不思議の国と無垢なる珍獣①
今風に言うと、ぼくは“持っていない人間”だ。
その日の放課後も、ぼくは教室の隅の席から“持ってる”やつらを眺めていた。
誘い合って部活動に向かうやつら、数人のグループでお喋りをしている女の子たち。「カラオケに寄って帰ろうよ」「夏休みにはみんなで海に」そんな会話が聞こえている。
その誰もがぼくに視線を向けることはなく、教室からは徐々に人が流れてゆく。
ただ誰かと帰ったり、一緒に部活動をしたり、それだけのことで良かった。ぼくには何もない。一日中、声を出さない日だって珍しくない。
家族と呼べる人は、いない。友達と呼べる人も、いない。作り方もわからない。
誰もいなくなった静かな夕暮れの教室で、ぼくはタブレット型の端末を取りだした。
大規模な森林伐採によって世界的に紙が贅沢品と指定されてから五年。すべての書籍は電子化され、政府管理下の国立図書館サーバーに置かれることとなった。
そこから様々な物語をキャッシュと引き替えにダウンロードして教室で読み耽ることが、ぼくの日課だ。
だけどその日ダウンロードしたファイルは、どこか違っていた。
ただの電子書籍だったはずのファイルは、指定したフォルダではなく、いくつかの欠片に分割されてタブレット端末のシステム内に保存され、解読不能となったんだ。
聞いたことがあった。図書館サーバーから送られるファイルの都市伝説。このファイルを読み解いたものは、何でも一つ、願いを叶えられる。
くだらない噂だ。だけど。もしも本当に願いが叶うのなら。
帰宅してすぐにPCを起動し、タブレット端末を接続した。モニターに映し出されたファイルを分析して気づく。
やはりバグじゃない。人為的な悪戯だ。
四つの欠片に分割されて四箇所に保存されたファイルの結合には、破片のすべてを同じ性能のマシンで同時に処理する必要があった。誤差は二秒以下。つまり最低限、四人の息のあった人間と四台の同じPCが必要となる。
いつも一人のぼくには絶対に解くことのできない悪戯だと、そこで投げ出せば良かった。けれど、ぼくはバカにされたんだ。四つの砕けたファイルに添えられた署名の主、ルイス・キャロルと名乗るやつに。
――一人ぼっちのおまえには、解読は不可能だ。
腹を立てたぼくは、唯一の友である自作の人工知能【悪戯仔猫】を起動していた。こいつなら、ぼくの速度に合わせて三人分のプログラムを施すことなど造作もない。
実際その通りで、結合には難なく成功した。
だけど結合を終えた瞬間に実行されたファイルは、グニャグニャとモニター画面を歪めた。それが政府で禁止されているバーチャル・ドラッグだと気づいた瞬間には、もう遅かった。
脳内麻薬の過剰分泌により、急激に意識が遠のいていったんだ。
気絶する直前、朦朧とした意識でぼくは画面内に兎の着ぐるみをまとった男を見る。
そいつはシルクハットを取って恭しく右手を胸に当て、すぅっと頭を下げた。そうして顔だけを上げ、着ぐるみのクセに口の両端を引き上げて不気味に嗤ったんだ。
――コングラチュレーション! ア~ンド、ボン・ボヤ~~ジュ……。
目が覚めたとき、ぼくは知らない森に放り出されていた。
◇
ロングソードを中華鍋で防いで吹っ飛ばされたぼくと入れ替わりで、彼女は鎧の兵士の紋章をバールで引っ掻き、持ち手を変えて横薙ぎに振るって刺し貫く。
「やあっ!!」
甲高い音が響いて、最後の一体がガラガラと大地に散った。やはり中身は空洞だ。
ぼくらがその場で安堵の息を吐き、背中合わせでしゃがみ込んだのは、それから数秒後のことだった。【悪戯仔猫】はいつの間にか、ぼくの網膜情報から消失していた。だけどぼくが頭の中で黒衣の少女に礼を言うと、すぐに脳内に音声情報だけが送られてきた。
――いいえ、マイ・マスター。ご無事で何よりです。
「ハァ……ハァ……!」
「ぐっ、げほ、ごほ……ハァ……!」
酸欠で吐きそうだ。
ぼくらの足元には折れた金属バットや凹んだ中華鍋に混じって、錆びた鉄屑と化した三体の鎧たちがバラバラに散らばっている。
もう復活する気配はない。
それにしても、彼女の戦いっぷりは凄まじかった。振り下ろされるロングソードを避け、正確にやつらの胸部を叩き、アクロバティックに紋章のみを削り取る様は、さながら良くできたCG映像のようだった。
