七月一日(日曜日)
雲をかき氷に例えるならば、それはブルーハワイのシロップをかけたような空だ。
――いや、止めだ。没にしよう。
マンションの自室から見える景気を適当に表現しながら、俺はダイニングテーブルに座っていた。
……正確には机に設置したノートパソコンを扱いながら、椅子に寄りかかっている。
季節は初夏、日付は七月一日。
外の温度が三十度以下であるにも関わらず、冷房を効かせながら机上にあるパソコンをカタカタと操作できる贅沢。
そんな環境でも誰の文句も聞かずに済むのは、俺が一人暮らしだからだ。
しかも本日は日曜日。
リラックスしながら、自分の好きなことを淡々とこなせる、この瞬間。
その時間帯を俺はとても愛して止まない。
いっそ時よ止まれと望むくらいだ。
――だが現実は、少し俺に非情であるらしい。
無機質な電子音が室内に鳴り響く。
我が愛しい時間は、床下で充電していた携帯電話に阻まれたのだ。
落胆せざるを得ないが、習慣としてディスプレイに表示された相手は確認する。
……相手は、親父殿だった。
困った、家族の連絡は拒否できない。
プッシュボタンを押しながら、俺は携帯電話を耳に押し当てた。
「もしもし、なにか用かね親父殿」
我ながら重苦しい言葉に、硬い雰囲気を持った声だ。
だがそれを聞いた親父殿は、中年特有の奥深い低音で苦笑していた。
「……まだ、その堅苦しい言い方は直らないのかい、絶夜」
「まぁ、『絶夜』という名をつけた親に対しての、精一杯の反抗と思ってくれ親父殿」
正直な話、俺は自分の名前を余り気に入ってはいない。
――だって、絶夜だ。
時代に合わせた言葉を使うなら、キラキラネームとされるレアな呼び名である。しかも難儀なことに、俺の苗字は馬波という。
うまなみ、ぜつや。
名字と合わせる事によって、俺の名前は幼少の頃からエロスをイメージさせてしまうと近所の噂の的だった。
親からすれば満足のいく名前なのかも知れんが、当の本人からすれば辛いだけだ。少なくとも、思春期の十七歳である俺にとってこの名前は、コンプレックスの対象なのだ。
「格好良いじゃないか、先行きの見えない夜を絶つと書いて絶夜という意味なんだぞ?」
「いっそ、絶倫の方がまだマシだった」
「え?」
「いや何でも無い」
「……でも何か聞こえたような」
「いっそ親父殿がそう名乗れば良いと、言っただけだ」
もちろん言ってない。けれど親父殿は納得してくれたらしい。
「そんな酷い事を言わないでくれよ、絶夜。僕には父から貰った正道という立派な名前があるんだ」
「我が親ながら良い名前だな、親父殿。どうせなら、俺も爺さんに名前をつけて欲しかったよ」
「いや。お祖父さんにも好評だったんだぞ、お前の名前」
そうだった。
いつも西洋風な名前じゃの、と羨ましそうに言っていた。
そんな爺さんの名前は龍善だった。
「まぁ唯一、母さんには不評だったのは認めよう。絶えず夜が来るみたいで嫌だ、と何度も愚痴られたからね」
「……もう良い、こんな会話は不毛だ。用件だけ言ってくれ」
「絶夜という名前の議論は既に百を超えるほど語り尽くしたもんなぁ」
「悪いが、俺は用件だけを聞きたいのだ。親父殿」
少し気疲れをまとった声色を出しながら、俺は溜息を吐く。
そんな息子の雰囲気を察したのか、親父殿は笑いながらも認めてくれた。
「じゃあ単刀直入に言おう。実は我が社で、とあるパーティーがあってね」
「ほぉ」
「新たな物流センターが完成した事と、創業の節目を記念した祝賀パーティーなんだ」
「――俺は参加しないぞ。以上」
親父殿の言葉を途中で遮り、後に出てくるであろう要望に先回りして応える。
そしてそれは正解だったようで、親父殿は気まずそうな様子を電話越しに伝えてきた。
「……待って欲しい。名刺も既に作ってしまったんだ」
「勘弁してくれ親父殿。名刺の名前を見た時に相手がどう思うか、想像もしたくない」
「名は体を表す、立派な息子だと思ってくれるんじゃないかな」
その言葉に、他意など無いだろう。
真剣に子供を大切に想っている、その事に俺は一片の疑いも持ってなどいない。
今でこそ誉れある一家の大黒柱たる親父殿だが、かつては苦労の絶えない日々だったという。
朝から晩まで身体を酷使し、自宅に帰るのはいつも深夜を過ぎていたとは母さんから聞いている。そんな苦難を『夜』に例え、それを絶つ事で未来と希望を授けたいという意味を込めた命名だとも。
だが、どんな素敵なエピソードがあっても嫌な物は嫌なのだ。
