悪戯仔猫は目を覚ます②
どれくらい走っただろうか。アスファルトやグラウンドとは違って、森の中じゃ恐ろしく体力を消耗する。ヒドく身体が重い。
苔生した倒木を乗り越え、シダ植物を払い除け、樹木を避けてふり返って確認する。
いつまで経っても金属の足音は消えない。そもそもやつらは空洞のバケモノだ。体力などという概念があるのかどうかだってアヤシい。足音は確実に近づいてきている。
ダメだ。考えすぎると諦観の念にとらわれ、足がもつれそうになる。
草に足を取られてよろめいたぼくの腕をつかみ上げ、彼女が額の汗を振り払って吐き捨てた。
「だめね、振り切れない。ねえ、コード・ブラックスミスお願いできる?」
「コード……? ……なに?」
彼女が端正に整った眉をわずかに潜める。
「キミ、新顔? 嘘でしょ! こんなことならショートソードを拾ってくるんだったわ!」
何を……言っているんだ……?
走りながら、彼女が苛立たしげに尋ねてきた。
「キミがルイスのプログラムを解いたのは、いつ? ――いや、やっぱいい。余計な問答をしてる場合じゃないわね」
ルイスのプログラム? さっきのコードってプログラムのことだったのか? けど、そんなものPCもなしにどうやれって? そもそもこの状況で何の意味があるんだ?
「キミ、あの鎧を相手に五分ほど時間稼ぎできる?」
「はぁ!? で、できるわけないだろ! 無理だよぉ!」
ふり返ると、もう十五メートルもない。中身は正真正銘の空洞らしく、垂れ下がった植物の蔓を鎧の継ぎ目ですり抜けて、苔生した岩を踏み砕きながら徐々に迫ってきている。
身体の大きさは怪鳥ほどではないとはいえ、二メートル近くはある。おまけに肉体は金属の鎧そのもので、手には日本じゃまずお目にかかれない凶器ときたもんだ。
それでなくともすでに手足は鉛のようで、胸当てや手甲といった重りをつけている彼女についていくだけで精一杯だ。さっきから何度も胃酸がこみ上げている。
「だよね。じゃあ手短に説明するから聞いて。質問と反論はなし。死にたくなければね」
口を開けかけていたぼくは、言葉を呑む。鎧との距離はもうわずか十メートル。余計なお喋りをしている場合じゃない。
「コードを頭の中に書くの。プログラム言語は使い慣れているものでいい。ただし一言一句、間違いのないように。創るものは3Dモデリングされた武器。頭の中でコードが完成したら、次はそれを転送するコードを書く。座標設定は自分を基点に。あとはやればわかる」
「ちょっと待って! そんなことをして何の意味があるんだよ!?」
残り七メートル。中身もないクセに息づかいが聞こえてきそうだ。
「何でもいいから五分で完了させて。ルイスのプログラムを読み解いたキミに、それができないとは言わせない。――だってキミ、凄腕のハッカーでしょ?」
最後の一言に、ざわっと背筋に汗が浮いた。
「どうしてそれを!? 追跡してたのか!?」
「質問してる場合?」
言うや否や、彼女が突然足を止めた。
勢い余って数歩、ぼくは彼女をふり返る。瞬間、彼女は水色ドレスを跳ね上げて、手の届く距離にまで来ていた先頭の鎧の兵士の胸部を、銀の膝当てで打ち抜いた。
「やっ!」
金属同士が激突する甲高いが響き、鎧の兵士は背後によろけ、彼女はぼくの立っている位置まで吹っ飛ばされながらも、両足と片手をついて着地した。
見てくれ通り、鎧と彼女ではパワーが桁違いだ。鎧の兵士はよろめくだけで、平然と迫ってくる。
「やっぱり武器じゃないと傷すらつかないわね」
「う、うわあ!?」
ぼくへと向けて振り下ろされた鎧の兵士のロングソードを銀の手甲の表面を滑らせて逸らし、視線すら向けずに彼女が叫んだ。
「早くコードを書いて! 目を閉じて集中! わたしが敵を受け持つから!」
「な、なんだよ! それをやれば助かるのか!? くそ、くそ、わけがわからない! こんなの夢だ、どうせ夢に決まってる!」
彼女が空中回し蹴りで鎧の兵士の腕を蹴り飛ばし、着地と同時にぼくを睨んだ。
「ごちゃごちゃうるさい! できるの? できないの? どっち!?」
「や、やるよ! やればいいんだろ、やれば!」
ぼくは堅く瞳を閉じ、イメージでモニターのみを起動する。暗闇の世界。キーボードもPCもいらない。どうせこれはぼくの想像、夢の中だ。
すぐ耳元で金属同士のぶつかり合う音が響き、頬に火花が散った。
「ひっ……」
「集中して!」
頬を叩く風圧に火花、そして錆びた鉄の臭い。彼女の荒い息づかいに、入り乱れた鎧の兵士の足音。右肩を掠める何かと、直後の鋭い痛み。
目を閉じたまま耳を塞ぐ。集中を乱せば、すぐにコードがわからなくなってしまいそうだ。
羅列、羅列、羅列。タイピングは必要ない。戸惑いながらも、ぼくはコードを書き続ける。
頬に生温かい水滴が跳ねた。夢にしては生々しいけれど、もう意識外だ。
目を閉じたぼくの視界にはコードしか見えていない。没頭してからどれくらい経っただろう。コードを書き終えたぼくは耳を押さえていた両手を下ろし、瞳を開けた。
「よし、あとは転送を実行す……れ……ば…………」
すぐ目の前で、一体の錆色の鎧が大きくロングソードを振り上げていた。
あ……死んだら目が覚める……かな……?
