負けました
同棲にあっさりと頷く亰花さんに、俺の開いた口が塞がらない。
きっと反対するだろうと思っていたのだ。
なのに当の本人は、悩む素振りなど一片たりとも見せなかった。
それどころか、嬉しそうに微笑んでいるではないか。
「姉様が決めることに、きっと間違いはありませんもの」
この言葉を聞いて、俺は絶句した。
その華やかに咲いた笑顔に、嘘偽りなど無いだろう。
とても自然に、姉の言葉を完全に受け入れている。
男と同棲することに不満と不安を感じていない、不幸になるなんて微塵も思っていない。
アレは家族に全幅の信頼をおいた者だけが作る、最上級の表情だ。
「和沙姉様、そんな事より早くパーティーに行きましょう?」
もはや話は済んだとばかりに、亰花さんは和沙さんの腕を掴んだ。
彼女にとって同棲の話より、祝賀パーティーの方が大切らしい。
急かすように身体を引っ張る妹を、和沙さんも仕方なさそうに受け入れている。
だが、待って欲しい。
「あと時間を三分ください。それで全てを決めますから」
「……まぁ。絶夜くんは私に言い残したことでもあるのかしら?」
当たり前である。
二人は平気なのかも知れないが、コチラは新たな展開に着いて行けていないのだ。
「むぅ、絶夜さん。姉様とわたくしを困らせたら駄目ですわよ?」
――それは俺の台詞でもあります、亰花さん。
しかし口には出来ない。
間違いなく、俺の言い分は亰花さんに理解されないだろう。
あそこまで家族の言葉を肯定できる人に、俺の反論は通じない。
だから俺は、和沙さんにのみ視線を集中させた。
眼力で『お願いします』と必至に訴えたのだ。
そして、それは成功したらしい。
「……まぁ良いでしょう、亰花は部屋の前で待ってなさい。すぐ済みますから」
そう言って椅子から立ち上がりつつ、和沙さんは亰花さんに微笑んだ。
亰花さんも空気を察したのか、すんなりと姉の腕に絡めていた両手を解く。
「……姉様が言うなら判りましたわ。けれど、きっちり三分だけですわよ」
釘を刺すようにそう言い残して、亰花さんは足早に部屋を出た。
後に残されたのは俺と和沙さんだけ、これで心置きなく話が出来るというものだ。
「……正直な話、亰花さんがあんな簡単に了承するのはショックでした。天保院の方はみんな、あまり悩まずに即決する血筋なのですか」
「否定はしないわ」
否定しないのか。
こうも断言されると、いっそ清々しいものである。
「けれど亰花は特に疑うことを知らない純白な性格なの。だからこそ、絶夜くんのような男の子に教え込んで欲しいのよ」
「いったい、何をですか」
「自立した生活というものを」
そう口にする和沙さんは、すさまじいほどに真剣な視線だった。
俺が無意識に後ずさりしてしまう程に。
今日、一番の本気を感じたのだ。
「……自立というなら一人暮らしが一番です。天保院の財力を持ってすれば、俺以上の好条件で生活が可能でしょう」
「あの子に必要なのは一人暮らしじゃない。教育者かつ家族以外の保護者なの」
俺の言葉を否定しながら、和沙さんはフルフルと首を左右に振った。
自立した生活を求めると言いながら、保護者が必要というのは矛盾である。
「昔の言葉に箱入り娘というものがあるでしょう、亰花はまさにソレなのよ。大事に育てすぎて世間という外界をあまり知らないわ」
「……自立させたいが、いきなり一人暮らしというのも荷が重いという判断ですか」
「えぇ。物事には順序ってものが必要でしょう?」
まったくもって、説得力のある言葉だ。
別名、お前が言うな。
そんな皮肉を口に出したい所だが、時間が無い今は諦めるしかあるまい。
「しかしだからといって、年頃の異性と同棲というのは危険だと思わないんですか」
「あら、同棲と言っても一ヶ月で済むわ。それとも亰花と一緒に暮らすのは不満?」
「いいえ、まったく不満などありません」
残念ながら、こればかりは本心から来る即答である。
俺の欲望が
『美少女とドリームハウスで暮らすのが夢でした』
という意味不明な供述をしているぐらい舞い上がっている事も認めよう。
けれど納得できるかは話が別だ。
「不満はないですが、不安はあります。二人の同棲生活というのは初めてですし、何より女の子と一緒に暮らしていけるのか。心配が尽きませんよ」