ちなみに、ぼくは何の役にも立っていない。せいぜいがオトリになったくらいのものだ。
こつっと金色の後頭部がぼくの後頭部を叩き、心臓が大きく跳ね上がった。
「ハァ……ふぅ……キミ、名前は? わたしだけ知られてるのはフェアじゃない」
「え――」
思わず問い返すと、彼女が顔だけを振り向かせて眉をひそめた。
「さっき呼んだでしょ、レイクスって。知ってると思うけど、名前は理恵。ここではレイクスで通してる」
レイクス理恵。だったら、やっぱりクラスメートだ。けれどどうやら、ぼくのことはわからないらしい。仕方がない。ぼくはクラスの誰とも仲良くできていなかったのだから。
緊張で詰まりそうな喉から、かろうじて声を絞り出す。
「ぼ、ぼくは……義一。古めかしい名前だって、昔はよくバカにされた」
名字は名乗らなかった。教室で一人ぼっちの自分など、思い出して欲しくなかったから。
レイクスがこめかみに人差し指を当てた。数秒間そのポーズを取った後、パッと瞳を開けて人懐っこい笑みを浮かべる。
「………………そう、ギイチ! 直島義一! いつも教室の端で本読んでた子! 喋ったことはなかったけど、日本人らしいステキな名前だなあって思ってたんだよ」
瞬間、身体中の血流が急上昇して顔から火が出るかと思った。
「ん? どうしたの?」
「あ、う……な、なんでもないよ……」
おぼえてくれていたことが、恥ずかしいと同時に嬉しい。それもあの、日本人離れした美しさを持つと学内でも評判なレイクス理恵に。
こんなとき、どう話せばいいんだろう。そんなことさえわからない。
「レ、レイクス……さん」
「同級生なんだしレイクスでいいよ。理恵でもいいんだけど、この世界ではレイクスのほうが都合がいいのよ。わたしもキミをギイチって呼ぶから、それでいい?」
名前の呼び捨て。同性でもそんな友達いなかったのに。
戸惑い半分、喜び半分。背中合わせで良かった。おそらくぼくの顔色は、茹だったロブスターみたいになっているはずだから。
「う、うん」
「で、なに?」
ぼくは木漏れ日すらまばらな深い森を見上げて、至極真っ当な疑問を口にした。
「ここって、……どこ……?」
見たこともない大きさの怪鳥に、中身のない錆びた鎧。それどころじゃないからスルーしてきたけど、この森はかなりイカレてる。
人間の腕ほどもある大きさの青虫は水タバコを吸っていて、服を着たリスが木の枝を走り、二足歩行の子豚が犬にリードをつけて散歩させている。
さっきは追いかけられていてまじまじと見つめる余裕はなかったけれど、頭がおかしくなりそうなくらいにファンタジックな光景だ。
「日本政府管轄下、国立図書館サーバーの電子書籍。つまりは物語のなか。たぶんね」
「ごめん、ちょっと意味がわからない。『不思議の国のアリス』じゃないんだから、本のなかに入るなんてこ……と……」
言葉が自然に途切れた。
あのファイルの署名は確かルイス・キャロル。『不思議の国のアリス』の作者の名前だ。
「ギイチ、キミもルイスのプログラムを解いたでしょう? キッカケはあれよ」
「バーチャル・ドラッグによる気絶?」
レイクスがうなずく。
あまりに荒唐無稽な言葉に、緊張を忘れてぼくは一気にまくし立てた。
「いや、いやいや、あり得ない。どれだけネット技術が進歩したって、小説やアニメのようにコンピュータに意識だけをログインさせるフルダイブは不可能だ。もしあったとしても肉体ごと全方位映像やセットの中に放り込むといった単純な仕組みのものだけだよ。この世界は緻密すぎる。映像じゃないことくらいはわかるし、セットだとしても広大すぎる」
自分の顔ほどもある大きさのシダの葉を片手で引っ張って、ぼくは自分がまだ正気を保っていることを確認するように呟いた。
湿った感触はもちろん、青々とした匂いもある。
「それに、脳と機械を直結させるなんて自殺行為に政府が許可を出すわけがない。人間とコンピュータの間には埋められない溝がある。機械は赤い色を見ても『赤い』と感じているとは限らない。赤色を別の色で見ている可能性だってある。人間が、赤とは限らない機械の見ている色を赤だと教えて、初めてそれを赤と認識するようになるんだ」
