詩篇より生まれし大地の獣②
戦いは避けられない。
レイクスに引きずられて生き延びた今日一日で、随分と度胸が据わった。これまでの自分だったら、もうパニックに陥っていたところだ。それとも、単に恐怖を感じる部分が疲労で麻痺してしまったか。
ぼくは誰にも聞こえないように、口内で静かに囁く。
「【悪戯仔猫】、疑似自律モードで援護しろ」
視界の隅で、黒衣の少女がわずかに瞳を細めた。
――イエス、マイ・マスター。
ぼくが【悪戯仔猫】の転送した日本刀を、鞘ごと空間から引き出した瞬間、グリフォンが甲高い声で鳴いた。
音波で空間が震え、草原を突風が薙ぎ払う。
「――ッ! 散ってッ!!」
閉じた目を開けた直後、レイクスの声が響く。その瞬間、グリフォンがぼくらへと躍りかかった。
レイクスが息を呑んで硬直したヤマネ氏の腕をつかんで引きずり、ぼくとテオフィルスは草原を無様に転がりながらも回避する。
グリフォンが草原に降り立つだけで、大地が軽く上下する。草原の大地や雑草が、細かい土塊となって跳ね上がった。
猛禽類の瞳がギョロギョロと獲物を捜し、ぼくで視線を止める。
「イイ!? マジかよ……っ」
とっさに投げつけた日本刀の鞘など意にも介さず、茶褐色の剛毛で覆われた額で弾いて飛びかかり、ぼくの頭部を食い千切れる位置で嘴を大きく開けた。
覚悟は決まっていても、ぼくには圧倒的に戦闘経験が足りていない。
回避!? いや、武器で反撃? ま、間に合わ――!
「うっふふ、帽子はいかが~~~~~~~~~~~?」
ぼくの横から、グリフォンの眼球を狙ったのかシルクハットが飛来し、鳥のような頭部へと直撃した。
およそ布製品が当たったとは思えない鈍い音が響き、ぼくを噛み砕こうとしていたグリフォンがその巨体を傾けた。
投げたのはもちろん、赤毛の帽子屋テオフィルスだ。
「シルクハットはお気に入り? それともキャップ? 色々あるわよぉ? ストロー、テンガロン、カンカンハンティングキャスケットベレーポォォーーーークパイ!? アッハハハハハハハッ!! 排泄物色のバケモノに似合うものを見繕ってあげるわぁ!」
いったいどこに収納していたのか、いつも持っていたシルクハットの中に手を入れるたび、次々と違う形の帽子を取り出し、グリフォンの頭部へと目掛けてフリスビーのように投げつける。
「アッハハハハハハハッ!! ねえねえ、尻穴女は元気ィィ? ねえねえねえったらァ!」
帽子は鋼鉄でできているのか、半球部分が当たれば鈍い音が響き、鋭角なつばが当たれば茶褐色の剛毛がパッと空に散った。
グリフォンが標的を変えてテオフィルスへと翼を広げた。
テオフィルスはグリフォンの突撃をきわどいタイミングで転がって回避し、再びシルクハットに手を入れて帽子を取り出し、次々と投げつける。
ショートソードを低く構えて、レイクスがグリフォンの背後へと草原を疾走しながら視線をこちらに向けた。
「ギイチッ!!」
「う、うんっ!」
ぼくはパーカーの袖口から滑り落ちてきた【悪戯仔猫】製の抜き身の日本刀を左手でつかみ、二刀流となってグリフォンの横っ腹へと走り出す。
「やあっ!!」
レイクスがショートソードで、己の身長を遙かに凌駕するグリフォンの後ろ足を斬りつけた。茶褐色の剛毛が血と混ざって草原に散った瞬間、グリフォンが音波のような悲鳴を上げた。
効いてる!
