第七話 策謀が踊ったり、踊らなかったり
スペリオル・シティを発って、北へと伸びる街道を進むこと約二時間。
あたしたちは、やや木々が生い茂り、小さな林を形成し始めた場所に足を踏み入れていた。
街道はちょっと前で危険の回避を促すように二つの道に枝分かれしていたけれど、あたしたちが迷わずに選んだのは林に一直線に突っ込んでいくほう。もう片方は言うまでもなく、見晴らしのいい、平和そうな平原が続く道だ。
あたしたちがこっちを選んだ理由はすごく単純。
もう片方の道が林を大きく迂回するルートを取っているためだ。
もちろん、急がば回れという言葉が示すとおり、林でモンスターに襲われれば、もっと時間がかかる場合もあるし、最悪、アイ・シティに辿り着けずにジ・エンド、ということもあるだろう。
けれど、そこはあたしとアスロック。木の根っこに足を取られるなんてヘマをやらかすような運動神経はしてないし、モンスターとかに襲われても返り討ちにできる自信がある。
それに、少々の危険があるからという理由だけで遠回りになる道を選べるほど、あたしには心の余裕がなかった。表情になんて出してはいないけど、焦っているのだ。これでも。……まあ、それと同じくらいワクワクしてもいるけれど。
ともあれ、そうである以上、もう片方の安全な道を選ぼうなんて考えは一度たりとも思い浮かばなかった。
そもそも、アスロックが護衛としてついてきてくれているのである。モンスターに襲われることを恐れて迂回なんてしたら、なんのためのアスロックか。
「――エルフ? セレナさんってエルフだったのか?」
「ああもう! 耳尖ってたでしょ! あれでエルフ以外のなにに見えるっていうのよ!?」
……いやまあ、こちらの血圧を無意味に上昇させてくる、疲れる話し相手という側面もあるけれど。
それにしても、本当に常識の欠けている奴である。
「いや、だって、髪が黒かったじゃないか。エルフに黒髪って、普通はいないんだろ?」
「え? ああ、そっちで疑わしく感じたのね。……でも、だからって耳の尖っている種族をただの人間だと思ってたっていうのはどうなんだろう……」
でもまあ、『エルフは耳が尖っている種族』という常識はあったんだから、今回はまだいいほうか。
さてさて、アスロックの言うとおり、黒髪のエルフというのは基本、この世界には存在しない。実際、あたしもお姉ちゃん以外には黒髪のエルフなんて見たことも聞いたこともないし。
つまり、お姉ちゃんの存在はあたしにとっても完全に例外なのだ。
というか、知り合いの純粋なエルフ自体、あたしにはすごく少ない。というのも、エルフというのはフロート公国に存在する『神の聖地』のひとつ――『妖かしの森』にのみ住まう種族だからだ。
だというのに『妖かしの森』から出てきているエルフは、基本、自分から出てきた物好きか、なにかやらかして森から追放されたかのどちらか。
ちなみに、お姉ちゃんは前者と後者、どちらなのかというと――
「それにほら、セレナさんはお前のお姉さんだろ? 人間の姉ならその人も人間、普通はそう思うじゃないか」
「え? ああ、アスロックは知らなかったっけ? あたしとお姉ちゃん、血が繋がってないのよ」
「そうなのか? そうか、道理で似ていないと思った」
しみじみと、心底納得できたようにうなずくアスロック。……ほほう。
「ちなみに、どのあたりが似てないって思ってるの?」
「仕草とか、まとっている雰囲気とか、大人っぽさとか。…………ああ、あと! 髪の色とか! 耳の形とか!!」
「慌てて取ってつけたように言うなあぁぁぁぁっ!!」
「うわわっ! 怒ったっ!!」
「そりゃ怒るわよ! いくら心が広くて寛容なあたしでも!!」
「どこが心が広くて寛容――いやなんでもない。気にしないでくれ」
あたしの睨みに、アスロックは両手をぶんぶん振って前言撤回。まったく、こいつは……!