「そういうバックアップも任せて頂戴。亰花は私が大切な家族だもの、生活の不便はさせないわ」
「それなら」
なんで、という言葉は続かなかった。
和沙さんの人差し指が、スッと俺の口を塞いだからだ。
「危険だからと避けていても、いつかは通らなければならない道だってあるのよ」
「…………」
「特に異性なんか、これから先は無視できない。安全に男性について勉強できるというなら、同棲くらい安い授業料だわ」
そう言って和沙さんは俺の唇から指を離した。
……どうやら、しゃべっても良いようだ。
「それでも俺だって男ですよ。亰花さんを好きになる可能性だってあるじゃないですか」
「恋愛するだけなら健全ね。あの子は惚れっぽいから、両思いになるのは簡単だもの」
まさかの家族公認である。
『やったー、同棲から始まるラブもあるよね』
と万歳している欲望を無視して、俺は和沙さんに詰め寄った。
「貴方は、自分の家族をなんだと思っているんですか」
「愛しているわ。だからこそ、今のうちに教えなくてはいけないの。恋愛に限らず、社会人になれば否応なしに世間を知ってしまう。過保護に囲う事も万全ではなくなるのよ」
「貴方の計画はずさんすぎる、俺はそこまで出来た人間じゃない」
「大丈夫よ」
「いったい、何を根拠に」
「亰花が私を信頼している気持ちと同じくらい、私が貴方を信頼しているのだから」
は?
なにを、こんきょに。
「人を信用するのに明確な根拠はないわ。ただ、言えるのは一つだけ」
「なんです?」
「貴方がその信頼を裏切っても、私は貴方を恨まない自信があるのよ」
「…………」
「たしかに客観的に見たら、無茶な博打にも見えるかも知れない。でも貴方が相手なら負けても構わないわ」
「……まったく。なにをいっているんですか、あなたは」
「本当は判っているんでしょう? だって絶夜くんの顔、煮込んだトマトみたいだもの」
それは和沙さんの言葉によって、俺の脳内が焼き切れたからである。
おかげで心臓までがショート寸前で、ドクンドクンと体内で走る血流が体温を上昇させていく。
「……知ってますか。そういうの、褒め殺しって言うんですよ」
「そう、覚えておくわ」
ずるい。
和沙さんは親父殿よりも、もっとずるい大人だ。
これは正真正銘の口説き文句じゃないか。
おかげで反発する気持ちが、バキバキに砕かれた。
それと同時に、とうとうタイムリミットも来てしまったようだ。
「さて、三分は過ぎたわね。亰花が騒ぎ出す前に部屋を出ましょう」
静かに微笑みながら、和沙さんは椅子から立ち上がった。
もはや振り返ることもなく、大事な妹が待つ外へと歩き出している。
堂々としたその佇まいは、とても美しい。
勝ち誇るのではなく、当たり前のように勝利を自覚している自然体だからだ。
素直に負けた、と思った。
だから俺はその背中に向けて、自分の敗北を宣言する。
「……貴方の信頼に応えましょう。同棲している間、亰花さんの生活は俺が責任を持って面倒を見ます」
「そう、素敵な答えね。信じているわ、絶夜くん」
ドアから視線を逸らすことなく、和沙さんはそう呟いた。
……どうしよう。
もう俺は、この信頼を裏切れそうにない。
それが一方的であっても俺が認めた相手の感情なら、受け止めたくなるからだ。
悔しいが、和沙さんの信頼なら全力で応えたいと望んでいる自分が居る。
そう決心した矢先、和沙さんが立ち止まってコチラに顔を向けてきた。
「ねぇ。これは今回の報酬という訳ではない、という前提の話だけど」
「……なんですか?」
「今日はここで亰花と一緒に泊まるのだけど、貴方も参加する?」
「謹んで、お断ります」
即答した理由は二つあり、一つは俺の男としての意地だった。
もう一つの決め手は、俺の中の欲望が
『これがモテ期ってやつか』
とナルシスト気味に呟いたのが無性に腹立たしかったからである。
「そう、残念ね」
溜息混じりの呟きに、後悔しなかったと言えば嘘になる。
だが、これで良い。
ここまで大人達に翻弄されたのだ、最後くらいは自分の意思で結果を選び取りたかったのである。
『今からでも遅くない。撤回しろよ、この格好付け野郎』
と主張する欲望と必死に戦いながら、俺は無言で部屋を後にした。