七月二日(月曜)の放課後
「……約束の時間まで五十分を切ったか」
独り言を呟きつつ、俺はリビングでぼんやりと寛いでいた。
授業が終わり放課後になった瞬間に、俺は急いで帰宅。
現在はシャワーを浴びて汗を流し、濡れた髪もドライヤーで乾燥済みの状態だ。
靴は一応、スニーカーではなく革靴を玄関先に用意してある。
つまり今日のパーティーへの準備は万端という訳だ。
「親父殿め、まだ連絡を寄越してこないとは」
そんな愚痴をこぼした瞬間、聞き覚えのある電子音が室内に木霊した。
無論、携帯電話のディスプレイに表示された文字は『親父殿』である。
「もしもし」
「あぁ、もう帰っているのかい。絶夜」
「もちろんだ、既に支度も終えているぞ」
「良し、なら部屋から出てきなさい。マンションの玄関先に迎えが出ているから」
「……少し待ってくれ、今すぐに外に飛び出すことは出来ないからな」
「あぁ。お前の部屋は三階にあるんだっけか」
「そういう事だ」
親父殿と会話をしつつ、俺は携帯を手に持ったまま窓を覗きこんでみる。
そこには紅色に染まる空の下、黒い車が排気音を出しながら道路脇に停車していた。
……まったく、実に見覚えのある車ではないか。
「自家用車か。まさか親父殿自らが運転してきたのか」
「どうせ目的地は同じなんだ、世間話でもしながら同行するのも良いだろう?」
「……そこは否定はしない」
親父殿の言葉は合理的な意見だし、俺も拒否する理由はない。
そうと決まれば、車に乗り込む為のアクションを滞り無く進めるだけだ。
「では親父殿。いますぐに下へ降りるぞ」
そう言って窓際から離れ玄関先まで歩きながら、俺は携帯電話の通話を切った。
新品の革靴を手に取り、足にはめる。よし、履き心地は悪くない。
「さて、行くとするか」
そう決心を言葉にしながら、俺は外へと向かう。
ドアを開くと、生暖かい風と夕日に染まる空が視界いっぱいに広がった。
うん、じつに夏を実感させる良い情景だ。
眼前に広がる景色を堪能し、俺は下で待機する親父殿の車を目指す。
「待たせたな、親父殿」
「なに、一分にも満たない時間だったさ」
車の後部座席に乗り込むと、ミラー越しに親父殿と目が合った。
その表情は、苦笑している。
「なんだ、助手席には座らないのかい」
「後ろの方が落ち着く。親父殿も知っているだろう?」
そう言いつつ、シートベルトを締める。
……あぁこの座り心地、ずいぶんと懐かしい。
古い友と再会した気分を味わっていると、親父殿が不満そうに顔を向けてきた。
「けど久しぶりの顔見せなんだ、より近場で語り合いたいじゃないか」
「……親父殿。早く車を出さねば、間に合わなくなるぞ?」
「――やれやれ。親子水入らずの会話はシート越しか」
残念そうにしながらも、親父殿はアクセルを踏む。
ゆっくりと進むタイヤの動きを感じながら、俺はフロントガラスから映る景色に目を向けた。
「親父殿、それで目的地は何処なんだ?」
「○○ホテルだ」
「ホテル? 宿泊施設に行ってどうする」
「はは、ホテルといっても結婚式や宴会に場所を貸す事もあるのさ」
「なるほど、勉強になるな」
……とはいえ、そんな建物がこんな住宅密集地にあるはずもない。
