始まり‐家
高校から帰ってくると、兄がリビングでくつろいでいた。
「兄貴ー、帰ったぞー」
「おう、お帰りー。学校は――「つまんなかった」――だよなあ。未来にとってみりゃ、高校の勉強なんて水素よりも軽いからな」
二十五歳でありながら企業の重役になった天才にそんなことを言われても。という気持ちになる。
「まあそれもあるけど。高校の勉強なんて、相撲取りが小さい子供を数メートル吹き飛ばすよりも簡単だし」
「面白いたとえをするねえ。なかなかシュールな光景だよ。というか児童虐待で逮捕されそうだよ」
「たしかにそうだな」
軽く兄をあしらいつつ、俺は荷物を置いてキッチンへ向かう。
兄はソファで寝転びながら、俺の方を向いて言った。
「で? それもってことは他にも理由があるんだろう?」
「うわぁ、さすが兄様ですねー。こんな小さなことも見逃さないなんてー」
「棒読みは少し辛いなあ。それに、こんなわかりやすいこと、子供だってわかるじゃないか。そんなことで褒められても、うれしくないんだよねー」
「まあそうだろうな。そんな世辞なんて聞き飽きてるだろうし。で、そんな聡い兄貴なら、俺がウキウキルンルンしながら帰ってきた理由もわかるんじゃねえの?」
俺はリビングからつながっているキッチンに入り、冷蔵庫を開けた。ああ、お茶切らしてたな。作らないと……。
「未来がウキウキルンルン? それこそシュールすぎる光景だよ。笑いが止まらない(笑)」
「黙ってろ」
俺は腹を抱えて本当に爆笑している兄に、手にもったミカンを投げつけた。
――実に残念なことに、そのミカンは見事に兄が口でキャッチする。
「で? 俺がそれなりに楽しそうに帰ってきた理由は?」
「ああ、それはM&Sの本サービス開始だからだろう? 開始は夜六時からなんだけどねえ」
「開始は昼だろ。オープニングが六時からってだけで。土曜の夜六時は丁度いい時間帯だよな。本サービス開始となれば、確実に全員INしてくるだろ。十五万だったか? そんなに一気にプレイヤーを入れて、大丈夫なのか? 開発者さん?」
俺が茶化すようにそういうと、兄は苦笑しながら言った。
「おいおい我が弟君。まさか千年に一人の天才と呼ばれたこの松原郷が、そんなへまをするはずがないだろう? 十五万どころか、日本全土のすべての人がINしても処理できる自信があるよ」
「はいはい、そーですか。じゃあ早めにINして、絶景でも眺めますかな。六時までには時間があるから、多少周りで狩りくらいはできるだろうし」
「そうかそうか。ま、過分に期待しておいていいと思うよ。絶景、なんて言葉が、仮想、何て概念が、実に軽く思えるほどの景色だから」
「おーおー、そうですか。そんじゃあ、せいぜい期待をかけるとしましょうかね」
「素直じゃないなあ、全く」
兄が苦笑するように、俺に言ってきた。
それに少し肩をすくめて、俺はリビングの扉を開けて外に出ようとする――。
「――おおっと、危ない危ない。忘れてた。未来、お前に良い物やるよ。誕生日、先月だったけど忙しくてあげれてなかったからな」
――が、出来なかった。
兄の言葉が気になって、思わず――と言うか、素直に立ち止まる。
「良い物って? もらえる物は貰うけど」
「ゲームを円滑に進めるための、ゲームマスターからのご褒美だ」
「そんなのいいのか? ゲームマスターが個人に何かあげるなんて」
「別に良いんじゃない? 俺のゲームだし、文句は言わせんよ。俺の弟になれなかったのが悪い」
「むちゃくちゃな理由だな……。まあいいや。で、そのプレゼントとやらはどうやってもらえばいいんだ?」
「最初のキャラ設定の画面で各種番号って項目があるから、そこに“9aBe35KiO”って打ち込めばおっけーだよ。アバターもこっちが勝手に設定しといたからね(ドヤッ」
「ドヤ顔すんな。――ま、ありがとう。珍しい兄からのプレゼント、素直に貰っておくよ。……もしかしたら、雪でも降るかもね。真夏だけど」
「一言どころか数言多いよ」
二人で苦笑しながら、俺はそのままリビングを後にする。階段を上り、二階の自室に向かう。
ベットの上に置いてあるゲーム機IWA――Imagin World Apparatus――を頭に付ける。
線をネットにつなげ、IWAの電源をONにする。
『――オプションON――』
頭の中で声が響く。俺はベットに寝転がり、身体の力を抜いた。
『――ようこそ、ヴァーチャルリアルの世界へ――』
再度頭の中で声が響き、意識が別の方向へ移動するような錯覚をする。
『――視覚・聴覚ともに異常なし――』
『――オプションモードで試行します――』