ひとつ嘆息し、不意に吹いた風にざわざわと枝を揺らす一本の樹木に目をやる。そうして気を取り直し、あたしは改めて口を開いた。
「詳しい経緯はあたしも知らないんだけどね。なんでもいまから十年以上前――まだスペリオル聖王国がフロート公国と戦争をしていた頃ね――『妖かしの森』から追放されたっていうお姉ちゃんをお父さまが連れ帰ってきて、そのまま養女に迎えたんだそうよ」
「『だそうよ』って、なんだか他人事みたいに言うんだな。義理でもお前のお姉さんのことだっていうのに」
「しょうがないじゃない。だって十年以上前よ? 当時、あたしはまだ五歳にもなってなくて、物心ついてなかったんだから。……まあ、そのおかげであたしは、お姉ちゃんを『姉』として抵抗なく受け入れることができたし、『長女』であるあたしに『姉』が出来るという不自然な状況も気にせずにいられたわけなんだけどね」
「なるほど、八方丸く収まったわけだな」
「う~ん、それがそうとも言い切れなくてね。だって、養女として来る先は一般家庭じゃなくて王宮なのよ? 本人、あたし、お父さまの三人は満足したけど、周囲の人間がかなり反対したらしいわ。主に、『長女』だったあたしの将来を慮って、ね。そしてそこには、なんの悪意も存在していなかった。悪意がなかっただけに、しんどい話よ。ああ、お父さまがお姉ちゃんを養女に迎えたがった理由をまったく語ろうとしなかったのも、民の不信を煽ったし」
おまけに、本来は『妖かしの森』に住まうエルフを勝手に連れてきたという背景から、『妖かしの森』に住まうという『神族四天王』の一柱――『妖王』から神罰が下るのでは、と恐れる者もいたという。
「なんというか、よくそれでセレナさんは大丈夫だったな?」
「実はそれからすぐに、お姉ちゃんは森から追放されたエルフなんだって街中に公表されたのよ。まあ、あたしは『帰る場所がない』っていう立場を作るための嘘だっていまでも思ってるけど」
だって、あのお姉ちゃんだし。追放されるような『なにか』をしたなんて、とても思えない。
「『妖王』に追放を取り消してもらおう、と動いた者もいたらしいわ。でも高位の神族がそう簡単に人間に会ってくれるはずもなく、お姉ちゃんが森から追放された理由は現在に至っても不明のまま。当然、森に帰してあげるべきと言う人の数も時が経つごとに減っていった。お姉ちゃんの人柄がよかったっていうのもあるしね。単純な人格的な意味でも、王女としての振る舞い的な意味でも」
お母さまが生きていれば、あるいは違う結末を迎えたのかもしれないけど、それは本当に仮定の話でしかない。わざわざ話に出してアスロックを混乱させることもないだろう。
そのアスロックは、なにか釈然としない表情で言葉を返してきた。
「いや、俺が言いたかったのはそういう意味じゃなくて、な。なんというか、その環境、セレナさんにとっては針の筵だったんだろうな~って」
「う……」
否定は、完全にはできない。森から追放されたエルフは差別の対象にこそならないものの、快く思える経歴でも、決してないからだ。
でも、
「お姉ちゃん、王宮の人からは基本的に好かれていたから。あたしとも仲よかったしね。ただ……」
「ただ?」
アスロックの促しにうなずきをひとつ返して、あたしは彼のほうに顔を向ける。
「ただ、追放されたショックでかどうかはわからないけど、お姉ちゃんにはね、その当時の――正確には六歳になるまでの記憶がまったくないらしいのよ。ほら、いくら物心ついてないとはいっても、『言われてみればそんなことあったなー』って薄ぼんやり憶えてる過去ってあるものでしょ? お姉ちゃんにはそれがないみたいなの。つまり、お姉ちゃんの現在の精神年齢は大体、十三歳。――ある意味では、あたしよりも年下とも言えるのよね」
「お前より年下、ねぇ……」
「あー、うん。その呟きの理由はよくわかるから、今回ばかりは追及しないでおいてあげるわ……」
だって、そんな空白の時間を感じさせないくらいに落ち着き、大人びているんだもんなぁ、うちのお姉ちゃんは。
それはさておき、そんな理由もあって、なぜ追放されたのかをお姉ちゃん本人に直接訊くこともできなかったわけだ。
――さて。
「そろそろ話を元に戻すわよ、アスロック。まったく、毎度毎度話を逸らしてくれちゃって!」
「え? おれ、話を逸らしてたか?」
「一番最初にこれでもかってくらい話を逸らしたでしょうが! ここに足を踏み入れたとき、あたしがなんて言ったか憶えてる!?」
「まあ、丸暗記は得意だからな。当然憶えてるさ」
「なら言ってみなさいよ! あたしがなんて言ってたか言ってみなさいよ! さあさあさあ!」
「落ち着けよ。ええと、ほら、あれだ。確か『エルフは珍しいから見つかりやすいはず。アイ・シティに居るなら聞き込みですぐに見つけられるわ。問題なのは、まだお姉ちゃんがアイ・シティに到着していない場合。だから――』だったか」
