3
「まぁ、朝になるわな。普通に」
スッキリとは程遠い靄がかかったような気分でスーツに腕を通す。
等身大ミラーに映った姿はつい一昨日まで懸命に走り回っていた就活生そのものだった。
「え、おにぃ、本当に行くのあの会社」
食べかけのバナナ片手に眉を八の字にして声を掛けてきたのは、年の離れた妹、咲。睦とは違い、大きな黒い瞳が小動物を思わせる小柄な少女である。
「まぁ、無視するわけにはいかないだろ。一応行って、何かの間違いじゃないか聞いてくるよ」
「マジメだなおまえ。そんなんほっときゃいいのにさ。ねぇ、睦月?」
睦の言葉に横やりを突き立てた母親の美紀は、ぶっきらぼうな口調で隣で食パンをかじる夫に同意を求める。
「あ、あぁ、まぁ……それもそうだが、睦の言うように……」
「でもでも、変な会社だったら逃げてくるんだよおにぃ!」
「咲の言う通りだぞ睦。この世の中にゃ星の数ほど会社なんてあるんだ。嫌だったら辞表叩きつけてこい。あ、どうせなら一発殴って来いよ。あぁ? 安心しろ、骨は拾ってやる」
――――どこをどう安心したらいいのだろう。
それとオヤジがなにか言いかけていたけどいいのだろうか……
睦はどこまでも不安を掻き立てる家族を尻目に家を出る。
と、その後ろから聞きなれたぶっきらぼうな声が飛んでくる。
「睦ー! 晩飯までには帰れよー」
「一応遊びに行くんじゃないんだぞ……」
ケラケラと笑って母親は家の中に姿を消す。
「まぁ、あれこれ考えても仕方ないか」
就活で使い込まれたシワのよったスーツと底面の角が削れた鞄をお供に正体不明の会社へと向かう。
22年間冒険し尽したこの鈴城市はどこも自分の庭同然で、バスから電車への乗り継ぎ、下車してからの会社までの道順も全く問題なく、最短距離でぐんぐんと進む。沈んでいた気持ちとは裏腹に足取りは軽かった。
会社まであと少し。そんな不安と少しの期待が入り混じった気分で信号待ちしている時、ふと足元へ視線を落とすと、まるで新品みたい、とまではいかないが履いた革靴が光沢を放っていた。思い返してみても自分で磨いた覚えはない。
「うん、悪いことばかりじゃないよな」
睦は最後の信号を渡り、目的地であるファッションビルの案内板の前に立つ。
地下2階。間違いなく『COF』と書かれていた。
お読み頂き有難う御座います。