詩篇より生まれし大地の獣⑥
身体中が重い。何だか本当に、走って逃げてばかりの一日だ。
向こう岸で二十体近くのトランプ兵たちが右往左往しているのを見ながら、レイクスがその場で大の字にぶっ倒れた。
「……あ~……も~だめ……。もう走れない……。……マラソン大会どころじゃない。何なのよ、ホント……」
ぼくはその横で四つん這いになって、呼吸を整える。
「お、同じく……。んあ!?」
四つん這いのまま視線を上げたぼくを大の字で見て、レイクスが顔をしかめた。
「今度はなに? もうわたしは一歩だって動かないからぁぁぁ!」
「三月兎だ」
「へ?」
ずっとついてきていたのだろうか。
グリフォンとの戦いで見失ったと思っていた三月兎が、鼻をひくひく動かしながら川を泳いで渡ってきていた。三月兎は濡れた身体を振って毛皮の水を弾き、ぼくらの横で四肢を折った。
まさかさっきまでの追いかけっこの最中も、足元を走っていたんだろうか。
レイクスが上体を起こして、三月兎に両手を伸ばした。
「おいで」
後ろ足でピョコピョコと跳ねながら、三月兎がレイクスの腕のなかへと入ってくる。レイクスは三月兎を瞳の高さまで持ち上げて尋ねた。
「キミ、リデルの居場所まで案内できる?」
現実世界であれば実にバカげた質問だけど、不思議の国であれば兎が人を案内するようなことがあっても不思議じゃない……と考えるのは、さすがに都合がよすぎるだろうか。
しばらく待ってみても三月兎からは当然のように返答はなく、ぼくらは同時に大きなため息をついた。
しばらく対岸で右往左往するトランプ兵を眺めたあと、小さな子がぬいぐるみに対してそうするように三月兎をギュッと抱いたレイクスが、クシュっとくしゃみをした。
太陽が翳り、気温も随分と下がった。この分じゃ夜は肌寒くなるに違いない。
「……ギイチ、着替えるから見てて」
「あ、うん。うん? ――はい!? な、何を!? 見てもいいの?」
レイクスが三月兎を足元に置いて、呆れたように言った。
「周囲を警戒しといてってこと。なんで着替えを見せなきゃならないのよ、すけべ」
「す、すけべって言わないでよ」
ぼくに呆れた視線を向けて、レイクスがため息をつく。
そのまま躊躇うことなく背中のファスナーを下ろし、肩を露わにした。水色ドレスを胸の直前まで下げて、レイクスが再びぼくに視線を向けた。
「……おい、直島くんよ。キミってそんな性格だっけ?」
「あ、ああ、もちろんもちろん!」
ぼくはあわてて対岸のトランプ兵へと視線を逃がす。警戒というよりは、視線のやり場に困ってだ。
「な、なんなら、向こうに行ってようか?」
「ダ~メ。無防備になる一瞬だからちゃんと守って。絶対に離れないで」
「む、むむ無防備となッ!?」
「……キミさあ、思ってること全部口に出すの、よくないよ?」
ぼくを警戒していないのだろうか。それとも、クラスでもはみ出しモノで置物みたいだった直島義一なんて、男性として意識していないのだろうか。
覗いているわけでもないのに心臓が高鳴って、顔が熱を発してゆく。
「ね、ねえ、レイクス。鍛冶プログラムで一瞬にして着替えるとかってできないの?」
「着ること……というより服に首を通す程度のことはできても、服みたく不定形のものを複雑に着たり脱いだりするプログラムは、むしろ組むのに時間がかかっちゃうんだよ。ボタンを留めたりファスナーを上げたりは特にね」
衣擦れの音はしない。代わりに水を含んだドレスが岩肌に脱ぎ捨てられる音がして、少し悩ましげにも聞こえるレイクスの疲れたため息が聞こえた。
「ギイチも着替えなよ」
「ぼ、ぼくは後でいいよ」
そうしている間にも、水を含んだ布が岩肌に落ちる音が何度か繰り返される。そのたびに掻き立てられる想像を頭を振って払っても、次々と浮かんでしまう。
どうやらぼくは、自分が思っていたよりもずっと、すけべらしい。
「もういいよ、ギイチ」
安心半分、残念半分で、ぼくは肩の力を抜いてふり返る。そして全身硬直した。
「任務は失敗。これで抵抗軍は、赤の城ヴェーレンへたどり着けない。嫌になるよ」
話の内容など頭に入ってこなかった。
「とりあえず、この森はもう危険だから三月兎を連れて抵抗軍のキャンプ地に向かおう、ギイチ。チェシャ猫の言うことが本当なら、三月兎は喋れないだけで、赤の城の場所は知っているはずだから。抵抗軍のみんなと一度相談しなくちゃね」
