悪戯仔猫は目を覚ます①
趣味品を投稿。
完結作品ですので、一ヶ月ほどで連載は終了する予定です。
最後まで楽しんでいただければ幸いです。
夢を、見ているのだろうか。
光の織りなす幻想的な光景に、無意識に一歩近づく。水分を多く含んだ腐葉土が、スニーカーの裏でわずかに沈んだ。
得体の知れない生物の甲高い鳴き声に、図鑑ですら見たこともないような巨大なシダ植物。鬱蒼と茂る森の大地には、太陽の光すら届かない。
なのに目の前では、蛍のような淡い光を放つ粒子が無数に浮遊している。けれど虫ではない。つかもうとして無意識に伸ばした手を、透過するのだから。
やがてそれらは互いに結合を始め、徐々に体積を増していった。
光の粒子が最初に形作ったのは、しなやかな質感を持つ長い二本の足だった。その足を抱え込むように、細く繊細な指先が、そして腕が形成されてゆく。
人間の……手足……?
光の粒子はなおも複雑に絡まり合いながら、そこから徐々に速度を増して緩やかな曲線を描き、ほっそりとした腰部と柔らかな丸みを帯びた二つの膨らみを作り出した。
女の子だ……。
首筋、そして頭部。揺りかごで眠る幼子のように膝を抱え、けれども中空に浮いたまま。光の筋でできた長い髪が、一本一本丁寧に背中へと流されてゆく。
美しい。
そう思った。自身が現在、見も知らぬ地にいることすら忘れ、その神秘性に魅入ってしまうほどに。
心臓が高鳴る。この光景から目が離せない。
光りの輝きが強く、彼女の表情までは窺い知れない。瞼は閉ざされたままだ。
ふいに長い睫毛が揺れた。瞼が微かに開いた隙間、視線を揺らしてぼくに向け、唇をわずかに動かす。三度、形を変えて。
けれども言葉はない。耳には木の葉のざわめきと、得体の知れない動物の鳴き声のみ。
「え……」
もう一度、同じ形に三度。一度目は口角を広げ、残る二度は同じようにわずかに開く。
に・げ・て――。
それが何を意味していたかを理解するより先に、空を覆っていた樹木の葉を大量に散らしながら、けたたましい鳴き声とともに、巨大な怪鳥がぼくと少女の間に舞い降りた。
とたんに、錆びた鉄のような臭いが充満する。
薄汚れた白の羽毛にこびり付いた、大量の赤い液体。軽自動車ほどもある巨体は黒一色の瞳でぼくを睨み、耳を覆いたくなるほどの奇声を上げた。
嘴の隙間から、何かの肉片を取り落としながら。
それが食い千切られた人間の腕だと理解した瞬間、ぼくは怪鳥に背中を向けて走り出していた。
「う、わあああぁぁーーーーーーーーーっ!」
逃げて。彼女がぼくに伝えたかった言葉だ。
なんだよ、あれ!? どうなってるんだ!?