直後、後ろ足から前足へと荷重を変えて、グリフォンが背後のレイクスを蹴り飛ばす。
「――ッ!!」
かろうじて盾にしたショートソードがへし折れて、レイクスの全身がゴムボールのように吹っ飛んで地面でバウンドし、しかし体勢を立て直して両足で地面を掻いて滑った。
ぼくは荷重の乗った茶褐色の前足へと、一気に二振りの日本刀を十字に振り抜く。刃は剛毛を斬り裂き、肉に分け入って骨にまで達した。
前足一本!
グリフォンが全身をよじって、音波のような凄まじい悲鳴を上げた。
だけど、あわてて日本刀を引き抜こうとしても、刃はまるで岩にでも埋まってしまったかのように動かない。
「くそ、抜けな――っ」
怒り狂ったグリフォンが、もう片方の前足を持ち上げた。斧を束ねたかのような巨大な爪が振り下ろされる先は、どう考えてもぼくしかない。
武器がないと……!
「ギイチッ!!」
レイクスが叫んだ。
――いいえ、マスター。あなたの最大の武器は、ここにいます。
静かな女性の声。黒衣の少女が耳元で悪戯っぽく囁く。
そうか。ここは謂わば仮想空間に近い書籍世界。武器にこだわる必要がどこにあるんだ。
「キティ!」
――イエス、マイ・マスター。
どこか機嫌が良さそうに聞こえたのは気のせいだろうか。黒衣の少女が視界の隅で、両手を大きく広げた。彼女の動きに合わせて手を一振りすると、ぼくの手の中にはロングソードが出現する。
ロングソードの腹に左手を添えてグリフォンの巨大な爪を滑らせて流し、曲がってしまった剣をすぐに投げ捨てる。同時に、左手に出現した金属の盾でグリフォンの追撃の爪を去なし、それを力任せにグリフォンの鼻面へと叩きつけた。
「だらぁっ!」
凄まじい音と衝撃が迸り、グリフォンが顔を歪めて数歩後退する。
次の瞬間にはもう、ぼくは重い盾を投げ捨てて、袖口から滑り出したショートソードの柄をつかんでいた。
【悪戯仔猫】は、転送タイミングを決して誤らない。
「はぁぁぁっ」
瞬間、自分のなかの何かが切り替わった。
スイッチが入ったとでも言えばいいのか。恐怖が消えて、無意識に頬がつり上がってゆくのを感じたんだ。
高揚する。ぼくは、裏返った。
ショートソードの柄を逆手に持ち替えて、ぼくはグリフォンの胸部へと向けて投げつける。グリフォンがそれを嫌うかのように大きく飛び退いた。
視界の隅で黒衣の少女が両手を広げたまま、踊るように回転した。
その瞬間には、ぼくの立ち位置を中心として、中空から出現した数十本もの刃物が地面に突き立てられていた。
武器なら選り取り見取り。なぜならぼくの最大の武器は人工知能【悪戯仔猫】だから。
――イエス、マイ・マスター。あなたの刃は、ここに。
「反則なんて言うなよ、バケモノ。こちとらちっぽけな人間なんだ」
小さく呟き、乾いた唇を舐める。
テオフィルスの鋼鉄の帽子をかいくぐり、今やグリフォンはぼくだけを狙って駆ける。もっとも、日本刀を刺したままの前足は動いていないから、先ほどまでの俊敏さはない。
ぼくは手の届く範囲にある刃物を逆手で拾い上げ、次々とグリフォンへと投げつけた。右腕を振り切った体勢で左手でショートソードをつかみ、身体を回転させながら投げ、勢いのまま右手で次の武器をつかみ、投げ、さらに左手でつかみあげる。
「うわあああぁぁぁぁーーーーーーーーーーっ!!」
グリフォンの突撃は完全に止まり、今やぼくがデタラメに投げる武器を回避することに終始している。けれど武器が尽きることはない。【悪戯仔猫】が黒髪と黒衣を舞い上げながら、次々とぼくの周囲に武器を降らせ続けているから。
精神の高揚とともに肉体の回転力も上がってゆく。こんな感覚は初めてだ。
「ハハ、来いよ! 来てみろバケモノ!」
