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詩篇より生まれし大地の獣④

「――あ~~……ちょっとイイ雰囲気のところ悪いんだけど、帽子を作る用事がないなら、早くここから去ったほうがよさそうよ。懐かしいヘドロのニオイがぷんぷんしてるもの」


 シフォンのミニを風に揺らして、テオフィルスが肩までの赤毛を流しながらシルクハットを指先で回転させた。


「まさか……、来ているんですか!? ここにっ!? あなた先ほど言いましたよね、グリフォンは女王の斥候だと」


 ヤマネ氏の呟きに、テオフィルスが唇をねじ曲げた。


「そのまさか。やーねー、帽子もかぶらない尻穴女の分際で鼻だけは利くんだから。ま、それはいーわ。さっさと逃げましょ。もう間に合わないかもしんないけど」


 テオフィルスの言葉が言い終わらぬうちに、大地が鳴動し始めた。

 森の中央部で樹木が次々と悲鳴を上げて倒れ、カラフルな鳥たちが一斉に飛び立つ。何かの大群が近づいてきている。

 同時に立ち籠める不穏な空気。

 トランプ兵なら樹木を薙ぎ倒すことはない。深い森とはいえ、木々の間を抜ければいいはずだ。ジャブジャブ鳥やグリフォンなら、森を走る必要すらなく空を駆ければいい。


 毛穴が一瞬にして開き、身体中から汗が噴き出した。それが恐怖だと意識もしないうちから、足がガクガクと震え出す。これまで恐怖など微塵も見せなかったレイクスが、目を見開いて喉を大きく動かすのがわかった。

 何が……来るんだ……?


「ギイチ、オジサン! 急いでここから退避! 今度こそダメかもしれない……っ!」


 レイクスが突然ぼくの手を取って森沿いの道を走り出した。弾かれたようにヤマネ氏と、シルクハットを手に持つテオフィルスが続く。

 全力疾走――!

 樹木の倒れる音と大地の震動は、間違いなく“終わらないお茶会”の会場へと近づいている。足音による鳴動は、十人や二十人規模じゃない。

 さらにそのなかには、森を薙ぎ払いながらでなければ移動すらできないくらいの、巨大な何かがいる。


「アタシがさあ、今日まで帽子をかぶらなかった理由、知りたくない?」


 長テーブルから少しでも距離を取ろうとするぼくらは、隣を走るテオフィルスのそんな穏やかな声にさえ驚いて、肩を跳ね上げてしまった。


「そんなの、あとにしてよ!」

「オーケー、じゃ、話す。アタシがリデルを赤の城ヴェーレンに近づけてしまったのよ。その結果、リデルは赤の女王を殺して即位し、不思議の国(ワンダーランド)の秩序が崩壊した。結果、この国の何割が殺されたことか。そんなわけでね、世間様に申し訳なくって帽子なんてかぶれなかったってわけよ」


 シルクハットのツバを指先でつまんで、テオフィルスがそれを頭に乗せた。

 帽子をかぶらない帽子屋が、目深にまでシルクハットをかぶって唇をねじ曲げた。


「………………アンタらに力を貸したら、帳消しにできると思う?」

「何言ってんの、バカ帽子屋! 余計なこと喋ってる体力があったら走って!」


 レイクスが叫ぶと、テオフィルスは何とも言えない表情でため息をついた。

 瞬間、吹っ飛ばされた森のいくつもの樹木が、お茶会の会場となっていた草原に降り注いだ。

 根元から折られた樹木は長テーブルをまるでオモチャのように叩き割りながら、皿もポットもカップもお菓子も、何もかもを薙ぎ払って転がってゆく。

 その直後、それらすべてを踏み砕くように、巨大な銀色の獅子が森から飛び出した。


 な――んだ、あれッ!?