砕けた胸当てを血まみれの手で鎧の兵士へとぶつけて、彼女が叫んだ。
「転送! 座標設定ゼロゼロ!」
反射的に、ぼくの脳内で起動を待っていた転送プログラムが走り出す。直後、空を彷徨うように持ち上げられたぼくの右手の中に、金属バットが出現した。
うわっ!? て……、本物!?
振り下ろされたロングソードを、金属バットの根元と先端をつかんで受け止める。
「うぎっ!?」
勢いに圧されてバットがぼくの肩を激しく打ち付け、身長が縮むかのような勢いで両足がぬかるんだ森の地面へとめり込んだ。上下から圧迫されて、全身の筋肉と背骨が軋む。
目の前に鎧の兵士の胸部、トランプのクローバーのような紋章が近づく。
「クローバーを狙って!」
ぼくへと近づいてきた別の鎧の兵士の足を膝当てで蹴って崩し、彼女が叫んだ。
「う、わあああぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
斜め下段から掬い上げるように振り上げた金属バットの先端が、ぼくから身体を離そうとした鎧の兵士の胸部にある紋章を打ち付ける。
両手を伝う重量感のある衝撃と、周囲に散った火花。金属音が湿った森に甲高く反響する。
鎧の兵士が二歩、三歩……ふらふらと後退して、尻餅をついた。直後、鎧の兵士は全身をパーツごとに分裂させて、派手な音をたてながら無残に散らばった。
「あ……え……」
やつの胸部のクローバーマークは、大きく削れている。
復活……しない……? 胸部のクローバーマークが弱点……?
「避けて!」
「わぁ!?」
彼女の声に反応して、ぼくはとっさにその場を転がる。わずかに遅れて、苔生した岩を錆びたロングソードが打ち付けた。
跳ね飛んだ岩の欠片に頬を切られながら、ぼくは今にも抜けてしまいそうな腰を引きずるようにして、彼女の側へと駆け寄った。もちろん、金属バットを渡すためだ。
「ぶ、武器、これでいい!?」
「バカッ!! いいわけあるか! ああもうホンットに! なんっで金属バットなのよ!? キミ、アホなの!? 死にたいの!? わたし武器って言ったよね? それはベースボール用のスポーツ用品でしょうがっ!! 見なさい!」
ぼくが差し出した金属バットはその中腹を見事に斬り裂かれ、L字に折れ曲がっていた。かろうじて繋がっていたL字部分が、力なく切れ落ちて地面に転がる。
からん、ころん、と虚しい音を響かせながら。
「だ、だって仕方ないだろ。本物の武器なんて触ったことないんだから」
「言っとくけどわたし、もう五分ももたないから」
見れば彼女の胸当てはすでになくなり、手甲もヒビ割れ、全身から血を流していた。こんな森や戦闘には不似合いな水色のドレスも破れて赤く染まり、流れるような金髪も汗でベットリと身体に貼り付いている。
「ど、どどどどうしよう……?」
「どうしようもない」
鎧の兵士には感情がないのか、無残に散った仲間の残骸を平然と踏みつけて近づいてくる。先ほどまでのように走ってこないのは、警戒してのことだろうか。
大きなため息をついて、彼女が悔しそうに歯がみした。
「こんなところで死ぬなんて……」
言葉の意味が頭に染み込むまで数秒間かかった。血の気が引いて、自分の顔色が青ざめてゆくのがわかる。
「死ぬ? 死ぬだって? こ、こんなわけのわからない状況で、あんなバケモノに斬り殺されて? ぼくは嫌だ!」
「わたしだって嫌だよ!」
あきらめてたまるか。考えろ、考えるんだ。
鎧の兵士がロングソードを持ち上げた。
