二人のアリス③
並外れた巨大な武器はただの脅し。細腕を隠すための重み。自らの肉体を省みない負担。次にキミは、こう言うだろう。“逆らわないなら、生かしといてあげてもかまわないわ”と。
「逆らわないで。あなたはおもしろいから、殺さないでおいてあげる」
ぼくは小さなため息をついて、左手の袖口から滑り出たクナイを指先で絡め取った。
「……可哀想なアリス・リデル……」
バンダースナッチさえ動かなければ、リデルを殺すことはそう難しいことじゃない。キティに命じて彼女の上空から剣雨を降らせるだけでいい。超反応でそれを回避されたとしても、人間がキティの処理能力からいつまでも逃げられるものじゃない。
だけど、ぼくには人を殺す度胸や覚悟はない。
「聞こえないわ? なにを言っているの?」
リデルの接近に合わせてぼくが投げたクナイを、大曲刀が巻き起こす暴風で薙ぎ払い、深紅のドレスに包まれた肉体を回転させながら、リデルがぼくへと刃を照準する。
「この剣、斬れ味が悪いの。痛いかもしれないけれど、我慢してね。ギイチ」
「くっ!?」
ぼくは全身を真横に倒して地面を転がり、刃物というよりは鉄塊に近い大曲刀をかろうじてやり過ごす。振り切った大曲刀の慣性を止めることができず、背中を見せたリデルへと日本刀を突き出そうとした瞬間、戦慄をおぼえて反射的に頭を下げた。
ゴォっと音がして、頭部の数センチ上空を鋼鉄のブーツが通過する。
連撃! テオフィルスがやられたパターンだ!
「あら、よく避けたわね」
リデルが振り切った蹴り足を地面につけて刀身から肉体へと支点を戻しながら、体勢を立て直しきれなかったぼくへと、さらに大曲刀を振り下ろした。
これを避ければッ!!
「――ッ!?」
身をひねって紙一重で回避した巨大な刃が、空を斬って大地へと叩きつけられた。
よしッ!
しかし反撃に転じようと日本刀を握り直した直後、再び刀身に支点を替えたリデルが破れた赤のドレスを舞い上げながら、ぼくの頭部へと鋼鉄のブーツの踵を落とす。
「うがッ!?」
脳天に激痛が走り、ぼくは頭部から地面へと叩きつけられた。砂を舐めながらも、ぼくは転がり膝を立てる。
視界が歪んだ。その隅で黒衣の少女が、怒りの表情で右腕を持ち上げる。
「やめろ、キティ! 殺すな!」
黒衣の少女の右腕が一瞬震えて、ぼくを恨めしげに睨んだ後に力なく下がった。
「うふふ、なにをゴチャゴチャと言っているの?」
暴風を巻き起こす大曲刀を跳んで躱し、風ごと巻き込むかのような追撃を、今度は下がって回避する。
リデルは踊るように強弱をつけながら何度も自らの身体を回転させ、次々とぼくに斬撃を繰り出す。刀身の細い日本刀では受けきれない。いや、どんな武器や盾を使おうが、ぼくの肉体では吹っ飛ばされるのがオチだ。
「この……ッ!」
隙を見て反撃をすると、支点を肉体から武器へと入れ変えて器用に身体を浮かせ、ぼくの攻撃を躱しながらの蹴りが来る。
何本目かの日本刀が折れ曲がって吹っ飛んだとき、リデルが嘲るように言い放った。
「うふふ、もう観念なさいな、ギイチ? あなたは殺さないって言ってあげているのだから」
ぼくは口元の血を袖で拭って、リデルを睨みつける。
「殺す気がないなら……殺せないなら、最初から人に対して剣なんて向けるなよッ」
リデルの表情が引き攣って変化した。
他人の顔色ばかりを見て過ごしてきた自分だから、なんとなくわかったんだ。
ぼくは苛立たしげに、折れた日本刀を足元へと叩きつけた。すかさず転送しようとするキティを片手で制し、語気を強めて言い放つ。
「キミは誰も殺していない。ぼくと同じだ。孤独で、臆病者で、ただの弱い人間に過ぎない。キミに他人は殺せない」
リデルの動揺が見て取れる。目を見開き唇を震わせ、言葉なく閉ざされる。
数秒後、表情を戻したリデルが苦しげに呟いた。
「どうして……そう思うの……?」
「赤の女王に即位したのは、生命無き武器であるトランプ兵なら、ジャヴァウォックに遠慮なくぶつけることができるから。バンダースナッチを従えたのは、人間側に対して圧倒的な力を誇示することで反乱を抑え込むと同時に、ジャヴァウォックの人間狩りを阻止させるため。それに、タイガーリリーたち白の国スノードロップや、レイクスたち抵抗軍のように、勝てるわけもないのに無謀にもジャヴァウォックに挑もうとする輩を力で牽制するためだ」
だから抵抗軍キャンプを襲ったジャヴァウォックを追うように、バンダースナッチとリデルが現れたんだ。彼女らはキャンプを破壊するのが目的だったのではない。ジャヴァウォックの殺戮を止めることが目的だったんだ。
つまりあの日、リデルはジャヴァウォックを迎えに来たんじゃない。追い払ったんだ。
あの場でまだ生きていた、ぼくとレイクスの生命を救うために!