通り過ぎる風景は電柱や街灯、民家ばかりだ。
「それはいつ到着することになるんだ、親父殿」
「ここから少し離れた郊外にあるからなぁ。二十分間ほどか」
「……間に合うが、もう少し余裕を持ったほうが良かったな」
「開始前の挨拶すべき相手は少ないし、部下が場を整えてくれているさ」
「重役出勤というヤツか、親父殿」
呆れつつ、俺は正面から視線を外してサイドガラスから上を見上げた。
仄暗くなりつつある空に対し、地上は徐々に人工の明かりが目立ち始めている。
……せめて街中が鮮やかな夜景に染まる前に、間に合って欲しいものだ。
――ホテルの駐車場に着いたのは、六時四十五分だった。
夏が始まったとはいえ、この時間帯は太陽もかなり沈んでいて薄暗くなっている。
郊外と言う事で視界の悪さを心配したが、さすがはホテル。
周囲の電灯が、かなり鮮やかに照らしているので足下に不安は感じない。
自分の考えが杞憂で終わった事に安堵していると、親父殿が声をかけてきた。
「どうだい、絶夜。ここは夜景が綺麗なことで有名なんだが」
「ほぉ、そうなのか」
遠く離れた中心街に目を向ければ、夕闇に負けじと淡い光が充ち満ちていた。
赤色や青色、白色など様々に輝く宝玉が視界いっぱいに広がっている。
ホテルのイルミネーションとの掛け合わせも、確かに悪くない。
ただ、そんな俺より感動している人間が一人いた。親父殿だ。
「いや凄いなぁ。こういう景色を見ると、年甲斐もなく胸が躍るよ」
声色とその表情は、まぐれもなく興奮した子供のソレだ。
そういう大人を見ると、子供はつい感想を聞きたくなるのである。
「ずいぶんと楽しそうだな。はしゃいでいるのか、親父殿」
「否定はしない。今日は仕事だけど、プライベートでも泊りたいね。母さんと」
「相変わらず、仲が良いようで何よりだ」
「たまに喧嘩もするけど、犬も食わない微笑ましいものだよ」
「夫婦水入らずの機会を邪魔する気はないが、今は仕事の方が重要だと思うぞ」
我ながら素っ気ない言葉を投げつつ、俺はドアを開き車外へと出た。
……まぁ、確かにココの景色は悪くない。
中心街から少し離れた郊外という事もあるが、ここまでの道のりは上り坂だった。
つまりそれは、街中のライトアップを見下ろせる高さにあるという事だ。
展望台もあるようだし、夜景はこのホテルの売りの一つなのだろう。
――だが今は仕事なのだ、それに時間も押している。
「今は急がないと」
「あぁ。判っているとも」
そう言いつつキーをゆっくりと引き抜ぬいて、ようやく車内から出る親父殿。
ホテルへ向かう足取りも、決して早くもない普通のウォーキングだ。
見た目だけなら優雅だがコチラとしては、もどかしい。
しかしだからと言って俺が手を引き、先頭を行く訳にもいくまい。
――などと思っていると、ふと誰かの視線を感じた。
周囲を見回すとホテルの入口で、スーツ姿の男性がこちらを見ている事に気が付く。
……というか見覚えがある、アレは親父殿の部下だった筈だ。名前は確か有浦さんだったか。何度か、我が実家に出入りしていた人である。
相手方も察知したのか、向こうから駆け寄るように近づいてきた。
「あぁ、部長。お疲れ様です、意外と早かったですね」
「……む?」
――意外と早い?
