風呂の中で思うこと
――時間にして、五分と言った所だろうか。
俺が手で顔を覆いながら先程のやり取りを脳に記憶させている間に、どうやら着替えは済んだらしい。
ガラガラと滑車が回る音と共に、シルクの寝間着を着た亰花さんが顔を出した。
「……こちらも下ろし立てのパジャマですわ」
そう言ってクルリと身体を回転してみせた亰花さんは、再びコチラに向いて服の感想を要求した。
「い、如何かしら?」
「……悪くない。風呂から上がったら、ずっとその格好で居て欲しい」
お世辞では無く、本心からの感想だ。
胸元に薔薇の刺繍が施されたホワイトピンクのパジャマは、子供っぽい性格なのに身体は立派な大人の亰花さんに良く似合うと思う。
このシルクの下に、あの白いランジェリーという組み合わせか。
……最高だな。
『おいおい、それはコッチの台詞だろ?』
という欲望の声を聞いてハッと我に返る。
いかんいかん、ここ数時間ほど理性と欲望がごちゃ混ぜになっている。
「……とりあえず、亰花さんに言いたいことがある」
「何ですの?」
「これからは、下着くらい自分で選んで履いてくれ」
「――――」
コチラの言葉に、亰花さんは一瞬にして頬を染めた。
その色は完熟トマトみたいに真っ赤だ。
「わ、わたくしだって、それぐらいの常識はわかっていますわ。ただ姉様が、同居する殿方とは裸の付き合いも必要だって言っていたんですもの」
「ほぉ。天保院では下着を選ばせるのが、裸の付き合いというのか」
「和沙姉様のオリジナル・アイディアですわ。特許申請中だとも言っていました」
「……何を考えているんだ、あの人は」
「もし襲われるようなら、責任を取って貰ってねと言ってましたわ」
「信用してるとか言ってたのに、まったく信用されてないパターンじゃないか」
まぁ得をした気分なので、和沙さんを深く攻めるつもりはないが。
それよりも、だ。
「いくら姉の言葉でも、アレは素直に従い過ぎた行為だろう。案外、和沙さんも冗談で言ったかも知れないんだぞ」
「それはあり得ませんわ。わたくしは冗談でも本気で真に受けるから、リアクションが怖くて適当なことが言えないと姉様が話してくれましたもの」
……残念ながら、それは胸を張って自慢することではない。
むしろ妹の扱いに困っている和沙さんの心の声が聞こえた気がしたくらいだ。
「それに姉様は毎日、わたくしの為に選んでくれましたわ。妹の為なら当然だと言っていましたもの」
「だが俺は和沙さんじゃない。それは、あれだけ恥ずかしがっていた本人が、いちばん判っていることじゃないか?」
「……へ、平気ですわ」
「え?」
「か、家族なら平気ですわ」
家族。
その単語に、俺は電撃を打ち込まれたような衝撃を受けた。
おかげで、モヤモヤと曇っていた頭の電球が、ピコーンと閃いてくれたらしい。
――そういう事か、と。
早い話、俺は男として認識されていなかった訳だ。
幸か不幸か、俺は亰花さんの中で家族というカテゴリーに入ってる。
そして家族という枠には性別はないのだろう。
理解できた瞬間、俺の中に自分でも良く分からない反発心が芽生えた。
「……悪いが、俺は亰花さんの家族じゃない」
「で、でも同棲するって、そういう事でしょう? わたくし、共に暮らすというのは家族になることが前提だと思いますわ」
「……少なくとも一日で家族になれるほど、お互いに知り合えていない。今の段階で家族だと言えるほど、俺は貴方を愛していない」
「……愛、ですの」
亰花さんは、ぽかーんとした顔で愛という単語を繰り返してきた。
だが俺は断言できる。
「愛だ」
「問題は愛情の差、ですの?」
「そうだ。俺が亰花さんの家族だというのなら、俺に愛していると言ってくれ」
『なに言ってんだ、こいつ』
とツッコミを入れる欲望の声が聞こえたが、聞こえないふりをした。
ここは重要な分岐点だ。
愛していると口に出せるか出せないかで、今後の共同生活の全てが決まると言っても過言ではない。
そして、その結果は。
「い、言えませんわ」
何か詰まったかのように、喉を手で押さえて亰花さんはコチラに訴えてくる。
その顔は明らかに、羞恥に染まったものだった。
「どうしてでしょう、おかしいですわ。姉様や父様達になら平気で言えるはずなのに、貴方には上手く伝えられる自信がありませんわ」