どうせなら、笑いが取れる方向だったら良かった。
たとえば絶頂とか徹夜とか。
――馬波、絶頂。やっぱり駄目だコレ。
しかし絶夜だと、中途半端に格好良いと言われて逆にショックを受けた頃がある。
かつて好きだった子に言われたから、ちょっとしたトラウマだ。
「……息子として、愛すべき親父殿の頼みは聞きたい所ではあるが」
大方、上司や得意先に一人息子を披露したいのであろうが、そうはいかない。
俺としては大衆の前で、いらぬ恥は遠慮したい所なのだ。
しかしそんな決意は、親父殿が放った一言で全て吹っ飛んでしまった。
「……待って。確かに表向きは僕の息子としての招待だけど、実際はネット通販評論家としてのお前の参加を要請しているんだよ」
「レビュリストとしての俺? いったい、それはどんな陰謀だ。親父殿」
俺は声を潜めて呟く。
……ネット通販専門の評論家、通称レビュリスト。
それは商品を実際に使用し、その感想をネットに公開する人々を指す言葉である。
かつてネット通販のレビューの地位は、自分が購入した商品の感想文でしかない、趣味の範疇だとされていた。
しかし今や有名なレビュリストの高評価を得た商品は、それだけで未購入者の立派な購入動機となり、物流業界に巨大な利益をもたらす産業コンテンツへと変貌している。
――そして手前味噌になってしまうが、俺はレビュリストの中でも上位ランカーと呼ばれており、ネット通販業界での影響力も強い。
その俺が親父殿の家族として祝賀パーティーに参加するのではなく、レビュリストとして招かれるというのは穏やかな話ではない。
「さすがに陰謀という言い方は酷いな、絶夜。潔癖症にも程があるというものだ」
「親父殿の会社はネット通販会社。いわば俺の雇い先であり、お得意様だ。なのに立場が上である側が、下っ端を招待するなんて怪しすぎて警戒もしたくなるさ」
そう、親父殿が働く会社はネット通販事業を担っている。
その名はテイクサイバーモール、略してTCMだ。
元々はワクワク運搬という地域密着の運搬業者だったが、十数年前に代替わりした社長が周囲の反対を押し切り、EC事業へと転換して社名も変更した企業だ。
だがソレが大成功。今も物流センターの増築や取引先の拡大で、業績をタケノコのように伸ばしている優良企業と成ったのである。
そんな会社が売り上げを左右するとはいえ、一介のレビュリストを気まぐれで祝賀パーティーに招待するなど有り得ない。
十中八九、ろくな話ではないだろう。
「だいたいレビュリストは、一般市民の立場だからこそ価値があるんだぞ。企業と接点を持ち過ぎたら、広報と何ら変わりないじゃないか」
「それは僕の息子という時点で、TCMのレビュリストとしてはグレーというツッコミをしておきたいな」
「グレーだからこそ、私情と仕事は分けておきたいんだが」
「それはそれ。これはこれ。会社というのは、臨機応変という言葉が大好きだからね」
……どうやら、親父殿は引きそうにもない様子だ。
ここまで粘るということは、よほど大事な事情があるのだろう。
「だが俺のレビュリストとしてのプロフィールは非公開の筈だ。それが何故、パーティーに招待されるんだ。まさか、親父殿が売り込んだ訳でもないだろう?」
「実は今回の件、天保院の身内から直接きた依頼なんだよ」
「経営者たる天保院家が?」
「そうだ。しかもTCMで役職についている方だからね、断りにくい」
電話越しから聞こえてくる親父殿の声は、心なしか重く感じる。
いわゆるプレッシャーというやつだ。
だがそれも『天保院』の名が出た以上、致し方ないのかもしれない。
社内で逆らう者は皆無と言われる、ワンマン経営の天保院。
ネットではTCMのTは、テイクではなく天保院の頭文字だと揶揄されるほどの権力を持っているのだ。
「親父殿、これは『強制イベント』とやらなのか?」
「うん。お前が断ると、今後の生活に関わるかも知れない」
――なんだそれは。
親子のプライベートな話ではなく、完全なビジネスの領域ではないか。
「……つまりこれは、完全な仕事と割り切るしかないのか」
「単純に言えばね。父親としては、親孝行のつもりで頷いて欲しいんだけど」
「そうか。仕事なら、仕方ないか」
「…………」
プライベートならともかく、ビジネスならば私情は挟まない。
若輩ものが気取っているだけだと自覚はあるが、レビュリストとしての仕事は、文字通り俺にとっての生命線だ。
レビュリストとしての稼ぎで、俺は一人暮らしの費用を全て賄えている。