わけがわからない。いつものように学校に行き、家に帰ってきて、……気がついたら、この森にいた。夕方の記憶だけが曖昧だ。
再びあがった甲高い鳴き声に、空間が震動する。
息を整える暇もない。地鳴りが追ってくる。発達した足の筋肉は、ぼくの知っている鳥類のものじゃない。
巨大なシダ植物を両手で掻き分けて踏みつけ、苔生した倒木を跳び越え、時折背後をふり返っては恐怖し、走る、走る、走る。
恐怖と疲労で心臓が破裂しそうだ。だけど足を止めたら、きっと殺される。そしてさっきの肉片のように、喰われるに違いない。
額から流れ落ちる汗を振り払い、ぬかるみや濡れた落ち葉に足を取られても片手で地面を叩き、とにかく走った。
背後から追ってくる地鳴りのような足音と、耳障りな奇声。
「く、来るな! 来るなぁぁ!」
自分の年齢も忘れて、みっともなく叫ぶ。
生い茂る巨大な樹木の森。その根元から生えた身の丈ほどのシダ植物。人の腕ほどもある巨大な芋虫。苔生した岩肌。様々な形状の湿った落ち葉に、季節感はない。
巨大な怪鳥が、異様に筋肉の発達した足で、ぼくの身長ほどもあるシダ植物を踏みつぶした。甲高い鳴き声に恐怖し、ぼくは走りながら耳を塞ぐ。生い茂った木々が邪魔をして飛び立てないことだけが救いだ。
怪鳥との距離をふり返って確認したぼくが視線を戻したとき、突如として視界が太陽の光に覆われた。
「あ――っ!?」
唐突に開ける森。地平線まで続く草原。
翼の自由を奪う木々のない草原へと飛び出した瞬間、怪鳥は空へと舞い上がる。あわてて進行方向を再び森へと戻したときにはもう遅い。
「う、わああああぁぁぁーーーーーーーっ!!」
両足の鋭い爪をぼくへと照準して、凄まじい勢いで怪鳥が空から襲いかかった。
夢ならもう覚めてもいい頃だ。目を開けば、いつもの天井があるはず。叫びながら焦って起きて苦笑いをし、またつまらない学校に出かけるんだ。
諦観の念に囚われ、目を瞑りかけたその瞬間。
「伏せて!」
――それは、決して覚めることのない夢だった。
若い、けれども勇ましい女の声が草原に響く。
恐怖で両手を交差したぼくの肉体へと怪鳥の爪が食い込む直前、森の茂みから飛び出した水色の影が、銀色の閃光で怪鳥の喉元を真横に斬り裂く。
な――ッ!?
深いダークブルーの瞳をした、とても綺麗な顔立ち。纏った水色ドレスの胸部には、まるで中世ヨーロッパの騎士であるかのような、メタリックに輝く銀の胸当てが輝いていた。
喉元の羽毛を自らの血に染めて、怪鳥の首が大きく仰け反る。
彼女は着地と同時にドレスを翻しながら回転し、膝を曲げて剣を立て、正確に喉元の傷口へと刃先を突き入れる。
「ハッ!!」
鈍い音が響いて、怪鳥の肉へと刃が食い込んだ。
彼女はショートソードを引き抜くと同時に片方の手でぼくの肘をつかんで、まるで優雅にダンスでも踊るかのように再び身体を回転させた。ドレスのスカートが舞い上り、ぼくらは怪鳥から噴出した血液を華麗に回避する。
直後、怪鳥の巨体が傾いた。地響きを起こして倒れた怪鳥は、傷ついた巨体で草原の草と砂を巻き上げながら、のたうち回っている。
ふわりと扇状に広がった長い金髪が、ゆっくりと背負ったシールドに降りた。
「キミ、平気?」
視線を怪鳥に向けたまま呟く顔を、ぼくは至近距離で見つめる。外国人――けれど。
「どこかケガでもした?」
力強いダークブルーの瞳にも、眩いばかりの金髪にも、そのくっきりとした目鼻立ちにも見覚えがあった。
気づいていないのか、ぼくに。それとも、他人のそら似なのだろうか。
「レ、レイクス……さん……?」
学校。そう、教室。ぼくらは話したこともない仲だけれど、確かに同じ教室にいた。
「え――きゃっ!」
少女が目を見開いてこちらに視線を向けた瞬間、のたうちまわる怪鳥の巨大な翼がぼくらの全身を打った。
「痛っ!?」
羽根のはずなのに棍棒で殴られたかのような衝撃に、身体はあっさりと宙を舞う。地面がアスファルトでなくて良かった。数メートルは吹っ飛ばされながらも、ぼくは草むらを転がって視線を上げた。
