詩篇より生まれし大地の獣①
ヤマネ氏が腕組みをして、難しい顔で呟いた。
「あなた方の話を要約すると、この世界は『不思議の国のアリス』で、私たちは現実世界から、なんらかの方法で放り込まれた人間。もしくは仮想人格。そしてここを出たければ、ジャヴァウォックとバンダースナッチを消し去らなければならない。合ってます?」
ぼくとレイクスは視線を交わし合ってからうなずく。
「なんてことだ……」
その一言を最後に、ヤマネ氏は黙り込んでしまった。
長テーブルのお誕生日席では、未だに帽子屋テオフィルスが頭を抱えて座っているし、足元の三月兎の食欲は衰えることがない。ついでに言えば、雲一つない実に良い天気だ。気候も春のようで悪くない。
ぼくは遠慮がちにヤマネ氏に声をかけた。
「あの……」
「はい?」
「ぼくらの話、信じたの?」
だって不自然じゃないか。
こんな最先端技術を扱う会社に勤めているような人が、数百年は不可能だと言われているフルダイブ技術だかファンタジックな異世界召還だかの話を、いともあっさりと信じるなんて。正確には違うけれど。
ヤマネ氏は深いため息をついて、残り一欠片となっていた皿のクッキーをつまんで口に運んだ。ぼくもレイクスも彼の様子を見ている。彼はカップに残った紅茶を飲んで、ソーサーに空のカップを置いた。
「見てください」
そしておもむろに、最後の一欠片を食べて空にしたはずの皿を指さす。そこにはあるはずのないクッキーが山と積まれていた。
「え!?」
「わあ、ステキっ。いくら食べても太らないのがまたステキっ」
レイクスが嬉しそうに手を伸ばして山盛りのクッキーをつまみ、対照的にぼくは額に縦皺を刻んだ。
「手品?」
「違いますよ。このお茶会は終わらないんです。給仕もいないし、テオフィルスさんも動いていないのに、こうしてクッキーも紅茶もなくなることがないんですよ。キミたちの話を聞いて、ようやく謎が解けました。これは『アリス』で言えば、文字通り“終わらないお茶会”。だからおそらく、自動的にいくらでも補充される。そう組まれたプログラムによって、です」
三月兎が延々と草を食べ続けても、草原を保っていられるわけだ。
兎は時折ぼくらを赤い瞳で見上げては、また地面の草を食べ続けている。ちなみに、芋虫ですら喋れる世界なのに、この三月兎が言葉を発することはなかった。
「キミたちが先ほど教えてくれた鍛冶プログラムと同じ原理です。ただし、世界そのものの書き換えは不可能のようです。先ほどから試していますが、草原の雑草がなくなることがない。おそらくこの世界で決められたルールから逸脱する行為はできないのでしょう」
レイクスが紅茶を飲んで、椅子の背もたれに身体を預けた。
「正解。できない。わたしは最初に拳銃を出そうとしたんだけど、出てこなかった。それはわたしが拳銃の仕組みを知らないだとか実際に持ったことがないことが原因じゃなくって、不思議の国にはないオーバーテクノロジーだったから」
数秒間思案する素振りを見せた後、ヤマネ氏が顔を上げた。
「では、行きましょうか。アリス・リデルのところへ」
ヤマネ氏がすくっと立ち上がり、曲がったネクタイを片手で戻す。
