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不思議の国と無垢なる珍獣④

「……あ~……、なんか……ごめん……ギイチ……」

「な、なんでレイクスが謝るの?」

「助けるつもりが助けられて、おまけにギイチの……さっきのってハジメテ……?」


 頬を少し赤らめて、レイクスが伺うように尋ねてきた。

 濡れた金髪が肌に貼りついて、なんとも艶っぽい。どうしても唇ばかりを見つめてしまう。

 ぼくは彼女の姿に赤面して、視線を逸らした。

 死ぬほど恥ずかしい。友達さえいないぼくだ。彼女なんて夢のまた夢。当然唇を重ねる相手など、これまでいたわけもなく。


「ま、まあ……」

「あああぁぁ、ごめ、ごめんなさいごめんなさいっ! わたしを殴ってください!」


 レイクスが突然頭を抱え込んでジタバタした。

 意味がわからない。そんな姿を見せられると、こっちは逆に冷静になってしまう。


「いや、だからなんで?」


 レイクスが突然起き上がり、ぼくの身体をムリヤリ引き起こして両肩をつかんだ。そのまま前後に激しく揺らし、目を剥いてぼくを叱責する。


「バカッ! もっと自分を大切にしなきゃダメよ! あんなに簡単にキスなんかして!」

「いやそれ、今どき男でも言わない台詞だし、そもそも人工呼吸はキスじゃないから」

「なんでよ!? わたしがこんなに恥ずかしいのよ!」


 こいつ、もう本当に何を言っているのか……。


「………………レイクスはハジメテじゃなかったの?」

「ほほっ、まさか! 英語圏じゃ挨拶みたいなもんよ! どやぁ!」


 頬に片手を当て、ピンと張った水色ドレスの胸が、濡れて綺麗なラインを表している。あわてて視線を逃がして、ぼくは皮肉混じりに呟いた。


「確か、日本生まれ日本育ちのイギリス人じゃなかったっけ? それに、挨拶で唇はないだろ?」

「うっ、うう~……背伸びしましたゴメンナサイ……」


 顔を見合わせて互いに破顔したあと、ぼくらは同時に視線を逸らして赤面した。

 なんで背伸びなんてしたんだ、この人……。変なヤツ……。

 でも、なんだか楽しい。たぶん女の子に免疫がないから、ちょっとしたことでぼくは心が揺れてしまうのだろう。これはきっと錯覚だ。脳内麻薬の間違った分泌に過ぎない。


「あ、そうだ。ねえギイチ、さっきの声」

「うん」

 ――にゃひゃひゃひゃ! ニンゲンはおもしろいなあ。


 声、また耳元で。一瞬でふり返っても、やはりレイクス以外は誰もいない。ぼくらは自然と互いに見つめ合う。


「今のよね?」

「うん」


 まるでぼくとレイクスの間で、何かが喋っているかのような錯覚。

 まさかと思いながらも、ぼくは片手を持ち上げた。そのままゆっくり、ゆっくりと、手をレイクスの身体へと伸ばし――。


「え、な、何? ちょっと、ギイチ! やだ待って、唇を重ねたくらいでそんな……!」


 レイクスが自分の胸を両手で隠して身を引こうとした瞬間、ぼくの手がレイクスに届くよりもずっと早く、何かをつかんだ。


「……なんだこれ?」


 フサフサしていて何かの毛皮みたいだ。透明で何も見えないけれど。なんだかよくわからない毛皮らしき感触を、ぎゅっと強く握りしめる。


「――んにぁぁ!? イダダダダ!」


 そんな声が聞こえた直後、突然ぼくとレイクスの前に、灰色虎柄の巨大な獣が出現した。まるで鍛冶プログラムコード・ブラツクスミスで組まれた武器の出現時のように、唐突にだ。


「ホ、ホワイトタイガー!?」


 レイクスがぼくを庇うように前に出て、腰に手を伸ばした。

 だけどそこにあるべきショートソードは当然のようにない。河を渡る直前に投げ捨てたんだ。

 ぼくはレイクスの肩をつかんで引き、とっさに【悪戯仔猫(プランク・キティ)】を呼び起こす。

 だけど虎柄の獣は、不思議そうにクイっと首を直角に倒しただけだった。


「あ、虎じゃない。猫だ」


 そこにいたのは虎模様の灰色猫だった。

 ただし、あり得ないことに虎くらいの大きさだから、もしかしたら虎なのかもしれない。だけど顔つきはどう見ても猫だ。しかも丸々と太っていて、なかなかのマヌケヅラをしている。