だがそれも、親父殿の雇い主たる会社があってのものだ。
「事情は分かった。しかし俺に何の用事があるんだ?」
「依頼者は社長のご息女だけど、実際に会ってから教えると言っていたよ」
「女性か」
「美人だ」
それはなんとも、ありがた迷惑な事だ。
俺はどうにも、美人や可愛い女子が苦手なのである。
「しかし何故、会ったこともない人が俺に?」
「以前からのファンなのだそうだ、まずは純粋に会って話をしたいと聞いたね」
「……は?」
実の親に向かって、ずいぶんと失礼な物言いであることは認めよう。
だがこれは不可抗力だ。親父殿の発言は、あまりにも青天の霹靂だった。
「わ、悪いけど、勘違いしないでよねッ」
「……しないから。早く言ってくれ、親父殿」
「先方は、あくまでもレビュリストとして、ビジネスライクだと言っていたぞ」
「それにしたって好意だけで会社主催のパーティーに呼びつけるなんて公私混同、職権乱用じゃないか」
「まぁ、一般的にはそう見えるだろうね。むしろ、そう仕向けているのかも知れない」
「……その言い方、まるで裏があるように聞こえるぞ。親父殿」
「あぁ。間違いなく、裏があるだろう。それがなにかは、僕にも判らん」
――やはり陰謀ではないか。
そう口にしたい衝動に駆られたが、なんとか耐えた。
「……親父殿、それは金に関わる話か?」
「きっと金銭など、比較にならんモノに違いない。そうでなければ、公の場にレビュリストを呼び付ける真似などしないさ」
「そう聞くと、一気に荷が重くなるな」
「なぁに、これも社会勉強と考えれば貴重な人生の糧になる。お前の一人暮らしが良い経験だと言ったようにね」
「……ずるい。その言い方は卑怯だぞ、親父殿」
――社会勉強。
それは親父殿の口癖であり、俺にとっても大変に好ましい言葉である。
何しろこの一人暮らしも、その社会勉強の一環なのだ。
親元を離れての生活は大変ではあるが、この苦労が人生にとても良い結果を与えていると俺は考えている。
「……これも俺にとって良い経験になるという事か、親父殿」
「当然さ。子の善き成長を願わぬ親など居るものか」
「……ふむ」
やれやれ、参った。
尊敬する親父殿にそこまで言われては、もはや断る事など在り得ないではないか。
「不本意だが全て了解だ、親父殿。祝賀会に参加し、その社長令嬢とも面会しようじゃないか」
「あぁ、ありがたい。これで僕も安心して報告できる」
……息子相手に、ありがたいとは大げさな。
しかし逆に言えば、すでに引き返せないほど段取りが整っているのだ。
親父殿のメンツの為にも、断るという選択肢は無かったのである。
「……それで一体いつ、そのパーティーとやらが開かれるんだ?」
「うん。明日の夜、七時だよ」
「ギリギリじゃないか。スーツの準備なんてしていないぞ?」
「むしろ制服で来なさい。さっきも言ったが、表向きは僕の息子として来て貰う手筈になっているからね」
「建前か。大人は大変だな、親父殿」
俺がそう言った瞬間、親父殿が苦笑するような音を漏らした。
「十代の息子に、そんな気遣いを受けるとは。僕は幸せ者だな」
「やめてくれ。聞いている俺の方が恥ずかしい」
だが電話越しでも目の小じわを増やしながら、微笑む親父殿が簡単に想像できる。
喜んでいるならば、これも親孝行の一環なのだろう。
「開催する会場への送迎は私が手配しておくから、下校したら自宅で待機してなさい」
「了解だ、親父殿」
「僕の用件はこれで終わりだが、何か聞きたいことはないかね?」
「では最後に一つ。俺に興味を持った、天保院の息女の名前を知りたい」
「そうだな。名前は和紗さんという、二十代の美しい女性だ」
――天保院 和紗。
すぐさま俺は目の前にあるパソコンを使って、ネット検索を行う。
……だがぱっと見、めぼしい情報など全く出てこない。
顔写真もない。親であるTCMの社長の名前が出るくらいが精々だ。
「……急に黙り込んでどうかしたのかい、絶夜」
「事前に、どんな相手なのか知りたかった」
「心配せずとも、社長の娘だからと言って気取る事も無い立派な方だ。女性としても魅力的だし、会うのを楽しみにしてなさい」
「……そうか。では期待しよう、また明日だ。親父殿」
「うん、じゃあ明日はよろしく頼むね」
「あぁ」
そう言って俺は、携帯の電源ボタンを押した。
……さて。
親父殿との会話は一段落した訳だが、明日の事を考えると少し憂鬱だ。
せめて天保院の息女が、本当に『美人でなければ』救いはあるのだが。