて余りにも自分の声とはほど遠かったから。「下のガキ共、知らんねーちゃんにちょっかいかけんなってあれほど注意しとったよな?」
彼の怒気の籠もった声を聞いて子供達が若干怯む。次いで彼は自身の父親である〈鉄砲さん〉を見据えて声を絞り出す。
「おい、クソオヤジ。ボケが回りすぎてガキの躾も満足に出来んようになったんか? ……何とか言ったらどうなんやワレェ!!!」
彼の怒号をまともに浴びても〈鉄砲さん〉はぴくりとも動かない。が、弾切れとなった拳銃の弾倉を取り替えようとする構えを見せている辺り、シカトを決め込んでいるらしかった。顔を思い切り歪めて舌打ちをする。
「英太郎のあんちゃん、私ら助けてくれんかったのに、そのねーちゃんは助けるんか?」女の子の声で子供の片割れ。「ひどいなあ」
その言葉を聞き、英太郎と呼ばれた彼の顔が一瞬引き攣る。
「ひどいなあ、ひどいなあ」
「黙れ、化け物共」毛を逆立てて絞り出すように彼は言う。
「ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ」
「ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ、ひどいなあ」
ガン! ガン!
強烈な銃声が二回、校舎に響き渡る。
壊れたラジオのように同じ言葉を繰り返していた二人の子供達は、顎から上が小銃で撃ち抜かれ、吹き飛んでいた。頭を失った子供達の骸はそのまま後方へ倒れると、赤黒い液体に溶けて消えた。
英太郎は弾切れとなったイ式小銃を無造作に床へ投げ捨てると、黒目がポツリと小さくなった両目で〈鉄砲さん〉を睨み付ける。〈鉄砲さん〉は既に弾倉の交換を終え、いつでも拳銃を発射できる状態にしていた。その両目は黒くぽっかりと穴が空いて窺うことは出来ないが、心なしか煽っているようにも感じた。
「クソオヤジ、そんな煽らんでも今日で終いや」彼は南部式自動拳銃を拳銃嚢から抜き、腰の銃剣も抜く。「後ろで血ぃ流しとるやつがおるんでな、すぐ終わらしたる」
その言葉を待っていたかのように〈鉄砲さん〉は満面の笑みを浮かべ、英太郎に十四年式拳銃を向ける。つり上がったその口の中まで底なしの闇である。
英太郎は二発発砲しながら左斜め前のガラス戸から中庭へ飛び出す。〈鉄砲さん〉は自分に向けて発砲されたことなどお構いなしとばかりに、外へ飛び出した英太郎を追いながら此方も二発発砲する。
一発の銃弾が英太郎の足下を掠めるが、怯まずに応射。三発放たれた銃弾のうち一発は〈鉄砲さん〉の左肩に命中し、その部位が赤く滲む。好機と見た英太郎は左の脇を締めて銃剣を身体に対して垂直に向けると、〈鉄砲さん〉に突進する。銃剣を突き刺すつもりである。
だが、〈鉄砲さん〉は全く怯んでいるそぶりを見せずに英太郎へ向けて残りの六発を全て乱射した。今更突進をやめるわけにはいかない英太郎は右脇腹、右胸に被弾する。右上半身に鉄球がぶつかったような衝撃と、猛烈な熱さが彼の復讐心を焼く。
まだ痛くはない、今を逃せば終わりだ。
そのまま倒れ込むようにして英太郎は拳銃を撃ち尽くした〈鉄砲さん〉に体当たりしてその腹部に銃剣を突き刺す。突進の衝撃で軟弱な材質の銃剣は刺さった部位からへし折れてしまった。
突進の勢いを受け止めきれずに〈鉄砲さん〉は英太郎ごと再び廊下へと吹っ飛ばされる。だが、まだ動けるらしい。口から粘っこい血を吐き出しながら立ち上がろうとする。英太郎も痛み出した傷口に鞭を打って何とか立ち上がると、〈鉄砲さん〉に拳銃を向け発砲しようとする。だが、〈鉄砲さん〉は飛び上がるようにして立ち上がると勢いをそのままに英太郎に組み付いた。その際、拳銃が暴発して廊下の窓を砕く。
〈鉄砲さん〉を突き放した英太郎が銃を向けるが手で払われた際に再び暴発する。
残り、一発。
二人は最後の一発を相手に撃ち込むために押し問答を繰り広げる。だが、これまでの過程で英太郎は消耗が激しすぎた。両腕に力が入らず、主導権が〈鉄砲さん〉に渡った。
拳銃の銃口が英太郎の方へと向き、引き金が引かれようとする。
「父ちゃん」
引き金を引こうとした〈鉄砲さん〉の背後から若い女性の声が聞こえた。
その声に聞き覚えがあるらしい〈鉄砲さん〉は背後を振り向いた。〈鉄砲さん〉が上半身をひねる形で背後を向いたため、英太郎も声の主を確認することが出来た。声の主である女性を確認した途端、英太郎は呆気にとられ、思わず口を突いてその人の名前が出た。
「清子姉ちゃん」
英太郎がそう呟くのと、〈鉄砲さん〉の胸部に赤い花が滲んだのはほぼ同時だった。
肩と、太ももが、熱い。溶け落ちてしまいそう。
頭も痛い、熱が出てきているのかな。頭がぼんやりとする。
ああ、〈鉄砲さん〉と誰かが、そうだ、さっき聞いたよ。英太郎さんが戦ってる。
あれ、聞いた? 誰に?
いいや、今は関係ない。〈鉄砲さん〉を撃たなきゃいけない。私はちゃんと、拳銃を持ってた。
〈鉄砲さん〉が何かを見て驚いてる。丁度いいや、今のうちに引き金を引いて―――英太郎さんまで、誰を見てるんだろう。
あれ? さやこ先生?