「そうよ! そのとおりよ! ああもう、本当に一言一句間違えずに暗記できてるところが余計に腹立つわね!」
「いや、だから落ち着けって……」
「落ち着けるかぁっ! まさに『だから――』のところであなたに遮られて、そのままずるずると本題から遠ざかっていったんじゃない!」
「よし、ならいまから戻そうぜ。本題に」
「だから戻すって言ってるでしょうがあぁぁぁぁっ!!」
ああ、頭の血管が何本か切れそうだ……。
あたしとこいつ、もしかしたら相性が最悪なんじゃないだろうか。それもあたしにとってのみ。現に彼は怒鳴られているというのに平然としているし……。
「ぜぇぜぇ……。は、話を戻すわよ。エルフは珍しい種族だから見つかりやすいはず。ならアイ・シティに居さえすれば容易く見つけられるわ。見つけるのが難しくなるとすれば、それはお姉ちゃんがアイ・シティにまだ到着していない場合。だから――」
「どうでもいいが、さっきの言葉と似ているようで細部があちこち異なってるな。自分の言葉なんだからちゃんと憶えておけよ」
「だから話を逸らすなあぁぁぁぁっ!! 大体、できるかっての! 自分の言葉とはいえ、一言一句違わずに同じことを言うなんて!!」
こ、こいつはまったく……! わざとやってるんじゃないでしょうね……!
「おれにはでき――えっと、その、なんだ。よくわからんが、おれが悪かった。そして落ち着け」
「っ……! こほん。だ、だから、お姉ちゃんよりも先にアイ・シティに到着できさえすれば、お姉ちゃんがアイ・シティにやってきた時点で見つけることができるのよ。そのためにはお姉ちゃんよりも早くアイ・シティに着く必要があって、安全な回り道なんて選んでいられないの!」
「ああ、なるほど。それでわざわざ林を突っ切るほうの道を選んだのか」
「……え? あなた、なんでこっちの道を選んだと思ってたの?」
「うん? そりゃあ、林の緑がとっても青々しかったから?」
「…………」
「それにミーティアは、どちらかと言わずとも短気だからな、遠回りすることになるほうなんて選びたくないだろうし」
「…………」
「あ、そういや、林の緑が青々しいって、なんかものすごい言葉の矛盾を感じないか? 緑なのに青ってなんでだよって感じで――」
「――どうでもええわっ!!」
まったく! こいつは本当にまったく!
こんな体たらくで護衛なんて務まるのだろうか。現にいまだって――
「まあ、それはそれとして、だ。ミーティア、気づいてるか? 囲まれてるぞ?」
……さすがに気づいていたか。
すると、気づいていたうえで、あたしとあんなやり取りをしていられるくらいの余裕があった、と。
そういえばアスロック、何度もあたしに『落ち着け』と繰り返していたし。
なんだかんだで、やっぱり実力はあるらしい。あたしと同じで。
「ちゃんと気づいてるわよ。『なら言ってみなさいよ! あたしがなんて言ってたか言ってみなさいよ! さあさあさあ!』ってあたしが言ったあたりから、だったかしら?」
「だな」
短く答え、左腰の鞘に手を添えるアスロック。……ふむ。すぐには抜かない、か。襲いかかってこないならそれでよし、と考えているとみた。そして当然、降りかかる火の粉は払うつもりでいる。事実、威嚇のつもりで抜刀して、逆に襲いかかられてしまったという話はよく聞くし。
モンスターであれ人間であれ、相手にだって自己防衛本能というものがあるのだから、当然、モンスターであっても自分よりも強い相手には襲いかかってこないことのほうが多い。人間であればなおさらだ。
そんなことを考えながら、あたしは向けられている殺気から、囲んでいる敵の数を数え始めた。
いち、に、さんの……たくさん。
誤解されないよう言っておくが、別に算数ができないというわけじゃない。単に、敵の気配が濃くて、三以上の特定ができないだけで。……もちろん、自慢できることでもないんだけど。
でも、こういう特定はそれこそ、ガルス帝国生まれのガルス帝国育ちである、アスロックの専門分野なのではないだろうか。
「五匹、か。長剣か、それに類する得物を持っていて、爬虫類を連想させる舐めるような視線……。こりゃ、相手はリザードマンかな」
数だけではなく、モンスターの種類まで判別? それは優れているというレベルじゃ――
「えっと、魔術は行使できないが炎のブレスを使用し、おまけに鋼鉄とほぼ同等の強度を持つ皮膚を保持している。接近戦において勝利を得るのは非常に困難であるものの、魔術を用いれば容易に撃退することが可能である、だったっけか」
どこまで詳しいんだ、こいつは! 魔道学会では『専門家』と呼ばれる人物があたし自身も含めて十数人いるけど、彼は戦闘の専門家ってやつなのかもしれない。もちろん、そんな尊称は存在しないわけだけれど。
……ん? 『だったっけか』?