それは人間同士だって証明のしようがないのに、機械と人間とでは絶対に不可能だ。両者の思考を繋ぐ接続方法は解明されていないんじゃない。人間の脳が完全に解明されない限り、未来永劫不可能なんだ。
「哲学的クオリアなら知ってるよ。ルイスのプログラムを解いてしまうような人は、大抵齧ってる分野だから」
ヒトはコンピュータを支配できる。コンピュータの仕組みを隅々まで知っているから。けれどコンピュータもヒトも、人間を支配することはできない。脳が解明されていないからだ。
そして解明されていないものを、コンピュータ上に再現することはできない。ましてや解明されていないものに、コンピュータからの干渉は不可能だ。
それは脳細胞の破壊を意味する。脳は究極の機械的記憶媒体と言う人もいるけれど、実際には全然違う。
両者はまるで別物で、当然ながら繋がり合う方法はない。
レイクスが顎に指を当てて思案してから、ふと視線を上げた。
「じゃあ、この世界のことをギイチはどう説明するの? 現実世界にはあんな巨大な鳥はいないし、中身のない鎧が動くこともないよ?」
レイクスがしなやかな指先で足元の引き裂かれたクローバーマークをつかんで、無造作にポイっと投げ捨てる。金属が岩を打つ音がして、周囲の小動物たちが一斉に姿を消した。
「服着て歩くリスもいないし、水タバコを吸う青虫だっていない。ちなみにあいつら、普通に話せるよ。日本語も英語も通用する。知能は低いけど、多少の知識もある」
水タバコを引きずっていたために逃げ遅れた巨大青虫を、レイクスが無造作につかんで、ぼくの前へと持ち上げた。
無数の足がワチャワチャと動いている裏側が、若干気持ち悪い。
「こりゃあ、なにをする~、はなせ~はなせ~」
……驚いた。本当に喋っている。
レイクスがポイっと青虫を投げ捨てて、肩をすくめた。
「それにクオリアの問題を越えられる方法が一つだけある。気づかない? 機械と機械は完全に繋がれるんだよ」
少し考えて、恐ろしいことに気づいた。
レイクスはそれを言いたかったのか。だけど、それはない。もしもぼくが今想像したことで合っているなら、いささか飛躍しすぎている。
「……ぼくたちは、何者か?」
「そう。わたしたちって、何者?」
怪鳥に追われていたときよりも、鎧の兵士に追われていたときよりも強く、寒気を感じた。
人間と機械との間には、クオリアという壁が存在する。どこかの施設で、ぼくらの脳みそと図書館サーバーが繋がっているということはあり得ない。だけど、機械と機械との間にはクオリアという壁は存在しない。
つまりレイクスはこう考えたんだ。
直島義一とレイクス理恵の記憶が機械的にコピーされ、書籍世界に再現された。人間の性格を形作るものは、積み重ねた経験の記憶だ。だとするなら、ぼくらは人間というより仮想人格に近い存在ということになる。
要するに、脳の解明が不可能なら、経験を丸ごとコピーして人間をソフトウェア化してしまえばいい。これなら【悪戯仔猫】がぼくの網膜に直接アクセスしてきたことにも説明がつく。
目眩がした。ぼくらは人間じゃないってことだ。
仮想人格か、人工知能か。或いは、そのどちらでもないものか。
さらに言えば今頃現実世界では直島義一は目を覚まして危険なファイルをPCから削除し、明日の学校の準備でもして風呂に入っている。まるで何事もなかったかのように。
いや、現実では本当に何もなかったんだ。ただ、電子ドラッグを踏まされただけで。
「……気絶したぼくらを実体ごと誘拐して、海外のどこかに放り出したって可能性は?」
「怪鳥や中身のない鎧がトリックだったとしても、それじゃコードを脳内に書いて直接武器を取り出すなんて芸当はできないよ」
頭を抱え込む。
どうして平然としていられるんだ。ぼくが特別弱い人間なんだろうか。
話をしている間にコードを組んでいたのか、レイクスが空に右手を伸ばして何もない空間からショートソードを引き出し、ぼくに差し出した。
「あげる。造形さえわかれば自分で出せるようになるでしょ。きっとこの先、役に立つから」
「……うん」
反論が思いつかない。