 その足元で横たわるグリフォンですら小物と思えてしまうほどの巨体は、肩高だけで五メートルはある。

 肉体を形成する筋組織は、銀の毛皮の上からでもわかるほどに異様な盛り上がりを見せ、醸し出される威圧感は遠く離れたこの位置であってもグリフォンの追随を許さない。


「やっぱり……騎獣バンダースナッチ……!」


 レイクスが呻く。

 彼女の言葉通り、銀獅子の背には一人の女が立ち、ぼくらを……いや、レイクスを捜しているのか、キョロキョロと周囲を見回していた。

 背中に巨大な曲刀を背負い、レイクスよりもずっと長い銀髪と、鮮血で染め上げたような真っ赤なドレスの裾を、風に流しながら。


 ぼくらは彼女に見つからないことを祈りながら、ひたすらに走る。お茶会の会場に、次々とトランプ兵たちが森から飛び出してきた。一目見るだけで数える気も失せる数だ。

 テオフィルスが囁く。


「あれがリデルよ、ボウヤ。帽子もかぶらない下品な女だけどね」


 振り向きながら走っていたぼくの視線に気づいたかのように、ふいにアリス・リデルがこちらに視線を向けた。

 遙か遠く、声など聞こえるはずもない。だけどその瞬間、禍々しく歯を剥いて凄惨な笑みを浮かべたリデルから、不気味な笑い声が聞こえた気がした。

 舌で唇をひと舐め。

 リデルに騎乗され、その場で軽く跳ねたバンダースナッチが、ぼくらの方角へと鼻先を向けた。


 ヤ……バ……。

 次の瞬間、バンダースナッチを中心として幾体ものトランプ兵たちが、逃げるぼくらへと向かって大地を蹴った。

 この距離では十秒も保たない。トランプ兵ならばともかく、バンダースナッチの足では。


 歯を食いしばり、ぼくは一瞬で結論づける。

 不可能だと思えたグリフォンは、この手で倒せた。今考えれば、もっとうまくやれたはずだ。だから、きっと、ぼくならやれる。やるしかない。やるんだ。やってやる。

 ぼくを友達と呼んでくれたレイクスは、絶対に死なせない!

 レイクスの手を切って、ぼくはその場に立ち止まった。


「レイクス、先に行って!」

「ギイチ!? このバカ!」


 レイクスの言葉を聞き流し、ぼくは脳内で【悪戯仔猫(プランク・キティ)】に命じる。数十、いいや、数百の武器が必要だ。


 ――……。


 しかしぼくの命令に、【悪戯仔猫(プランク・キティ)】が反応することはなかった。滝のように汗をかいていたはずなのに、さらに毛穴が開く感覚がした。


 キティ! おい、どうしたっ!? さっきのあれでへそを曲げたのかっ!?


 腕を振っても、その手に剣が出現することはない。

 じょ、冗談じゃないぞ……。

 足の速いスペード兵がカトラスを振り上げて、ぼくの首を狙って袈裟懸けに振り下ろす。ぼくはヤマネ氏に創ってもらった日本刀をとっさに抜いて、それを受け止めた。


「くっ!?」


 両肩が外れそうなほどの衝撃を受けて、後方へと両足で大地を滑る。入れ替わりで背後から滑り込んできたレイクスが、スペード兵の胸部をショートソードで貫いた。


「はっ!」


 片足で蹴ってスペード兵からショートソードを引き抜き、レイクスがぼくに背中を合わせる。


「ギイチ! どうして止まったりしたのよ!?」

「レイクスこそ、なんで戻って来たりしたんだ!」


 黒のトランプ兵が鉄塊に変化するのを見届ける暇もなく、ぼくとレイクスは次々と追いついてきた後続のトランプ兵に取り囲まれてしまった。

 錆色のクローバー、黒のスペード、半透明のダイヤ、赤のハート、全種そろい踏みだ。

 バンダースナッチが悠々と銀の鬣を揺らして、ぼくらの正面に音もなく降りたつ。


「……っ、リデル……!」


 レイクスがショートソードを正眼に構えた。

 銀獅子の鬣をつかみ、腰部まで覆う銀髪を揺らして、少女が値踏みするようにぼくらを見下ろす。しかし次の瞬間には、小馬鹿にしたかのような口調で皮肉を吐き捨てた。


「あら、イカレ帽子屋かと思ったらあたしのスペアさんね。ごきげんよう」


 スペア? どういうことだ?