「ねえ、アスロック。もしかしていまのって、あなたお得意の丸暗記?」
「ああ。戦術指南書(モンスター編)の丸暗記」
「う、う~ん、なんだろ。すごいことはすごいんだけどなぁ……」
「それより、お前も一応は構えておけよ。いつ襲いかかってこられてもおかしくない状況なんだから」
「あ、うん。りょーかいりょーかい」
しかも、これくらい当然って表情で、自慢ひとつしないっていうのもなぁ。こいつの中での『すごいこと』って、あたしのそれとはかなりズレてるっぽい。
そんな思考をしながら、エアナイフを収めてある鞘に手を伸ばす。ちょうど右手を右の腰に当てている感じだ。左手はどんな風にも動かせるよう、弛緩させておく。
「この気配って……。ん? 舌打ち?」
アスロックの呟き。
「へ? アスロック、なにを言って――」
それが、失敗だった。
彼の呟きに反応したことで隙の生まれたあたしめがけて、リザードマンが一匹、突っ込んでくる。
「――っ!?」
思わず目をギュッと硬く閉じる。
暗闇に支配された中で感じたのは、目の前の空気が動く気配と、耳に飛び込んできた音と、声。
音はアスロックの抜いたエアブレードがリザードマンの長剣を受け止めた音で。
「ミーティア、目を開けろ! 反射的にでも閉じるのが一番危ない! 恐怖で固まってもらってるほうが、護衛やってるおれからすればまだマシなくらいだ!」
声は、一度も聴いたことのない、彼の焦りの混じった叱咤の声だった。
「――ごめん! まだモンスターは一匹も倒せてないんだから、せめてあなたから距離を……って、ええっ!?」
エアナイフを抜きながらバックステップして。
エアブレードを構える彼の眼前で、胴体から血を流して崩れ落ちていくトカゲのようなモンスターが視界に入る。
「いっ、いつ倒したの!?」
「こいつとつばぜり合いやろうとしたら、あっさり剣の腹のところを斬り飛ばせた! その動きのとき、一緒にこいつも斬っちまってたんだ! 脆い剣を持っててくれたおかげで、おれのほうが一太刀分早く動けたわけだな! あ、それより、そんなこと話してる場合なのか!?」
そ、それはそうなのだけれど……。
き、斬り飛ばした? 刀身の腹を? 風の魔力で切れ味を上げてあるとはいっても、エアブレードの切っ先で? そりゃ、ありえないことじゃないだろうけど……。
「非常識な切れ味してるわね、そのエアブレード。あなたの火術と同じで特別製、とか?」
全然軽口のつもりじゃない軽口を叩きながら、あたしは態勢を立て直す。……まったく、恥ずかしいところを見せたものだ。
彼もまた、バックステップであたしの近くに来てから、改めて剣を構え直す。
「特別製? いや、そういうわけじゃないが、一風変わった、とは言ってたな……」
「言ってた? なんか引っかかる言い方ね?」
「この剣はな、フロート公国でとある領主に雇われたときに、レオって奴からもらったものなんだ」
「領主に雇われたときに? そもそもその『レオ』って何者よ? 明らかに愛称でしょ、それ」
「フルネームは、なんかやたらと長ったらしかったな。ええと確か……レオンハルト・ロレン・シュヴァルツラント、だったっけか?」
レオンハルト・ロレン・シュヴァルツラント……。ああ、フロート公国にあるシュヴァルツラント領の領主の長男か。まだ十代半ばの、あどけないって言葉がよく似合う少年だったはず。……って、こいつ貴族と面識あったの!?
……いやまて、まだそうと決まったわけじゃない。もちろん九割方、間違いないだろうとは思うけど。
「ちなみに、そのレオって子のお姉さんとは会った?」
「リースのことか?」
「……会ってるんだ」
「ああ、そりゃな」
これは疑いようなく面識あるな。
そっか、アスロックにも貴族と接する機会はあったのか。
いや、あるいは貴族と接すること自体には慣れていて、だから王宮でも落ち着いていたのだろうか?