「こっちこっち。左の肉球のほうへ」


 喋った。しかも左前足を持ち上げて、森を指さしている。

 警戒するぼくらなどどこ吹く風で、灰色猫は少々肉づきの良すぎる尻をプリップリ振りながら、森の奥へと入って行った。


 ぼくらは顔を見合わせたあと、思い切ってあの猫について行くことにした。そもそもあの猫の声がなかったら、ぼくらはもうこの世界にいなかったのかもしれないのだから。


 しばらく前を歩いていた猫が、唐突に姿を消した。別に走っただとか藪に飛び込んだだとかではなく、本当に突然透明になって消えてしまったんだ。

 もうわけがわからない。


「ここ、ここ。ここまで来れば大丈夫。にゃひゃひゃ」


 声の方向を見上げると、大木の枝にダラしなくグデェっと寝そべっている灰色猫がいた。枝が今にも折れそうなくらいにしなっているのが、見ていて痛々しい。

 ここに来てようやく警戒を解いたのか、レイクスが両手を腰にあてて尋ねた。


「さっきはわたしたちを助けてくれてありがとう。キミがチェシャ猫くん?」


 巨大な猫はニィっと唇の端を高く高く引き上げて、奇妙な声を出した。


「にゃ? にゃっひゃっひゃっひゃ!」


 笑った。そっか。『不思議の国のアリス』に出てくる笑う猫だ。確か、透明になれるんだっけ。

 むにゅむにゅと口元を動かして、巨大な猫がパカっと口を開けた。


「そう呼ばれることもあるし、そうは呼ばれないこともあるね。呼ばれるときは誰かがいるときで、呼ばれないときは誰もいないとき。お嬢さんはどっちだと思う?」


 ……バカにされてるんだろうか。

 けれどレイクスは大まじめな顔で質問にこたえた。


「今はここにわたしたちがいるから、誰かがいるときよ。だからキミはチェシャ猫」


 虎模様の灰色猫が、直角に首を傾げた。

 いちいち仕草が可愛い。

 飛びついて毛皮に顔を埋めたい気持ちを押し殺したぼくを尻目に、巨大な猫が口を開けた瞬間、彼の全体重を支えていた木の枝が見事に折れて、彼は背中から地面に落ちた。

 ずどんという鈍い音とともに、地面が震動する。


「ごふっ!! いにゃああぁぁ……」


 両方の前足で後頭部を抱えて、ジタバタと大地を転げ回る巨大な猫。

 ……猫らしからぬ反射神経だ。

 もぞもぞと動き、チェシャ猫がその場から突然姿を消した。逃げたわけじゃない。動いたわけでもない。またその場で透明になって、一瞬で消えてしまったんだ。


「そっか~。じゃあ、僕はチェシャ猫かもしれないね」


 にもかかわらず上方から聞こえてきた声に、レイクスとぼくが同時に視線を跳ね上げた。いつの間にか別の枝に四肢をたたみ、先ほどと同じ体勢でくつろいでいる。

 また枝が折れそうなほどしなっているけれど、どうやら反省するだけの知能はないようだ。


 ぼくらは目を見合わせて苦笑いを浮かべた。

 考えたって始まらない。レイクスの言うことが正しければ、ここは不思議の国(ワンダーランド)なのだから。

 レイクスが再び尋ねた。


「ねえ、アリス・リデルが今どこにいるか知ってる? キミ、リデルを案内したことがあるんでしょ?」


 チェシャ猫が顔洗いをしながらこたえた。


「知ってるよ。リデルがいるところは、リデルが今いるところだよ」

「わたしたちがここからそこへ行くには、どの肉球の方向に行けばいいの?」


 肉球。チェシャ猫に話を合わせたのだろう。


「さて? 四つしか肉球のついていない僕には、さっぱりわからないにゃ」


 レイクスが苦々しそうに、ぼくの耳元で囁いた。


「喋る猫は驚いたし賢いと思うけど、しょせんは猫ね」

「う~ん」


 質問の仕方を考えないと、有力情報は聞き出せそうにない。

 聞こえたのか聞こえていなかったのか、チェシャ猫が口の端を高く引き上げて笑った。


「あのさ、あ~……ぼくの名前はギイチ。で、こっちはレイクス」


 チェシャ猫がニヤッと笑って、素直にうなずいた。腹が立つほどに、いちいち愛らしい。


「ギィとレイクス。おぼえた」


 まるで手の平で挨拶をするように肉球を持ち上げて、チェシャ猫がペロっとそれを舐めた。

 ぼくの名前だけヘンに略されたけど、話が進まないからもういい。レイクスが笑いを堪えるように顔を背け、肩を震わせているのは気になるところだ。