 レイクスを横目で盗み見ると、彼女は顔を歪めて舌打ちをした。そんなぼくらの様子などお構いなしに、リデルは薄ら笑いで続ける。


「あなた、まだジャヴァウォックの首をあきらめていないんですって? うふふ、バンダースナッチにキャワイイおケツを囓られて逃げ回ってる臆病者(チック)には、ちょっと荷が重いんじゃないかしら?」

「……下品な女」


 レイクスがそう呟いた瞬間、鋭い牙を剥いてバンダースナッチがぼくらに咆吼した。

 容赦なく空間を震わせ、草原を遙か遠方まで薙いでゆく獣の咆吼に、ぼくらは本能的に身を縮めた。油断をすれば歯が鳴ってしまいそうな恐怖が、腹の底から湧き上がる。

 グリフォンなど比較にならない。どう動いても殺されるビジョンしか見えない。


「はいはい。落ち着いて、スナッチ。ディナーの時間には、まだ少し早いわ?」


 アリス・リデルがニヤニヤと笑いながら、バンダースナッチの鬣を少し引いた。牙を剥いていたバンダースナッチが、二度足踏みをしてその場に後ろ足を畳んだ。

 体格や筋肉量から推定して体重はグリフォンを遙かに上回るはずなのに、しなやかな動きは一切の音を立てず、重量も感じさせない。

 だが、だからこそ恐ろしい。


「さて、どうしましょうか。なにしろ抵抗軍の大幹部、レイクス様々ですもの。この場で首を跳ねるもよし、捕らえて交渉材料にするもよし。あたし、迷ってしまうわ」

「はん、首跳ねが趣味の赤の女王が、ずいぶんと板についてきたじゃない。できるものならやってみなさいよ」


 レイクスがショートソードの切っ先をリデルに向けると、リデルは背中の大曲刀を片手で抜いた。同時に、トランプ兵の包囲網が徐々に狭まってくる。

 冷たい殺気のような感覚が、背筋を悪寒となって這い回った。


 まずい、まずい、まずいまずいまずい! どうしたキティ、応答しろ! 何をしているんだ、早く武器を出してくれ!


 脳が一瞬痺れたと思った瞬間、ようやく【悪戯仔猫(プランク・キティ)】の声が響いた。


 ――いいえ。マイ・マスター。その命令には従えません。

「――なんで!? ど、どういうことだよ、キティ!?」

「ギイチ?」

「くそ、こんなときに! 人工知能(AI)がなんで命令拒否なんてするんだ!」


 レイクスが聞いているにもかかわらず、ぼくは我知らず【悪戯仔猫(プランク・キティ)】への命令を声に出してしまっていた。


「メンテナンスモード起動!」

 ――拒否します。

「ギイチ、ちょっと何を言ってるの! しっかりしてよ!」

「わかってるよ! ……レイクス。武器が出せないかもしれない」

「……は?」


 トランプ兵の包囲網はおよそ三十。残りはぼくらを通り過ぎて、テオフィルスとヤマネ氏を追いかけて行ったのが救いか。

 二人も心配だけど、【悪戯仔猫(プランク・キティ)】がおかしくなった今、自分たちが生き延びることだけで精一杯だ。


「うふふ、何をゴチャゴチャ言っているのかしら? 無意味に抗いさえしなければ、別に取って食おうというわけではないのよ? 三食お昼寝つきのお城で生涯幽閉されるってだけの話だもの。粗末なナニほども大した問題じゃはずだわ」

「悪いんだけど。ご立派なモノを持つあんたと違って、わたしにナニはついてないのよ」


 レイクスの挑発に、リデルが一瞬真顔に戻り、次の瞬間爆笑した。けたたましい嘲り声が周囲に響く。

 やがてひとしきり嗤うと大曲刀を肩に乗せ、騎獣バンダースナッチの頭部から真っ赤なドレスを躍らせながら地面へと舞い降りた。


「へえ? 見直したわ、リデル。身の程知らずにも、一対一で戦ってくれるんだ?」

「うふふ、バカね。こっちはあなたたちと乳繰り合うほど暇じゃないの。そのマヌケヅラを一発引っぱたいたら、それで赦してあげる。あとは鉄屑たちが牢獄のパーティー会場までエスコートしてくれるわ」

「冗談。そんな不細工な鎧になんてごめんだわ」


 一触即発。リデルとレイクスが同時に膝を曲げ、身を低くした。

 どうやら相当相性が悪いらしい。おまけに周囲のトランプ兵は、クローバーやスペードだけではなく、どんな力を秘めているのかわからない赤い鎧のハート兵や、全身半透明で菱形の盾を持つダイヤ兵までいる。


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