まあ、どっちでもいいことではあるんだけどね……。
「そう。まあ、いいわ。鬼が金棒手に入れててくれて困ることはなにもないし。――さて」
「ああ。あと四匹。ぱっぱと片づけるとしよう」
なんの気負いもなく答えるアスロック。それこそが自分の力に自信を持っていることの表れだ。
そして、自分の力に自信を持っているのはあたしも同じ。先ほどの失態を帳消しにできるくらいの活躍はさせてもらわないと。
「しかし、さっきの舌打ちはなんだったんだ? それに、あの気配は魔族の……」
眉をひそめて言うアスロック。あたしも彼の呟きは気にならないわけじゃないけど、いまはリザードマンたちを倒すのが先。そもそも、舌打ち云々は彼の空耳って可能性が一番高いのだし。
そう割り切って、あたしはさっそく呪文の詠唱を始めた。
幸い、いまあたしたちがいるのはいくつもの木々がそびえ立つ林の中。
背中合わせに立つようにすれば、常に一対一の状況を作りだすことができる。
更に、だ。もっとも警戒しなければならない炎のブレスも、この状況下でなら怖くない。いくら知能の低いモンスターといえども、この場所でブレスを吐くことはしないだろう。生存本能が先にたって。
だって、何度も言うけどここは林の中。炎や爆発を伴う攻撃なんて、結果的に自分の命も危険に晒すことになると、誰にだって容易に想像がつくはず。
現に火術を得意とするアスロックも、剣を構えるだけで呪文の詠唱をする様子はみせないし。
……うし。目の前のリザードマンが飛びかかってくる隙をうかがってくれている間に、あたしの呪文は完成した。
あとは、この均衡を崩し、一気に勝利をつかませてもらう!
「疾吹風矢っ!」
左手を前に突き出し、呪力を解放する。
目の前には数本の風の矢。当然、視認はできないけれど、それらが風を切る音を立て、リザードマンへと迫りゆく!
そして、目の前のモンスターが事切れるのを確認する時間も惜しく、あたしは次の術の詠唱に取りかかった。だって、倒れ伏したリザードマンの後ろから、三匹目が向かってこようとしているのだから。
――と。
「刺死残華っ!」
背後から声と、鈍い音が聞こえてきた。
刺死残華――確か、刀身を横にして突きを繰り出し、腕が伸びきると同時に刃をそのまま横に薙ぐ剣技、だったか。コツをつかめば比較的簡単な部類の技に入るけど、刃を横にした状態での突きから横に薙ぐまでの一連の動きをマスターするまでが大変、とブリジットに聞いた覚えがあった。
それはそれとして、接近戦では勝ち目が薄いと理解していながら、どうして剣技を使うかなぁ。まあ、あのエアブレードの切れ味なら勝算が高いっていうのはわかるんだけど。
「……っ!」
そんなことを考えながら詠唱を続けていると、同じ轍を踏むまいと思ったのか、今度は先にリザードマンのほうから斬りかかってきた。詠唱を中断しないように気をつけながら、なんとか右手に持ったエアナイフでそれを受け止める。そして、
「熱線放射!」
左の人差し指の先から熱線を放つ!
それを受け、わずかに怯むリザードマン。だが大した熱量ではないと悟ってか、再び斬りかかるチャンスをうかがう姿勢に移行する。
けど、その判断は失敗。確かに最初の熱量こそ大したものではないが、この熱線、一箇所に集中的に当て続ければ、鉄すらも容易に溶かす。
つまり。
「――ギャウ……ッ、グッ……!」
長時間当て続ければ、ほらこのとおり。
リザードマンの硬い皮膚であっても、重度の火傷を負わせ、のけぞらせることもできるのだ。
ちなみにこの術はもちろん火術ではあるけれど、使うのが一瞬であれば発火したりは絶対しない。そのあたりもちゃんと計算して、あたしはこの術を選んだのだ。物を燃やしたり、爆発を起こしたりするだけが火術じゃないってこと。
のけぞるリザードマンの腹に、あたしはなおも熱線を当て続ける。リザードマンが異変に気づいた時には遅く、モンスターは腹に小さな風穴を空けながら、仰向けに倒れ込んでいった。……う、なかなかにエグいなぁ、この術。使ったあたしが思うのもアレだけど。
――これで、残るは一匹。
その一匹も、あたしが後ろを振り返れば、
「不動戦十字っ!」
アスロックの仕掛けた斬り上げで宙に舞わされ、
「はっ! はあっ!」
その状態のまま、左右から素早く彼に斬りかかられ、
「――おおっ……りゃあっ!」
相当の精神力を込めた大上段からの振り下ろしで地面に衝突。おそらくは、なにを仕掛けられたのかもわからなかったであろうままに絶命させられていた。
それにしても、これはあたしの知る剣技の中でもかなりの大技。その精神力を込めるという行為と、それ以上に運動の激しさから、下手をすれば命をも落としかねないものだったはず。もちろん、精神力を込める技であるため、リザードマンどころか、アンデッドや魔族を始めとした精神生命体にもダメージを与えることができる、とても優れた技でもあるのだが。
なんにせよ、こんな小競り合いのような戦闘で使うかなぁ、普通。
まあ、それはさておくとして、これにて戦闘終了、一件落着。余韻になんて浸ってないで早くアイ・シティに向かわないと。まったく、無駄な時間を取られ――
「――また舌打ち? 気配のほうもなんでこう……。――っ!? ミーティア! 後ろ!!」
――後ろ……?
