不思議の国と無垢なる珍獣②
「よっと!」
レイクスがふいに背中を離して立ち上がった。水色ドレスについた泥や汚れを手で払い除けて、真新しい手甲に包まれた手をぼくへと差し出す。
反射的に差し出して触れることを躊躇ったぼくの手を躊躇なく握って、レイクスはぼくを引き起こしてくれた。
「行こう、ギイチ。戦闘をした場所では、あまり長居しないほうがいいよ」
手はすぐに離れた。歩き出した彼女の背中を追って、ぼくは自分の手を眺める。こんな状況なのに、自然と頬が弛んだ。
一瞬だったけど、他人の体温なんて感じたのはいつ以来だろう。だけどこの体温も、偽物なんだろうか。現実の自分には、この瞬間の記憶がないことが悔やまれる。
現実の直島義一は、明日も明後日も孤独に本を読み続けるのだろうか。
もらったショートソードをベルトに吊して、ぼくはレイクスを追って歩き出した。
「行くって、どこへ?」
「猫捜し」
「ね、猫?」
小走りで彼女に並ぶと、レイクスは機嫌よさげに微笑みながら、横目でぼくを眺めた。女の子に慣れていないぼくにとっては、どうにも照れ臭い。
「な、何? さっきから……どこかヘン……かな?」
ぼくは身体をねじって自分の全身を眺める。
そういえば彼女は世界観に馴染んだドレスに鎧なのに、ぼくはパーカーにジーンズだ。
「あ、や、ごめんごめん。久しぶりだな~って思って見てただけ」
「久しぶりって、何が?」
おかしなことを言う。ぼくらは教室では喋ったこともない仲なのに。
「だって半年ぶりじゃない。クラスメートに会うなんて」
ぼくが立ち止まって眉をひそめると、レイクスはふり返って後ろ手を組んだ。またしても気づかぬうちに、彼女は真新しい膝当てを復元させていた。
「ヘンだよ、それ。今日学校で会ったばかりじゃないか」
レイクス理恵は今日、確かに教室にいた。それだけは間違いない。
「ないない。わたしが書籍世界に引きずり込まれたのは二〇三〇年五月二十日の夕方だよ。わたしがこの世界に来てから半年は経ってる」
ぼくは頭を掻き毟って、顔をしかめた。
「ちょっと待って。頭が痛くなってきた。二〇三〇年十一月十日に、ぼくはキミを見てる」
「言ったでしょ。それはわたしであって、わたしではないわたし。オリジナルのレイクス理恵。そしてここにいるわたしは、コピーだかフェイクのレイクス理恵」
レイクスと顔を見合わせた後、ぼくはガックリと膝をついた。
最悪だ。彼女が嘘を吐いていない限り、ぼくらはやはり仮想人格という証明になる。
「ま、考えたって仕方ないよ、ギイチ。どうせここは常識の通用しない世界なんだから。それに、考えようによっては、わたしたちにとっても都合がいいわ。もしわたしたちがオリジナルからコンピュータ上にコピーされた仮想人格じゃなくて、新技術が開発されて脳と機械を繋がれた状態にあるのだとしたら、この世界での半年は致命的だよ。その点、オリジナルがいるなら現実の肉体の消耗を考える必要がないってことじゃない?」
「……帰る方法があるならね」
なんて呑気な女だ。
それに、脳と機械とを接続する方法なんてものは、やはり存在しないだろう。
キョトンとしてレイクスが立ち止まる。
「あるよ? キミ、ルイスから聞かされてないの?」
「へ? だって、機械と人間を繋ぐ方法はないってさっきも言ったばかりじゃないか」
拳を握りしめ、レイクスがぼくの胸をトンと叩いた。
「この世界をあるべき姿に戻すことができたなら、この世界を生きたわたしたちの意志や記憶は現実の自分に上書きされる。方法は知らないけど。ま、なんとかなるって」
そう言って、レイクスが無邪気に笑った。
愛想笑いを浮かべながらも、ぼくは、夢であってくれ、と願わざるを得ない。だってぼくには、こんなバケモノだらけの世界で何ヶ月も生き残る自信はないのだから。
「ルイスはビチクソサイコ変態ハッカー野郎だけど、今のところ嘘は吐いていないから」
男子の中では小さいぼくと、女子の中では少し高めのレイクスの身長は、あまり変わらない。
あらためて近くで見ると本当に綺麗だ。ストレートの金髪を揺らし、ダークブルーの瞳を細めて微笑みかけてくれるのは、人見知りのぼくにとっては嬉しいけど拷問だ。
カチコチに固まったぼくのことなど意にも介さず、レイクスが人差し指を唇に当てた。
「そーだ。そう言えばさ、ギイチ」
「あ、え? な、な何?」
レイクスに見惚れていたぼくは、思わず奇妙な返事をしてしまった。
「さっきの戦闘中さ、どうしてあんなことができたの? 普通なら一本の武器の造形を創るだけでも、もっと時間がかかるはずなのに。金属バットにバールにフライパンに、出てきたものはちょっとマヌケだったけど、あんな量を出す時間なんてなかったよね」