テオフィルスは腕の傷を押さえて、そっぽを向いている。
たぶんこの帽子屋は、リデルの行動原理に気づいていたのだと思う。だけど口に出したところで、きっと誰も信じない。
「全部、キミがしたことは不思議の国の人間たちと、現実から取り込まれた人々を、ジャヴァウォックの脅威から守ろうとしてのことじゃないのか」
リデルの表情から剣呑さが消え、ついには両手で構えたままだった大曲刀を下ろした。
「その武器の刃が磨かれていないのだって、殺さないように打ちつけて気絶させることが目的だから」
ぼくは一度言葉を切り、戦場に響き渡らせるために大声で叫んだ。
「アリス・リデルはッ、本に取り込まれてから二百年もの間ッ、深紅の騎士とバンダースナッチだけを味方にッ、トランプ兵を使ってジャヴァウォックの脅威から人々をずっと守り続けてきたんじゃないのかぁぁーーーーーッ!!」
ヴェーレンに至るまでの道のりで灼かれていた多数のトランプ兵は、ジャヴァウォックとリデル一派が敵対していた証だ。
リデルが顔を真っ赤にして、右手を額に当てた。
「もういい。……ああ、もういいわ、ギイチ。そこまでわかっているのなら、退いてちょうだい。わかるでしょう? ジャヴァウォックには誰も勝てないわ。それにさっき、あたしが人を殺したことがないって言ったわよね?」
リデルの右手が額から下がったとき、彼女は仄暗い目つきでぼくを見つめていた。
「そんなことはないわ。ジャヴァウォックに挑もうとする組織の中核人物は、トランプ兵に命じてわたしが始末させてきたんだもの。今も白の騎士団の生命を奪ったわ。うふふ、タイガーリリーはあたしを赦さない。母親を殺されたのだから」
リデルが呼吸を荒げて自らの銀髪を片手でつかみ、自虐的に吐き捨てる。
「だけど、それが少しでも遅れたなら、今回の抵抗軍のようにスノードロップも街や城ごとジャヴァウォックに全滅させられていたわ。ねえ、ギイチ。わかる? あたしが抵抗軍のリーダー、ヘッジホッグを殺し損なったことで、抵抗軍は全滅させられたの。たった一人を殺し損なった結果、彼に集められた三百人が殺された!」
「一緒にジャヴァウォックと戦うっていう選択肢はなかったのかよ!」
リデルが顔を歪めて苛立たしげに激高した。
「ヴォーパルソードはもうないのよ! 武力では勝てないことくらいは知っているでしょう!? 今、ジャヴァウォックを抑えられるのはバンダースナッチの牙だけなのよ! それにジャヴァウォックは飢餓で弱ってきてる! あと五十年もあれば、あいつは確実に餓死させられるの! あたしとスナッチが、あいつの捕食を抑えているから! あんたたちがジャヴァウォックに挑んで敗北して食べられるたびに、期間は延びていくけどね!」
愕然とした。だから、リデルは頑なに人を遠ざける必要があったのか。似ていると思ったけれど、やっぱりぼくなんかとは違うようだ。
でも、だからこそ。
ぼくは胸を張り、叫ぶ。誇らしく、本物の騎士のように。
「五十年も孤独に戦うだと!? 二百年も孤独と戦ってきたキミが、この先五十年も苦しむ必要はない! そんな不条理が赦されてたまるかッ!! 不可能でもなんでも、ジャヴァウォックは今日この場で殺すべきなんだッ!!」
仄暗いリデルの視線を正面から受け止めて、ぼくは視線を逸らさない。
「ぼくらと一緒に戦え、アリスッ!!」
ただ静かに睨み合う。
剣戟の音が、いつの間にか遠ざかっていた。トランプ兵たちが壊滅状態に陥ったんだ。刃を通さないダイヤ兵ですら、もはや動いている個体はない。
聞こえるのは、未だ上空でもつれ合う二頭のユニコーンのいななきと、七つの塔を駆け上がる遠距離射撃隊の足音くらいのもの。
バンダースナッチは動かない。
あいつを動かせば今からでも白の騎士団を全滅させることは容易いというのに、リデルはそれをしない。人を殺さない、殺したくないから。表情もなく、ただひたすらに仄暗い瞳を、ぼくに向けているだけで。
視界の隅で、黒衣の少女が初めてバンダースナッチから視線を外し、大地に視線を落とした。
――マイ・マスター。付近にわずかな震動を感知しました。
ジャヴァウォックか?