アスロックの鋭い言葉を受け、しかし、いつになく緩慢な動作で振り返ってしまったあたしの目に飛び込んできたのは、仰向けに倒れながらも口を大きく開き、いまにも炎のブレスを吐き出そうとしているリザードマンの姿!
腹に小さい風穴が空いているところからみるに、あたしの<熱線放射>を食らった奴だろう。
……しまった! あの程度じゃ致命傷にはならなかったか!
慌てて、詠唱が短く、威力の高い呪文――水系の<水刃斬>を唱え始めるも、その選択だって、いい判断だとはお世辞にも言えない。
この術は、周囲にある水に干渉して刃と成す術。すなわち、近くに水がなければ意味がないのだ。
ああもう、こんな状況でなんて致命的なミス。なんでよりにもよって<水刃斬>なんて選んだんだ、あたしは!
でも中断して別の術に切り替えても、間に合うわけもないし。一体どうすれば……!
――と、そのときだった。
あたしの耳に、呪文を唱える声が妙にクリアに入ってきたのは。
とても滑らかで、無駄なタメのない詠唱。それは、詠唱の際にもっとも理想とされる発声を『丸暗記』し、かつ日頃から実践しているからこそできるもの。
そして、そんな『丸暗記』が得意だと言っていた彼の唱えている呪文は、あたしのそれよりも短い時間で唱え終えられる水術で、しかし、殺傷能力はまったくない――
「水珠法!」
ただ、水の球を撃ちだすだけのものだった。
おそらくは、火を消すには水、というだけで単純に選んだ術だったのだろう。
彼が一人だけで戦っていて、それでこの術を使ったというのなら、その判断は本当に、お粗末の一言で切り捨てられていたんだろうけど……。
――よくやった、アスロック!
水の球がリザードマンの口許にぶつかり、破裂する。
びしゃっと音を立て、飛び散る水は小さい水溜りを形成し。
それを見届けてから、あたしは声も枯れよと大声で『呪文名』を口にした。
「――水刃斬ぁぁぁぁっ!」
鎌首をもたげるように。
水が、曲線の刀を形作る。
そして、そのまま水の刀身は弧を描き。
「――ガ、グッ……!」
切っ先から、リザードマンの口の中へと進入。後頭部と地面を繋ぎとめるようにグッサリと突き刺さった。
「…………。ふぅーっ……」
「あ、危ないところだったな。いや本当に危ないところだった」
「そうね……。ああ、冷や汗かいた……」
今度こそ絶命したリザードマンを視界に収めたままで、あたしは深く嘆息しつつ、いつの間にやら吹き出ていた額の汗を左の手の甲で拭う。
そして、アスロックのほうを振り返り。
「助かったわ、アスロック。ナイスフォロー!」
「お、おう。……なんか、お前に手放しで褒められたのって、初めてな気がするな」
「ん? そう言われてみればそうかもね。まあ、無理もないか。まだ付き合いも浅いわけだし。なにより、あなたって常識がハンパないくらいに欠落してるし、そのせいであたしを苛立たせることも多いから」
「……そうかい」
うんざりした表情になるアスロック。
けれど、あたしはそれに笑顔を向けて、言った。
「それでも。案外、いいコンビになれるかもしれないわね、あたしたち」
それは、まだまだ淡い、単なる『予感』でしかなかったけれど。
あたしは、心の底からそう思っていた。