「あ、ああ。あれか」
少し口をつぐむ。
せっかくレイクス理恵とこうして話せるようになったのに、脳内彼女の話題なんて出していいものか。ましてや視界の端に黒衣の少女として出現するなどと、口が裂けても言えない。
完全に心を病んでるとしか思えないだろう。
そんなことを考えた瞬間、【悪戯仔猫】が視界の隅に出現した。
――マイ・マスター、それは大いに不本意です。
「のわっ!?」
レイクスが眉をひそめて首を傾げた。
「な、何よ? 何かいたの?」
「な、なななんでもないんだ! ちょっと視界の隅に、む、虫がね?」
――虫……。
視界の隅で黒衣の少女が、ジトっとぼくを睨んだ。服装も相まって、その様たるや、まるでお伽噺の魔女だ。
すまん、キティ。
「ふ~ん? で、どうやったの? もったいぶらないで教えてよ」
当然、人工知能(AI)で作った脳内彼女を使用した、などと言えるはずもなく。
「さ、最新のプログラム言語を使ったんだ。ゲーム作り専用に半マクロ化されてて、これまでのコードをかなり省略できるんだよ」
かろうじて嘘ではない言葉に、レイクスが感心したようにうなずいた。
「いいなあ、それ。わたしも習得できる?」
「ご、ごめん、自分のPCがないとうまく説明できないと思う」
あからさまに肩を落とすレイクスにも心の中で謝りながら、ぼくは嘘に嘘を重ねていく。
罪悪感のスパイラルだ。
「でも、それがあったからこそルイスのプログラムが解けちゃって、ぼくはこんな事態に陥ったわけで、良いことばかりでもないよ」
レイクスが呆然と額に縦皺を刻んだ。次の瞬間、彼女の口をついて出た言葉は意外なものだった。
「ギイチってルイスのプログラムを一人で解いたの!?」
そういえばあれは四人じゃないと解けないようになっていたっけ。
ぼくは黒衣の少女を横目で見ながら、唇を尖らせて呟く。
「ま、まあ。ちょっと反則技で」
「すご~い!」
無防備に詰め寄られて、ぼくは逆に一歩後ずさった。背中が木の幹に当たって、あわてて両手を突き出す。何を勘違いしたのか、レイクスは迷わずぼくの両手を両手で包み込んで、さらに一歩顔を近づけた。
「ギイチがいれば、この世界でも生き残れるかもしれない」
自然とぼくらの顔は近づく。レイクスは子供のように無邪気に笑っていて、ぼくばかりがドキドキしている。
「あんまり期待されても……運動音痴だし……」
「いいよいいよ! 前衛はわたしがやるから、パーティ組まない? お願い!」
ぼくなんかが……あのレイクス理恵と……? キ、キティ、どうしよう!?
視線を向けると、ずっとぼくの隣を漂っていた黒衣の少女が、無言でプイっとそっぽを向いてその姿を消失させた。
あ、ちょっ、なぜっ!?
以降、呼びかけても【悪戯仔猫】は反応を示さない。
「だめ?」
上目遣いで見られて、ぼくの心臓はさらに跳ね上がる。高まりすぎた緊張感で逃げ出したくなる気持ちは、背中に当たる木のおかげでかろうじて封殺された。
「そ、その……」
女性は好きだが、苦手だ。でも、レイクスは強い。この世界の知識もあるし、何度もぼくの生命を救ってくれた。
それに何より、ぼくは……彼女と友達になりたい……。
照れ臭くても、気恥ずかしくても、断っちゃダメだ。一歩前に進もう。
「…………喜んで……」
「きゃーっ、やったっ!! どのくらいぶりのパーティだろっ!! ありがと、ギイチッ!!」
何だか学校で見る彼女とは違って、飛び上がって喜ぶ様はまるで子供みたいだ。
「あ、何? なんで笑ってんのよー! わたしのこと、子供っぽいとか思ってない?」
「お、思ってないし笑ってもないよ」
レイクスが不満そうな顔で人差し指を立てた。
「笑ってましたー! ほら、またイヤラシい!」
無意識に笑っているのだろうか。我が意に反する自分の顔を、片手でこねくり回す。
「ご、ごめん。……だけど意外だな、レイクスってプログラムなんかに興味あったんだ」
「え、当然でしょ。この世界に連れ込まれた人たちは、大体そっち系よ?」
「そっち系?」
満面の笑みでレイクスが口を開いた。
「ハッカーかエンジニア。じゃないと、ルイスのプログラムは解けないでしょ」
「あ、なるほど。……レイクスはどっち?」
レイクスの笑みが、突然硬化した。気まずそうに視線を逸らし、苦笑いを浮かべる。だけど数秒待っても言葉は返ってなかった。
つまりはそれが彼女のこたえだ。
「お~……、つ、捕まらない程度にね……」
まあ、ぼくにしても【悪戯仔猫】をまともなことにばかり使っているわけじゃない。むしろぼくの方が危険なところまで潜り込んでいるはずだ。