随分と混乱しているようだが、それで良い。
それが、正常な反応なのだ。
「言えないのは深層心理だと、まだ明確に俺を家族だと認めていないんだろう」
「……じゃ、じゃあわたくし、家族じゃない男性にあの姿を見せてしまいましたの?」
茹でたタコを連想させる動きで、亰花さんはヘナヘナと床に座り込んだ。
どうやら、自分がした行為が恥ずかしいものだとハッキリ自覚したらしい。
……というか、それだけ俺は信用されていたとも言えるのか。
そう考えると悪くない気分だが。
「さて。改めて聞くが、今の状態で明日も俺に下着を決めさせられるのか?」
「無理ですわ、無理無理無理、無理ですわ」
亰花さんは頭をブンブンと左右に振って拒絶する。
その可憐な声色から、空気をびりびりに破くような震えを感じた。
「自分でも変だと思いますが、貴方は家族じゃないと思った途端に、やっと落ち着いた心臓がドキドキして胸が苦しいんですの。また同じ事をしたら、破裂してしまいそう」
亰花さんの潤んだ瞳が、照明によって反射するように輝いて見える。
そしてその宝石のようなソレが、上目遣いでコチラに向いているのだ。
困っているのだ。
だが残念ながら、俺としても有効な対処方法が判らない。
なので視線を逸らして背も向けた。
「……風呂に入ってくる。落ち着いたら、また話そう」
まぁ問題の引き延ばしだという自覚はある。
しかし大目に見て欲しい。
なにしろ俺も、亰花さんが恥ずかしがっている姿に影響を受けている。
亰花さんが俺を異性だと自覚したように、今更ながら女の子と一緒に暮らすというシチュエーションが実感できた。
そうなると大人が居ない二人だけの生活が、途端に恥ずかしい物に思えてくる。
おかげで、身体が沸騰しそうなくらいに熱いのだ。風呂の湯加減など、きっと温く感じるに違いない。
それを確かめる為にも、今はゆっくりと湯船に浸かりたいのである。
――ガラガラと引き戸を開けて、閉める。
洗面所に入るまでの間、亰花さんの反応はなかった。
その事に安堵しながら服を脱いで、さっそく湯気に塗れたユニットバスを満喫する。
「ふぅ」
ほのかに香る薔薇の匂いに包まれながら、俺はリラックスした一息を吐いた。
……と、再び洗面所のドアが開く音がドア越しに聞こえる。
「あ、あの。ちょっとよろしいですか」
言うまでもなく亰花さんの声だ。
しかしまさか、覗きと言う事もあるまい。
「……どうかしたのか?」
「じつは貴方を意識しすぎたせいか、さん付けで呼べなくなってしまいましたわ」
思わず無言になってしまう。
しかしピチャン、と水滴の音が沈黙を引き裂いた。
「良いんじゃないか。今後の生活にも支障はない」
「そんな、だってさっきまで普通に言えていましたのに」
浴室の磨りガラスに映る影が、オロオロと右往左往している。
さん付けできなくなった本人にとっては、深刻な事態なのかも知れない。
しかし、それでも俺は動揺する気にはなれなかった。
「今まで不全だった精神的な防御機能が、ようやく発揮されたんだ。過剰反応している可能性も否定できないがな」
「……けど、このままでは貴方のことを呼び捨で名前を口にしなければ、いけませんわ」
「俺は構わないが?」
「わたくしは大ありですわ。だって同年代の方を呼び捨てなんて、異性でも同性でも経験ないんですのっ」
「安心しろ、この問題の対処は簡単だ」
「え?」
「お互いに気にするなと言う事だ、亰花」
「――――」
ハッキリ姿が見えずとも、息を呑んでいる雰囲気がここまで伝わってくる。
まぁ、驚くのは無理もない。
とうとう、俺も呼び捨てで言ってしまった訳だ。
これでコチラも、亰花を同年齢の異性として認めてしまった訳だ。
さん付けすることで、俺も仕事相手だと線引き出来ていたのに。
敗北した気分だ。
俺はビジネスとしてではなく、完全な私情だけで亰花と呼んでしまった。
失った物は大きい。
だが、その甲斐あって効果は抜群だったらしい。
「あ、あの、その」
「うん」
「……ありがとうございます。絶夜」
どういたしまして。
口には出さず、心の中でそう呟いた。
……やれやれ。まったく、風呂が熱い。
おかげでこの甘ったるい花の香りに、このまま酔ってしまいそうだ。




