鉄砲さん プロローグ
何でなんだ……何でだ、親父。
気づけば彼はそれだけをうわごとのように呟き、父親に撃たれた腹部の傷口を左手で押さえながら、今にも膝から崩れ落ちそうな程におぼつかない足取りで小雨の降る森の中を進んでいた。夜が明けてきているらしく、空を覆う灰色の雲越しでも青白い朝日が確認できた。
裸足の足が小雨で濡れた森の腐葉土に足跡を残す不快な感触と、簡易的とは言え止血を施したのにも拘わらず押さえる左の手のひらをべったりと赤く染め続ける腹部からの出血、その傷口の猛烈な痛みによって浅くなる自身の呼吸が彼を苛立たせていた。
足を前に出す度、息をする度に、銃創から走る鋭いとも鈍いとも言えない激痛が全身の筋肉を硬直させ、彼の気力と体力を削ぎ落とそうとしてくる。しかし、彼は痛みで立ち止まりそうになる度、右手に握った大型拳銃の感触と重さを確かめて前に進んでいた。
彼の目線は踏み出す足の僅か先、凹凸が残っている地面に据えられている。地面の凹凸は年の離れた弟妹が父親に引きずられて出来た跡だった。
数時間前、元陸軍士官であった父親は終戦から二ヶ月経過したのにも拘わらず提出せず隠し持っていた拳銃で寝ていた母親を射殺し、騒ぎを聞いて寝室へと飛び込んで止めに入った彼を撃って、そのまま村人と駆けつけた警察官を拳銃と鉈で殺害した挙げ句に、まだ幼い弟妹を引きずって森の中へ入っていった。
一度は撃たれて気絶していた彼であったが、嫌がりながら父親に引きずられていく弟妹の叫び声を聞いて目を覚まし、寝間着として着ていた甚兵衛で腹部の傷を簡単に止血した。手早く止血を終わらせると父親が隠していたうちの一丁と思われる拳銃に弾を込め、痛む傷を押さえながら小雨の降る深夜の森へと父親と弟妹を追って踏み込んだのだった。
だらりと下げた右腕に伝わる拳銃の重みと、傷口から大腿の辺りにまで流れ落ちてきている血を感じながら地面に残された跡を暫く追っているうち、不意に森の木々が少なくなり目の前が開ける。すると、彼は半壊した中学校の付近に出た。
元々平坦であっただろう校庭には彼が持っている拳銃などとは比較にもならないほどの大きな弾痕が数多く残され、校舎自体も半焼している上に校庭の物と同じ弾痕が建物全体に刻まれていた。焼夷弾を受けて炎上していた校舎に執拗な機銃掃射によって追撃が行われたことが一目で分かるほどの有様だった。
姉ちゃんが教師をしていた学校だ。
彼は多量の出血によってぼんやりと靄の掛かり始めた思考の中でそう直感した。
周囲を見回すと、校庭横の石畳で出来た空間に人影があった。彼は身体を其方へと向けて歩き出す。人影の足下に小さな何かが二つ転がっている事を確認すると、傷が痛むのも構わずに歩調を早めた。彼の呼吸は乱れている。傷口も熱を持ち始めた。
遂に人影をはっきりと確認できる距離まで近づいた彼は、目を見開き、呆然としながら地面に膝をついて崩れ落ちた。
父親の足下で、幼い弟妹が青ざめた顔で血を流して絶命している。父親は小雨に撃たれて横たわる弟妹の遺体をだた虚ろな表情で見つめていた。不意に、父親が二人の遺体から視線を外して未だ膝をついている彼の方を向く。彼を見るその表情も虚ろだ。
虚ろに見つめてくる父親の表情を見て、彼の中で激しい怒りが湧き上がってきた。ふらふらと左右に身体を揺らしながら、ぬかるんだ地面を泥まみれの足で乱暴に踏みにじって立ち上がった。熱を持った銃創が痛むが、白熱した鋼のような怒りを抑え込むには至らない。噛み砕かんばかりに歯を食いしばり父親を見据えると、感覚のない震える右腕を持ち上げて拳銃の銃口を父親に、彼を虚ろに見つめる男に向けて、引き金を引き絞った。直後、手のひらで大型の拳銃が甲高い作動音と共に飛び跳ねる。
彼の拳銃から発射された弾丸は父親の顔を掠めただけに終わった。顔の横を高速で銃弾が掠め飛んだにも拘わらず父親は表情一つ動かさない。
続けて二発目を発砲。当たらない。さらに続けて三発、四発と発砲するが、出血と熱によって全身の感覚すら定かでない状態から怒りにまかせて乱射される彼の弾丸は目前の男に当たらない。
失中を続けているうち、父親の腕がゆっくりと持ち上がる。その手には拳銃が握られている。それすら見えていないのか、彼は無茶苦茶な射撃を繰り返し、ついには最終弾を撃ち終えて拳銃の遊底が開き弾切れを知らせる。予備の弾はなかった。
父親は腕を完全に持ち上げて彼に拳銃の銃口を向けると、一瞬の間を置いた後に一発だけ発砲した。
放たれた銃弾は彼の胸部に命中する。撃たれた側の彼は一瞬何が起きたのか分からなかった。
上半身を丸太で思い切り殴られたような衝撃。息が詰まる。胸の辺りに焼けた火箸を差し込まれているかのような猛烈な熱さを感じた。呼吸が出来ない。次第にすうっと胸の熱さも腹部の痛みも遠くなり、感じなくなる。視界が揺れながら高速で上に回り、目前に夜明けの光を僅かに透けさせた灰色の雨雲が映った。濁った空が黒く縁取られながら遠ざかっていき、やがて完全な暗闇が視界を覆って、ぷつりと消えていった。
気づけば布団をはね除けて飛び起きていた。呼吸が荒い。遮光カーテンの隙間から眩い朝日が部屋の中へと差し込み、彼女に朝の到来を知らせていた。だがそんなさわやかな日差しとは裏腹に、びっしょりと掻いた汗のせいで寝間着が全身に張り付いて不愉快だった。
枕元の目覚まし時計を探すと、寝ているときに暴れて弾き飛ばしてしまったのか、ベッドからかなり離れた場所で転がっていた。電池が飛び出していて5時半を指している辺りで秒針が止まっている。これでは時間が分からない。舌打ちをすると、皮膚に張り付く汗を乾かすため寝間着の前を開いて再びベッドに倒れ込む。
「変な夢……」
彼女はそう呟いて深い溜息を吐く。悪夢を見た直後特有の気怠さが全身を包んでいる。心臓の鼓動が早い。右の手のひらを心臓に当ててみると一層その鼓動が強く感じられた。
大丈夫、私は生きてる。
彼女は夢の余韻によって若干ぼんやりとした頭で無意識にそんなことを考えていた。夢の中でとはいえ、誰かが撃たれて死ぬ様を“体験”するのは彼女にとっては衝撃的なことだった。撃たれたときの感覚といい、視界といい、彼女が想像できうる中で最も生々しい感覚があの夢にはあった。
「彩穂! そろそろ起きなさい、今日は前期の終業式があるでしょう」
暫くの間、余韻に浸っていると下の階から彼女の名前を呼ぶ母親の声が聞こえてくる。
さっき見たのはあくまで夢。確かに撃たれた感触はえぐかったけど、ただそれだけ。私の現実には関係ないからね。
彩穂は一旦そう考えて区切りを付けると、気持ちを切り替えるべく一度深呼吸をしてベッドから起き上がり、学校の制服へと着替え始めた。