彼女は――。
薙ぎ払われる瞬間に彼女がとっさに立てたショートソードが、遙か遠くに吹っ飛んでゆく。だけど彼女自身は地面を両足で滑っただけで、凛として大地に立っていた。
「悪あがきを!」
彼女が、遠い位置に突き刺さったショートソードへと駆け出した瞬間、怪鳥が凄まじい鳴き声を空へと放つ。これまでとは別種の、まるで超音波のような奇声が周囲一帯の空間をビリビリと震動させ、ぼくらは同時に耳を手で覆った。
「きゃあ!」
「くあっ!?」
けれどそれは断末魔の叫びだったのか、すぐに止んだ。怪鳥の全身が大きく痙攣し、その首がゆっくりと地面に倒れてゆく。
胸を撫で下ろしたぼくとは対照的に、彼女は表情を強張らせて足を止めた。
「ちょっと、冗談でしょ……。喉を潰したのに叫ぶなんて……」
水色ドレスに銀の胸当てをつけた彼女が猛スピードで引き返してきて、有無を言わさぬ勢いでぼくの腕をつかんだ。
「森に逃げる!」
「え……あ……、だって……剣……」
「そんなもの後で再現すればいい! 生命のほうが大事! 早く走って!」
ぼくの顔を一瞥しても、やはり何ら記憶を呼び覚ます様子もなく、彼女はぼくの腕を引っ張って走り出した。
もしもこの少女がぼくの知るレイクス理恵だったとしても、彼女とは喋ったこともなく、まるで目立たない影のようなクラスメートの名前なんて知らないということか。
いつだってそうだ。どこにいても、ぼくは一人ぼっちだから。
「逃げるって、どうして? あの鳥はもう死んでるんじゃ」
「仲間を呼ばれた。お願いだから黙って走って」
地面に崩れて動きを止めた怪鳥に背を向けて、手を引かれるままにぼくは森へと走る。彼女が巨大なシダ植物を片手で払い除けながら森の茂みへと飛び込んだ瞬間。
「避け――」
間に合わないと踏んだのか、彼女の手がぼくの頭部を地面すれすれにまで押さえ付けた。一瞬遅れで吹っ飛んでゆく横一文字に斬られたシダ植物の葉。
「――ひっ!?」
刃の銀閃がぼくらの頭上を通過したんだ。
ぼくは前のめりに転がりながら、彼女は背中の木製の盾を片手で下ろしながら、茂みから飛び出す。
息を呑んだ。
囲まれていた。三体の全身鎧に。しかも、鎧の中身はない。錆び色の鎧の胸部にはトランプのクローバーが刻印されているだけで、兜の中は黒色。影。空洞。虚無。
「バ、ケモノ……」
ぞわっと肌が粟立った。
錆びた金属を擦り合わせる嫌な音を響かせながら、そいつらが一斉にロングソードを持ち上げた。
殺される……。
「正面突破する! わたしの背中を押して!」
ぐん、と手を引かれて、ぼくはつんのめりながらも彼女の背中を追い、勢いをつけて正面の一体へと突撃する。
「こ、ンのぉぉぉぉーーーーーーーーーーーーーっ!!」
彼女は木製の盾を装着した左手を小さく折りたたんで頭部を覆い、振り下ろされつつあるロングソードへと、自らの全身ごとぶつけるかのように叩きつけた。
「押っせぇぇーーーっ!」
金属が木製の盾を叩く鈍い音が響き、彼女の動きが鎧に止められた瞬間、ぼくはやぶれかぶれになって叫びながら全身で彼女の背中を押す。
「う、わあああぁぁぁーーーーーーッ!!」
普段使わない筋肉が、音を立てて軋む――!
一瞬ののち、けたたましい金属音が鳴り響き、二人分の突進を乗せた小さな盾は正面の鎧を勢いよく弾き飛ばしていた。
パーツごとに分裂して地面に散乱した錆びた鎧を踏みつけ、ぼくらは包囲網を強引に突破する。
心臓がかつてないほどに暴れまわっていた。
「ヤー! ありがと!」
「う、うん」
真っ二つに割れた木製の盾を投げ捨てて、彼女がぼくに微笑む。
「た、助かった?」
「まだまだ! 走って!」
背後をふり返ると、鎧の兵士を形作っていたパーツが糸で吊されているかのように浮いて積み重なり、何事もなかったかのようにヒト型へと戻りつつあった。
正真正銘のバケモノだ。
武器も盾も失ったぼくらは森の奥深くへと、とにかく逃げ続けるしかなかった。