――わかりません。ですが、地中深くに何かがいます。
リリーの伝承通りなら、ジャヴァウォックのねぐらは地下の可能性が高い。引き続き警戒してくれ。
やがてリデルが先に視線を逸らし、大きなため息をついた。
「バンダースナッチだけではジャヴァウォックには勝てない。竜は空を駆けるから」
「もう終わらせよう、アリス」
「戦力差を埋めるトランプ兵は、白の騎士団の強襲によって壊滅したわ。その白の騎士団も戦力は激減。おまけに抵抗軍はもういない」
「ぼくはキミを助けたいんだ」
「勝ち目はないわ」
言葉は噛み合わない。けれどぼくは、右手をゆっくりとリデルへと差し出す。
「だから、この手を取って」
「………………あなたの優しさは、まるで暴力みたいだわ……」
再びため息をついて、リデルは大曲刀の先を地面に置いた。
「あたしをアリスと呼んでくれて、ありがとう。けれど、今のアリスはレイクスただ一人。あたしは赤の女王リデルでいいの」
次の瞬間、赤の女王が銀色の髪を揺らし、諦観の念にとらわれた涙混じりの笑顔をぼくに向けた。そうして今にも消え入りそうな弱々しい涙声で、静かに呟く。
「……二百年……もう疲れちゃった……。……守れないことにも……罪のない人を殺させることも……多くの人に恨まれることにも……もう……つらいの……痛いの……」
下がったままのリデルの手を、ぼくは強引に右手でつかむ。
驚き、戸惑い、わずかに首を傾げたリデルの瞳から、一層激しく、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……助けて……ギイチ……。……あたしをここから……連れ出して……ください……」
焦燥にも似た感情が胸を支配し、気づけばぼくは大声で叫んでいた。
「あああああぁぁぁぁぁぁーーーーーッ!! ジャヴァウォックは、ぼくが殺すッ!!」
「あり……がとう……。……あたしを理解してくれて……ありがとう……」
――マイ・マスターッ!
キティが声を荒げた直後、大地の奥深くから突き上げるかのような震動がぼくらを襲った。赤の城ヴェーレンがギシギシと悲鳴を上げ、古びた石材がいくつも崩れ落ちる。
――ジャヴァウォックらしき呼吸音を大地より確認しました!