米国国防総省だろうが永世中立国の国立銀行(スイス銀行)だろうが、【悪戯仔猫】と一緒ならプロテクトを破ることなんて造作もない。
さすがに書き換えや破壊はしていないけれど。
レイクスが肩をすくめて悪戯な笑みを浮かべた。
「フフ、ギイチと一緒なら死ぬ気がしないな」
「ぼくは数分後にも死にそうだよ」
「あっは、笑えな~い」
言葉を冗談と受け取ったのか、レイクスが笑いながらぼくの肩をバシバシ叩いた。
彼女が笑ってくれると、最悪な状況なのになんだか不思議と楽しい。
「そういえばレイクス。さっき言ってた猫はどこにいるの? 今向かっているところ?」
話しながらだけど、もう随分歩いてきた気がする。
「うん。そうなんだけど、見つからないんだよね。もう一週間は彷徨ってるよ。その間に、何度怪鳥や鎧とやり合ったことか。あいつらの顔はもう飽き飽きだよ」
驚いた。彼女はこんな敵だらけの森で、一週間も生き残っていたのか。
「レイクスは、この書籍世界が何の本か予想がついてるの?」
長めの金髪が縦に揺れた。顎に人差し指を当てて、わずかに首を傾げる。
「予想がついているというか、知ってるの。ギイチだって子供の頃から何度も読んだことがあると思うよ。『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』は世界的に有名だから」
「…………だと思ったよ。ぼくはもう驚くことに疲れた」
深いため息をつきながらも、ぼくらは手に手を取って巨大な倒木を乗り越える。
「怪鳥はジャブジャブ鳥。中身のない鎧はトランプの兵士。そしてこの世界には二人の女王がいる。悪名高き赤の女王と、純潔無垢の白の女王。どちらももう殺されたけどね。彼女らと敵対して、世界を支配した暴君アリス・リデルとその一派によって」
驚き慣れてはきたけれど、疑問だけはどうしても浮上してくる。
「ちょっと待って。ぼくの知っている『アリス』じゃないよ、それ。そもそもなんだ、その暴君って。アリスは迷い込んだだけの普通の女の子だろ?」
「わたしの知ってる『アリス』でもないよ。だけど、多頭竜ジャヴァウォックや騎獣バンダースナッチを駆り、怪物グリフォンを顎で使いながらジャブジャブ鳥とトランプ兵を従えて不思議の国を支配した人間を、ただの女の子と呼ぶのならそうかもね」
なんてアグレッシブなアリスだ……。
思わずレイクスに向き直って、ぼくは両手を広げていた。
「おかしいよ。ジャヴァウォックやバンダースナッチは、『アリス』本編では詩篇の中の存在としてしか出てこないはず。この世界には実際に存在してるの?」
「いる」
間髪入れずにレイクスがこたえた。
ぼくは反射的に空を見上げる。
もちろん樹木が異常に生い茂っているこの森では空は拝めないけれど、そんなバケモノが飛んでいると思うと寒気が収まらない。
「ジャヴァウォックには、わたしたちのように物語に引きずり込まれた人間も、もう何百人も殺されてる。不思議の国は危険すぎるのよ」
あまりの絶望感に、思わず頭を抱えたくなってしまった。
「……だ、だとするなら、ぼくらが現実世界に戻るためにはジャヴァウォックやバンダースナッチをこの世界から消して、アリス・リデルを正気に戻す必要があるということか。話を聞く限り、アリス・リデルは素直に説得されてくれそうにないけれど……」
「その点は大丈夫。リデルはアリスという役割から外れて、空席になっていた赤の女王に即位したから。アリスはアリスで、また別の誰かが新たにその役割につくはず」
赤の女王は、『アリス』本編では首を跳ねることが趣味のイカレた支配者だ。元アリスであるリデルがそんな役割をしているなんて、いくらなんでも歪みすぎだ。
「ねえ、レイクス。本当にこんな世界、正常に戻せるの?」
「さーね。ただ一つ言えることは、不思議の国は危険ということだけ。わたしと一緒にルイスのプログラムを解いた残る三人は、もういない。ジャヴァウォックに灼かれて、データ消滅したから。もっとも、オリジナルは現実世界で生きているでしょうけどね」
オリジナルが存在するのはわかっていても、データとはいえ、ぼくらだってこの世界で生きている。こんなところで消えたくはない。
「わたしたちは進むしかないんだよ、ギイチ。だってコピーされただけの仮想人格だとしても、消えたくないって思っちゃってるんだから」
気のせいか、温暖な気候なはずなのに森は先ほどまでよりも薄ら寒く感じた。
「わたしは今日の記憶を持って現実世界に帰りたい。可能性がある限り――」
言葉が途切れた一瞬。
水色のドレスを翻してレイクスが抜刀する。銀閃がぼくの首筋数センチで火花を散らした。