来たときとは違い、目がギラついている。眠らなくても栄養ドリンクを片手に二十四時間は戦えるサラリーマンの瞳だ。
レイクスがテーブルに肘を付いてヤマネ氏を眺めた。
「オジサンはアリス・リデルの居場所を知っているの?」
「キミたちが知ってるんじゃないんですか?」
「ぼくらは知らないよ。それを尋ねに来たんだから」
三月兎は喋れない。
チェシャ猫が言うにはリデルの居場所を知っているらしいが、知っていてもぼくらに伝える手段はないだろう。
チェシャ猫に、言葉を話せるやつ限定と伝えなかったぼくらのミスだ。
「……はぁ~……」
途方に暮れて、ぼくらは揃ってテーブルに突っ伏した。
結局どんよりとした空気に呑まれてしまった。面倒だけど、もう一度森に戻ってチェシャ猫を捜すしかない。
そんなことを考えて頭を抱え込み、何度目かの疲れたため息をついたとき、突然ガバっと帽子屋テオフィルスがテーブルから身を起こした。
「リ、リデ、リデル……? さっき、アリス・リデルって言った?」
ぼくらはのろのろと赤毛のテオフィルスに視線を向けた。レイクスがテーブルから身を起こし、気怠そうに呟く。
「言ったわよ」
「そっか! 帽子屋テオフィルスもリデルの居場所を知ってるんだった!」
ぼくとヤマネ氏が身を起こした直後、テオフィルスがテーブルに載っていた山盛りお菓子の皿という皿を、突然片手でヒステリックに払い落とした。
「リデルッ!! あの尻穴女!」
けたたましい音がして、白い陶器の破片と多くのお菓子が草原で砕けた。
ぼくやレイクスだけではなく、ヤマネ氏までもが驚いて目を剥くなか、テオフィルスは両腕を振り上げて、長テーブルへと叩きつけた。
「人が親切に赤の女王の城に案内してやったってーのに、帽子もかぶらずに裏切ってんじゃないわよ!」
手に持ったシルクハットを振り回し、憤怒の形相でテオフィルスはティーポットを叩き割る。粉々に砕けた皿やポットを、足元の三月兎がポリポリと食べ始めた。
異様な光景だ。
さすがは不思議の国、さすがはイカレた帽子屋といったところか。
ヤマネ氏があわててなだめる。
「ちょ、ちょっと落ち着いてくださいよ、テオフィルスさん」
「ああっ!? 落ち着いてられるわけねーでしょうがっ!!」
三月兎が割れた皿を一枚食べるたび、デタラメなことに長テーブルの上には新たな皿と山盛りのクッキーやスコーンが復活してゆく。
「ンな~にが暴君よっ!! ふざっけんじゃねーわボケッ!! おまえのダーティーなアソコに三月兎を丸ごとぶち込んでハラワタごと口から引き抜いてさしあげたいっ!!」
言葉が通じたのか、雰囲気を恐れたのか、三月兎があわてて退避した。
それでもテオフィルスは言葉にするのも躊躇われるほどの口汚い怒号を叫き散らし、何度も皿を叩き割った。
目を充血させ、額に血管を浮かせ、テーブルの上を薙ぎ払い、大声でアリス・リデルを罵倒しながら。
チェシャ猫の言ったように、見るからに危ない人だ。
「ヘイヘイヘイ、どうどう。コーフンした牛じゃないんだから落ち着きなよ、オネーサン」
レイクスがショートソードを鞘ごと持って、怖いもの知らずにもテオフィルスの頭をパァンと叩いた。
レレレレレ、レイクスさぁ~~~~んっ!?