時計で確認するが、予定の開始時刻まで十分足らずだ。
てっきり待ちわびているのかと思ったが、焦った様子もない。
親父殿も相変わらず、マイペースに手を振っている。
「やぁ、有浦くん。案内役、ご苦労様。よろしく頼むよ」
「任せてください。あ、絶夜くんも久しぶりだね。こんばんわ」
「……どうも、お久しぶりです」
「前にあったのは、半年ぐらい前だっけ? 大きくなったなぁ」
「そうですね、身長も当時から三センチ伸びました」
「良いねぇ、若さの証だ」
わざわざ目線を合わせてくれた挨拶は、とても嬉しい。
だが、俺としては無愛想にならざるをえない。
有浦さんには悪いが、他人に名前を呼ばれるのはやはり抵抗があるのだ。
何より、別にこの人とは仲が良い訳ではない。
……まぁ、それはそれとして。
「親父殿。早く行かないと、パーティー開催までの残り時間がないだろう?」
「え? 祝賀会の開始時刻までなら、三十分以上あるよ?」
きょとん、とした表情で首を傾げる有浦さん。
……嘘を言っている態度でもない。では、どういう事か。
確認するように親父殿を見ると、あからさまに顔を逸らされた。
しかし無視ではないらしい。
視線を合わせないまま、親父殿は独り言のように語り出した。
「……絶夜よ。これは試練なのだ」
「どういう意味だ、親父殿」
「お前は今から、一人だけで例の人と話し合うんだよ」
「……聞いていないぞ、俺は親父殿も同席しているのかと思っていた」
「そう言うと思ったよ。だから、断りにくい面会時間ギリギリを選んだんだ」
「なるほど、そうか。――嵌めやがったな、親父殿」
だがこれで、妙に親父殿が落ち着いている理由がわかった。
俺に嘘を告げておいて、自分だけ余裕を見せていたのは癪だが。
「それで親父殿、余裕のできた時間はどうする? 夜景でも堪能すれば良いのか」
「いやそれは困る。約束の時間まで猶予がない、大事な方がお前を待っているんだぞ」
「わかっているとも」
ちょっとした冗談ではないか。
仕事に私情は挟まないと言った以上、任務は完遂してみせる。
「……ところで親父殿は、これからどうする?」
「僕はこれから、部下との打ち合わせだ」
「事前の準備は済んでいるんだろう?」
「まぁね、しかし万が一ということもある。念には念を、と言うヤツさ」
「俺はぶっつけ本番な訳だが?」
「僕の自慢する息子が、失敗する筈もないだろう?」
そう口にした親父殿は、本当に誇らしそうに胸を張っている。
……正直イラっとした。
祝賀パーティーの進行には気を遣うくせに、社長令嬢との面会に息子を一人だけで向かわせる事は不安がないらしい。
俺も随分と信頼されているものだ、と鼻を高くする気にはなれない。
もう知らん、このおっさんの事は。
――あぁ、自分が拗ねている事は認めよう。
だが自覚はしても反省する気は無く、俺は有浦さんへと話を振った。
「……案内役と言ってましたが、もしかして俺の為に外で待っていたんですか?」
「うん。到着次第、取り次いで欲しいという話だったからね」
「なるほど、ではさっそく向かいましょう。ここに留まっても時間の浪費だ」
「頼もしいな。絶夜」
中年のおっさんが俺の言葉に感動を抱いているようだが、知らぬ。
俺はただ、自分のビジネスの為に腹を括ったに過ぎないのだ。
決して、どこかの会社役員の為ではない。
「――おっと、待ちなさい。絶夜よ」
「……なんなのだ、親父殿」
「はい、コレ」
そう言って手渡されたのは、金属製の名刺入れだった。
……間違いない、コレは『馬波 絶夜』の名が刻まれた現物だ。
「なんだ、これを受け取れというのか」
「使わずとも、いずれ必要になるさ。自分の父親を信じなさい」
「……むぅ」
――父を信じろ、か。
業腹だが仕方ない、ここは折れるとしよう。
俺は即座にブツを持ち主から受け取ると、有浦さんを追い越して一足先にホテルへと駆け込んだ。後ろから聞き慣れた声が聞こえるが、知らぬ。
もう知らん、あのおっさんの事は。
「仲が良いんだね、良い親子だ」
有浦さんが嫌味の無い笑みを浮かべながら、そんな感想を伝えてきた。
ハッキリ言って、単純に恥ずかしい。
なので、俺は沈黙で応える事にした。
そしてそのまま目的地へ進む事となった俺は、弁解の機会を失った。
まぁ、不思議と後悔はしなかった。