喜びの涙に濡れていたリデルの表情が、一瞬にして悲観的なものに変化した。
「そんな……まだ早い……! この前目を覚ましたばかりじゃない……! 抵抗軍を喰らって力を取り戻したというの!? これじゃトランプ兵の補充が間に合わない!」
後ろ足をたたんでいたバンダースナッチが立ち上がり、落ち着かなくなった。大地は断続的に上下し、震動は徐々に大きくなってゆく。
「リデル、先にジャックとレイクスの戦いを止める!」
「はい!」
ぼくらは同時に息を吸い、上空を見上げて叫ぶ。
「レェェーーーーイクスッ!!」
「ジャ~~~~~ックッ!!」
白と栗のユニコーンが、激しい火花を散らしながら絡み合うようにして、ぼくらの元へと急降下する。
数秒と経たないうちに、ぼくとリデルのもとには、傷だらけの二頭のユニコーンと、その背に乗る深紅の騎士ジャック、白の女王タイガーリリー、そしてレイクスの姿があった。
ぼくとリデルを除く全員が、怪訝な表情をしている。
「リリー、レイクス。時間がないから説明はあとだ。リデルと共闘してジャヴァウォックを討つ」
タイガーリリーとレイクスが断続的に突き上げる震動に、疑問を殺してうなずく。
「わかった。あとで事情を説明してよね、ギイチ」
「わかりました。この女は信じられませんが、あなたを信じます。ギイチ様」
次にリデルが深紅の騎士へと向き直る。
「ジャック。あたしたちの戦いは、もう終わったわ」
深紅の騎士は兜の奥で一度大きく目を見開き、次にぼくへと視線を向けた。ぼくが小さくうなずくと、ジャックは深紅の兜を外して地面に転がした。
ブラウンの髪に無精髭。無骨という言葉がしっくりとくる精悍な顔立ちだ。
「ギイチと言ったか。貴殿に感謝する」
次にリデルへと向き直り、揺れ続ける大地に片膝をついた。
「仰せのままに。我が姫リデル。このジャック、一命を賭してジャヴァウォックめを討ちまする」
そうして立ち上がり、ブロードソードを手に栗毛のユニコーンの背へと跨がる。
ぼくはタイガーリリーに向き直った。
「リリー、塔の射撃兵に通達だ。もうすぐジャヴァウォックが出現する。キミはユニコーンから遠距離射撃隊への指示を。墜としてさえくれれば、ジャヴァウォックは必ずぼくらが討つ」
ポカンと口を開けたタイガーリリーが、少しだけ赤みがかった顔でドレスの白いスカートの前をギュッと握りしめた。
「……は、はい……。……ギイチ様……」
白のユニコーンに跨がり、少し躊躇うように呟く。
「ご、ご武運を……」
「うん。リリーも」
言うや否やレイクスに軽い会釈だけを残し、なぜかニヤニヤしている傷ついたテオフィルスをかっ攫うように腕を回してユニコーンの背に乗せ、瞬く間に飛び去って行った。
突然、レイクスがぼくの背中を足裏で蹴った。
「イデッ!? い、いきなり何すんだよ!」
レイクスが片手を腰に当ててプイっとそっぽを向く。
「べっつに~?」
「あ~ら。今のアリスってば、ずいぶんと乱暴なのね。こおんな乱暴な女の騎士だなんてギイチさんが可哀想だわ」
「うるさいわね。わたしたちのことに口は出さないでもらえる? 部外者さん?」
レイクスとリデルが睨み合う。
ぼくはあわててレイクスの腕をつかんだ。
「レイクス。気持ちはわかるけど全部誤解だったんだ。抵抗軍を潰したのはリデルじゃない」
「知ってるよ。そこの赤騎士のオジサンから聞かされたから。それでもお互い引くに引けなくて戦ってたのに、ギイチとリデルがあっさり和解してたからみんな戸惑ったの。どういうことよ、これ。……なんだか、ずいぶんと仲よくなってるみたいだし」
ぼくはリデルと視線を合わせて、同時に破顔した。背負うものをすべて下ろしたアリス・リデルの笑顔は、これまでになく無邪気で屈託ない。
その様子を見たレイクスが、苦い表情でため息をつく。
「……どういうことよ、これぇ……」
――ホントにどーゆーことですか、これぇ……。
視界の隅では、キティまでもがなぜかぼくを睨んでいた。
「なんだよ、みんなして。ぼくが役立っちゃダメなのかよ。とにかく今は――」
突き上げるような震動が再び起こった。
「来るぞ! ギイチ殿! 私がジャヴァウォックめを必ず地に這わせてみせる!」
同時に栗毛のユニコーンが深紅の騎士ジャックを乗せて、一気に上昇してゆく。
「ジャックさん! 騎士団の矢に気をつけて!」
ぼくの叫びに、深紅の騎士が親指を立てた。
直後、これまでの規模を遙かに上回る震動とともに、火山のように大量の土や砂を舞い上げて、巨大な多頭竜が咆吼とともに大地から飛び上がった。