「ここは入力端末なしでもプログラムが力を持つ場所なんだよね?」
「そう言ったでしょう? でも、わたしにはもう、キミが武器を創るまで持ちこたえるだけの体力はない。それとも、キミがあいつらの相手をしてくれる?」
彼女の言葉の後半は聞いていなかった。ぼくは空に視線を上げて、両手を広げる。
できる。できるはずだ。ここがプログラムされた空間であるというのなら、生命なき人格【悪戯仔猫】は必ずこたえてくれる。
ぼくは脳内で【悪戯仔猫】に語りかける。0と1の羅列へと還元するプログラムではなく、いつもの日本語で。
こいつと一緒なら、世界中のどこへだって潜り込むことができた。それこそ米国国防総省だって、永世中立国の国立銀行だって、どこへでもだ。
頼む、こたえてくれ、キティ! 聞こえてるはずだ!
直後、脳内に聞き慣れた女性の声が響いた。
――イエス、マイ・マスター。音声情報を構築しました。
数秒も必要ない。一秒弱。人間のぼくには不可能でも、自作した人工知能である【悪戯仔猫】ならば造作もないこと。
――状況確認終了。援護を開始します。
最初は一つの乾いた金属音、だけど次の瞬間には。
「へ? ――きゃあ!?」
ぼくと彼女の周囲、そしてぼくらと二体の鎧の兵士を隔てるかの如く、次々と金属バットや中華鍋、バールに包丁、ゴルフクラブまでもが降り注ぐ。中には大理石の灰皿や中身の入ったビール瓶も混ざっている。
本物の武器を手にしたことのないぼくが、それらしく使える想像の限界だ。
二体の錆びた鎧が、突如降り注いだ物体群に戸惑ったのか、わずかに下がった。
「な、なんなのよ、これ!? ――キ、キミがやってるの?」
自作の脳内彼女です、などと言えば頭を疑われるのがオチだ。
「ま、まあ、そう……かな……」
人工知能【悪戯仔猫】は、ぼくが三年がかりで創り上げた、家族で友人で頼りになる相棒だ。ただし、実体のないプログラム人格に過ぎない。
けれどどうやら、ここではプログラムが大きな力を持つらしい。
ぼくの両手の中にもバールと金属バットが転送される。ぼくはそれらを握りしめ、震える手で鎧の兵士へと向けた。
プログラムでできることは、ここまでだ。ここからは人間力がモノを言う。
怖い。けど、恐れるな。絶対に生き残ってやるんだ。
歯を食いしばったほんの一瞬、視界が大きく歪んだ。
「――っ!?」
視界が戻ったとき、ぼくの心臓は止まりそうになった。
視界の隅、呼吸すら感じ取れるであろう距離に、黒髪黒衣の少女がいたんだ。わずかに悪戯な笑みを浮かべ、それも、空中をふよふよと漂いながら。
「あ……」
この森で意識を取り戻したとき、ぼくが最初に見た光の少女だ。彼女を形成していた光の粒子はその輝きを失い、代わりに一人の少女という存在となっていた。
わたしはここにいる、と。
視線を少女に合わせようとすると、少女はまた視界の隅に移動した。
――はじめまして、マイ・マスター。
おまえ、キティだったのか! いや、人工知能が実体化するなんてあり得ない!
――いいえ、いいえ。実体ではありません。マスターの網膜情報の一部をお借りしているだけです。
黒衣の少女が、座り込んだままだった金髪の彼女を指さした。座標を瞬時に割り出し、呆然としている彼女の手の中にも武器を転送する。
「ひゃっ!? なんなのよ、もう! でもこれなら……!」
彼女が鉄パイプを手に膝を立て、大地を蹴る。
そうして人工知能に過ぎない存在だったはずの【悪戯仔猫】は、ぼくの耳元で悪ガキのような含み笑いをしながら囁いた。
――さあ、反撃です。マイ・マスター。