さすがに躱しきれないのか、グリフォンが翼を広げて空に逃れようとした瞬間、蛇のような尻尾を駆け上がってその背中にレイクスが跳び乗った。
彼女の手の中には槍が握られている。
「さんきゅ、オジサン」
「ど、どどどういたしまして!」
ヤマネ氏が鍛冶プログラムで創った槍か。
レイクスが槍を手の中でくるりと回して穂先を下に向け、わずかに空へと舞い上がったグリフォンの羽根の付け根へと突き下ろした。
「やっ!!」
肉を貫く鈍い音が響く。
血液が噴出した瞬間には、レイクスはあっさりと槍を捨てて草原に足をつけ、落下の勢いを殺すために全身で前に転がった。
「これでどう!?」
体捌きがすでに一介の女子高生を完全に凌駕してしまっている。これが六ヶ月を不思議の国で生き抜いてきた強さか。
「オジサン、次!」
「は、はい! 転送、行きます!」
レイクスの手の中に再び銀色の武器が浮かび上がる。
今度は突撃槍だ。もちろん【悪戯仔猫】とは比べるべくもないけど、ヤマネ氏のプログラミング速度も尋常じゃない。最先端企業エクサテクニクスのエンジニアは伊達じゃない。
樹木の陰に隠れながら、ヤマネ氏が叫ぶ。
「つ、使えますでしょうか!?」
「正直わたしにはちょっと重い――けど、使い捨てなら!」
片翼を槍で縫い止められ、暴れながら草原に落下したグリフォンへと、レイクスが両腕で突撃槍を抱えながら勢いをつけて突撃した。
「ああああぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
レイクスの視線が一瞬だけぼくへと向けられる。
フォローだ。
「う……、おおおおおぉぉぉぉーーーーーーーーーーーっ!!」
それを見た瞬間、ぼくは地面に突き立てられた日本刀を右手で引き抜くと同時に、左の袖の中から出現させたコンバットナイフを指先でつかみ、身を低くして走り出した。
「ポークパイはおちゅきなのぉ?」
テオフィルスの投げた鋼鉄の帽子が、グリフォンの左目に直撃する。グリフォンが身をよじって暴れ、悲鳴を上げた。大地が震えて砂煙が舞い上がる。
次の瞬間、砂煙を突き破ったレイクスの突撃槍が、グリフォンの喉へと突き刺さった。
「たあぁぁーーーーーーっ!」
肉のたわむ音が鳴り響き、パンパンに張った袋を破ったかのように血液が噴出した。レイクスが突撃槍から手を放して後退した瞬間、数歩よろけた巨体が横倒しに崩れ落ちる。
「ギイチッ!! お願いッ!」
最期の足掻きだろう、グリフォンがレイクスを狙って鋭い嘴を大きく開けた。
遅い――ッ!!
血液で濡れた茶褐色の首が持ち上げられた。その嘴がレイクスの全身を呑み込むより早く、ぼくは左手に持ったコンバットナイフをグリフォンの右目に投げつけて怯ませ、右手の日本刀を両手に持ち替える。
「うぅぅぅぅ――!」
勢いのまま腰を入れ、食いしばった歯の隙間から気合いの声を漏らし、ぼくはグリフォンの首へと、風を巻き込むように回転しながら逆袈裟に日本刀を振るった。
「があああぁぁぁーーーーーーーーーーーーッ!!」
茶褐色の剛毛を斬り裂き、刃が肉へと分け入る手応えが両腕を伝う。骨で止められそうな刃を、勢いが残るうちにさらに全身をねじりながら強引に振り切った。
草原を強い風が流れた。
パキっと音がして、根元から刃が折れた直後、持ち上げられていたグリフォンの長い首が、力を失って草原に落ちる。
一瞬遅れで大量の血液が流れ出し、緑の草原を真っ赤な水たまりへと変化させた。
空間に静寂が訪れる。全員が呼吸を止めていた。
「か、か、かか勝った……。信じられない、あんな巨大なバケモノに……ぼ、ぼくが……。あは、あはは……勝った! 勝ったぞぉーーーーっ!」