なぜならレイクスは、真っ白なレースのキャミソールにペチコートだけを身に纏い、濡れて月光に輝く金色の髪を大きなタオルで拭いていたから。
その光景は、大きな月を背負って、とても幻想的に見えたんだ。
「予定では抵抗軍と連携して、白の女王の騎士団もそろそろ動き出しているはず」
柔らかに膨らんだ胸元で小さな赤いリボンを揺らして、レイクスが頭髪を拭いていた大きなタオルを片手で下ろした。
「ギイチ? 聞いてる?」
数秒間見惚れたあと、ぼくは真っ赤になって大慌てで背中を向けた。
「ご、ごごごめんっ!! み、見るつもりはなかったんだっ!! ホ、ホントに!」
「へ? ああ。いいよ、別に。だってこれ下着じゃないのよ?」
下着じゃないって言っても、レースなんだからその下も透けて見えるのに、彼女は無頓着だ。彼女はぼくを男として見ていないのだろうけれど、ぼくはレイクスを完全に女性として意識してしまっている。
「で、でも、だって――」
月光を反射する金髪も、闇に浮き上がる真っ白な肌の曲線も、とても綺麗で、魅力的だ。ぼくみたいな人間が、こんなこと言えるわけもないけれど。
数秒間の沈黙。
日が暮れるにつれて、森のざわめきが大きくなってゆく。闇が降りてきてぼくらの姿を見失ったのか、いつの間にか対岸のトランプ兵たちは姿を消していた。
「あ~、あは。そ、そんなに意識しないでよ。わたしのなんか見ても嬉しくないでしょ。なのにそんなに恥ずかしがられると、なんだかこっちまで照れてくるよ」
「そんなことないよ! レイクスは……その……と、とっても……」
反射的にこたえたものの、彼女を褒めるだけの言葉を吐く勇気すらない自分が悲しい。こめかみ辺りに血管が浮き出て、今にも破裂しそうだ。
「ヤ、ヤダなあ、ギイチってそんなにエッチな人だったの?」
はい、そうです。メチャクチャ意識してます。女の子に慣れていなくて、正直好きになりそうです。言えるはずがない。
「そ、それはだってレイクスが……」
「わたしがなによ? わたしが悪いの?」
もはや顔中どころか全身発熱してしまっているのを自覚できる。
「どうせパーティメンバーは、ずっと一緒にいなきゃなんだから、こんなことで意識されても困る。もっと堂々としてよ」
見られたほうのレイクスよりも、見たほうのぼくが恥ずかしがっているのが悲しい。
「じゃ、じゃあ、ふり返ってもいいんだよね?」
「もちろんよ。最初からそう言ってるじゃない」
それならそれでいい。レイクス本人が見てもいいと言っているものを、頑なに見ないというのはきっとヘンだ。
そうだ。そうに違いない。見るぞ。ああ見てやるとも。上から下まで、じっくりと舐めるように見てやる。
喉を大きく動かして唾液を飲み下す。
ぼくは、キミを見るッ!
大きく夜気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。覚悟は決まった。
そしてぼくは首をねじ曲げるが如く、勢いよくふり返る。
「……」
「……」
レイクスはすでに、中世の騎士のように水色ドレスと銀の装備を身に纏い、舌を出しながら悪戯な笑みを浮かべていた。ご丁寧にショートソードまですでに吊している。その足元では、三月兎が楽しそうに跳ね回っていた。
「…………えへ~、やっぱ恥ずかしくなっちゃって」
彼女の白い肌はぼくと同じようにピンク色に紅潮していて、本当に恥ずかしがっていたことを如実に表している。だからこそ、そんな悪戯な表情さえ可愛らしくて、ぼくは両手で勢いよく自分の頭を挟み込んだ。
「ふ、ふふ……ふふふふ……」
自分のものとは思えない不気味な笑い声が、口から自然に滑り出した。
「えへ、えへへへ、ど、どうしたの、ギイチ?」
「ふ……んがあああぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
髪を掻き毟りながら、ぼくは意味不明の叫び声を上げてしまっていた。
「レェェェ~~~~~~~~~~~~~~~~~イクスゥゥゥゥッ!!」
「わぁぁぁ~~っ!? ご、ごめん!」
不思議の国にまで来て一体何をやっているんだろうか。きっとぼくには、変質者の素養が大いにあるに違いない。
そしてレイクスは、やはり少しヘンな女の子だとも思った。