ぼくとヤマネ氏はさらなる爆発被害を恐れて、互いに身を寄せ合う。
「あぁ!? 痛えわね、この帽子がステキに似合いそうな腐れお嬢さんが!」
「うるさいよ。落ち着きなって言ってるの。せっかくのイカしたシルクハットが、紅茶で汚れるよ」
長身赤毛のテオフィルスが、凄まじい形相でレイクスを至近距離から見下ろした。けれどその剣呑な空気は長くは続かず、テオフィルスからは突然すべての表情が抜け落ちた。
「あ、うん。そう、そうね。ごめんなさい。イカしたシルクハットは汚れないわ。もう大丈夫、帽子の似合いそうなお嬢さん。帽子はいかが? 今ならなんと、いくつ作っても〇ペンスよ」
「いらない」
「ほあ!?」
「そんなことよりテオフィルスもリデルの居場所を知ってるのよね? 案内してよ」
テオフィルスが悲しげな表情で頭を抱え込んだ。
「リデル、そう、アリス・リデルよ。ああ、アタシがあいつを赤の女王からの使者に渡してしまったから、不思議の国がこんなことになったのよ。あ~ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!! あの首切りが趣味の女王は殺されて当然だけど、まさかリデルがそれ以上に凶悪な女王として君臨してしまうなんて! なんっったる悲劇っ!! ファック! あのクソチビバカの尻穴女がッ! てめぇのケツの穴に三月兎を――」
「うるさい」
テオフィルスの顔つきが変化し始めた瞬間に、レイクスのショートソードが再び彼女の頭部を軽く打った。
「あふンっ!? ――わ、わかった、わかったから殴らないで。帽子が被れなくなっちゃう」
レイクスがショートソードを腰に戻しながら尋ねる。
「で、赤の女王の城はどこにあるの?」
テオフィルスが片手で頭を押さえながら、森とは正反対の方角にもう片方の手で持っていたシルクハットを向けた。
「それなら、この帽子の指し示す……方……角…………」
テオフィルスの途切れた言葉に、ぼくらは目を細めて空を見上げた。
巨大な影が頭上を通り過ぎると同時に、草原に激しい突風が巻き起こり、思わず手で顔を覆った。
「――っ!?」
そいつは大空を駆けながら高度を徐々に下げ、長テーブルの何もかもを薙ぎ払いながら着地する。
立ち籠める獣臭。猛禽類の首に巨大な翼、猛獣の肉体に蠢く大蛇の尾。
でかい。ジャブジャブ鳥の三倍はある。長テーブルよりもさらに大きく、爪はまるで束ねた巨大な斧だ。
ぼくとレイクス、そしてテオフィルスとヤマネ氏は一塊になって、数歩後ずさった。
「ひ、ひぃ! な、なななんなんですか、あれっ!? あ、あんな動物、見たことありませんよ!」
「グリフォン、腐れ尻穴女の忠実なる手足にして、斥候。……気をつけな、ヤマネ。ネズミなんて一飲みさ! きゃははははは!」
テオフィルスが謎の笑い声をあげると、ヤマネ氏が絶望的な表情をした。
「レ、レイクス、どうするの!?」
「もちろん迎え撃つわよ。逃走中に背中を襲われるよりは遙かにマシだし、空を飛ぶやつからは逃げられないから」
「マ、マ、マジですか……」
口元に笑みを浮かべるレイクスも、さすがに額から汗を流している。
「ギイチ、覚悟を決めて」
ぼくは喉を鳴らして唾液を飲み下し、今にも震えそうな足に力を込めた。
「りょ、了解」
「なるべく死なないでね。正直、キミの力をあてにしてる」
レイクスが瞳を細めて、ぼくに軽いウィンクをした。
それだけだ。たったそれだけのことなのに、ぼくの恐怖に縛られた肉体はわずかな冷静さを取り戻し、胸の奥深くに小さな種火が灯った気がした。気がつけば、引き攣りながらだけれど、ぼくの顔にも笑みが浮かんでいた。
「善処はするよ。……自信ないけど……」
鋭い嘴が徐々に開かれてゆく。凄まじい威圧に息すらできない。
ジャブジャブ鳥やトランプ兵など比較にならない。人間の本能が、上位の生物であるグリフォンを恐れている。
なのに、不思議と力が湧いてくる。恐怖も行き過ぎると反転するものなのだろうか。
視界の隅に突然、黒髪黒衣の少女が出現した。
――マスター、援護します。
無自覚のうちに起動したのか、それともぼくのピンチに自動的に起動したのかはわからない。【悪戯仔猫】がぼくに語りかけてきた。
「あ、あの動物、本当に私たちの敵なのでしょうか」
ヤマネ氏がすがるような声でテオフィルスに尋ねると、テオフィルスはシルクハットを手でクルクルと回転させながらため息をついた。
「言ったでしょ。あれは女王の城の生物。リデルが新たな女王として君臨しているから、あれはリデルに従う魔物になってる。あのイカレ女め。穴という穴から色んな液体を噴き出して干からびちまえばいいのにさ。きゃっはははは!」
「そ、そんな~……」
ヤマネ氏が泣きそうな声をあげた。
――さあ、マスター。ご命令を。
黒衣の少女がしなやかに右手を挙げて、その瞳に無数のコードを宿す。