「ぶふっ、ぷ、クク……ギィだって……あいつテキトーすぎ」


 レイクスが理恵と名乗らずにレイクスという名字を名乗った理由が今わかった。元々はイギリスの文学だ。日本語を当てはめること自体が難しいのだろう。


「アリスの――リデルの居場所を知っていそうなやつって、キミの他にいないかな?」

「いるよ。どこかには」

「この近くにいるやつ限定でお願いするよ」


 チェシャ猫が前足を両方とも持ち上げて、最初に右足を振った。


「右の肉球のほうに行けば、帽子をかぶらない帽子屋が住んでるよ。今は出かけているし、ちょっと頭が狂っちゃってるから、突然怒鳴ったりするけれど」


 関わりたくない。おそらく、『アリス』でいうところのイカレた帽子屋(マッドハッター)だ。

 チェシャ猫が左足をツイっと回した。


「左の肉球のほうに行けば、三月兎がいるよ。ちょっと頭が狂っちゃってるから、まずくて苦い草ばっかり食べ続けてるけど」


 三月……兎……。……兎か……。

 ぼくが反射的にレイクスに視線をやると、レイクスが力強くうなずいた。


「まさかとは思うけれど、ルイスの可能性もあるわね」


 決まりだな。たとえルイスじゃなかったとしても、リデルの居場所を知っているのなら問題はない。


「ありがとう、チェシャ猫。わたしたちは三月兎に会いに行ってみるよ」


 手を振りながら踵を返したレイクスに、チェシャ猫は両方の前足を振ってこたえた。


「どーいたしまして。にゃはー、いってらっさい、いってらっさ~い」


 そのあとに続こうとした直後、突然ぼくにだけ聞こえる大きさでチェシャ猫が囁いた。


「気をつけたほうがいいよ、ギィ。レイクスからはリデルと同じニヨイがする。ギィはきっと、コワイめに遭うよ。死んじゃうかもね。死んじゃうかもね」


 ニオイ……? アリス・リデルと同じニオイ……。


「それってどういう――」


 ふいにレイクスがふり返って、楽しげに手を振った。思わずぼくは口をつぐんだ。


「ねえ、なんの話をしてるの? 置いてくよ、ギ~イ~チ~?」


 チェシャ猫に視線を戻すと、ニヤニヤ笑いを消してぼくを見ていた。


「早く行きなよ。どちらにしても不思議の国(ワンダーランド)はもう終わりさ、ギィ。それもこれもアリス・リデルがジャヴァウォックの封印を解いてしまったからさ。あ~こわいこわい」


 それだけ言い残して、すぅっと全身を透明にして消えてしまった。

 完全にこの場から去ったのだろう、チェシャ猫のいた木の枝のしなりまでもがなくなっていた。

 レイクスのところまで走って行くと、レイクスが少し首を傾げて尋ねてきた。


「なにを話してたの?」


 ぼくは少し考えて、チェシャ猫の後半の言葉だけを伝えた。


「あ、うん。リデルとジャヴァウォックのせいで、もうこの世界は終わりだって」

「わおっ、ステキに悲観的!」


 前半の言葉を黙っていた罪悪感から、ぼくは珍しく自分から話題を切り出した。


「そういえばさ、レイクスはどうしてぼくを命懸けで助けてくれたの? ジャブジャブ鳥のときはもちろん、トランプ兵との追いかけっこだって、レイクス一人なら逃げられただろ?」


 ハプニングに次ぐハプニングで、まだお礼も言えてなかったことが気になっていた。

 目を丸くして、レイクスが額に縦皺を寄せた。


「なに言ってんの? あったりまえじゃん。同じクラスの友達なんだから、見捨てるなんてあり得ないっしょ」


 意外な言葉を、彼女は至極当然のように言った。

 レイクスはその後もいっぱい言葉を続けてくれたけれど、ぼくはその最初の一言が嬉しくて、全部聞き流してしまったのは秘密だ。

 ぼくらは、友達。

 小さく呟く。


「……ありがとう……」

「あはは、ジャブジャブ鳥なんて、このレイクスネーサンさんにかかればチョチョイのチョイだから気にしなくていいよ」


 そうじゃない。今話したばかりの言葉のほうだ。口には出せないけれど。

 顔、赤くなってなければいいな。


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