風ノ民 ~遊牧の民~
~遊牧民・Teskatli~
「風ノ民」のうちの一部族。
カウーという家畜を飼い、鳥を使う。
物資の運搬などの商売で生計をたてる。
極彩色の服を身につけ、身体のどこかに刺青がある。
月光ほそき真夜の中
夢は現にあらざらん
翡翠の玉をその身に宿し
ほのかなれども香しく
長々とした黒髪を揺らして
彩り華やかな薄布は名
美しき刺繍の帯は心
愛しき鳥を呼ぶ笛の音を
風の中に遠く聴け
流れ 流離い 漂う女
巡り 巡り 根付かぬ女
何か硬くて冷たいものが頬に押し付けられ、ついでチクチクと太い針の先で突付かれるような感触がして、キセは目を覚ました。
ぼんやりと開いた目の先で、どうやって幌の中に入ってきたのか、クルムカーラが首を伸び縮みさせている。ときおり嘴を開閉しているところを見ると、どうやらエサを要求しにきたようだ。
野で育ってないとはいえ、隼は一応猛禽類のうちの一種なのだからその辺りにいる小動物でも好きに狩ってくればいいのだが、どういうわけかクルムカーラは干し肉がお気に入りなのだった。
キセは起き上がって大欠伸をし、両腕を持ち上げてうんと背中を伸ばしてから、脇に置いていた葦籠の中の干し肉を一切れ取り出す。適当に裂いて、クルムカーラへとその欠片を投げると、彼女はそれを落とすことなく器用にキャッチして食べた。
元からそう明るくはなかった幌の中も随分と暗くなってきている。
そろそろ今日の夜営地に落ち着く頃だろう。
「……ヘキ、そろそろ起きて」
干し肉を最後まで投げきってから、キセは傍らで丸まっていた七つ下の妹の肩を揺らした。
ヘキは小さく唸ったが、ぐずるようにして顔を毛布にうずめてしまう。キセはそっと溜め息をついて、幌の隙間から漏れる光に目を向けた。厚い革布の向こう側には、大地で踏みしめられる砂の擦れる音と人々のざわめきが満ちて、ときどき、カウーの重低音の鳴き声がゴトゴトと揺れる車輪の音に混ざって響く。
どうにも昨日から体調の悪かった妹が、遂に今朝熱を出した。たまたま運悪く移動の日程と被ってしまったので荷車に寝かせたのだが、一人じゃ嫌だとダダを捏ねるものだから、一番歳の近いキセが世話役として同乗させられてしまった。普通、こういう時は母親が付き添うものなのではないかと思うが、母親のエルは、なんというか、程よく冷め切っている人で、ヘキもキセによく懐いているものだから、家族一同の中で「ヘキに何かあればキセを」という法則が成り立ってしまったのだ。
「キセ、そろそろ着くぞ」
ズボッと音を立てて、唐突に空色の『サイ』を巻いたスカンの頭が幌の中に現れた。荷台の端に肘をつき、上半身だけが顕わになっている。彼の髪は砂色で、瞳は緑味を帯びながらもどことなく青色に近い。けれども肌は古くからの民らしく褐色で、その容姿は少しだけ珍しい。
いたる所の国からの移民が多くいる民の中で、目立つ程に特殊な訳ではないのだが、混血の子供自体が少ない世の中で、両親の特徴を平等に受け継いでいる、というのが稀なのだった。
スカンの母は人間とヴォールの特徴を併せ持ったような民族の出で、キセたちの二倍程度は生きるらしい。未だに二十代の後半かと思わせるような見た目をしているが、そんな母親と違い、スカンの二人の姉たちは歳なりの成長をしている。
スカンとて、共に育ってきた十五年間はキセと同じような成長をしていて、果たしてこの先、彼の老化は緩やかになるのか、それともキセとそう変わらない長さで人生を終えるのかは分からない。キセはそれ程自分と彼との間に差を感じる事はないが、その少し不思議な色味を持つ瞳は、時折何かの気配を感じ取っているように動くことがあった。
「ヘキは大丈夫か?」
「さっき起こしたんだけど。ぐずって寝てる」
「そうか―ーあんまり悪いようなら母さんに診てくれるよう言っとくけど」
単調に返したキセに頷いて、スカンはズルズルと幌の外に残していた身体も引き上げた。
荷台の中を動き回っていたクルムカーラが、しばし警戒の色を見せ、侵入者がスカンだと理解した瞬間にまた好き勝手な行動に戻る。
「ありがと。――けどそこまで大したことじゃないと思う。調子が悪いって分かってただろうに、遅くまでロトに引っ付いて遊んでるからだよ」
淡白な調子の中に若干呆れたような響きを滲ませて、キセは傍らの妹を見やった。それでも毛布を掛けなおす手付きや顔にかかった髪を払ってやる仕種が優しいものだから、スカンはちょっとだけ苦笑を漏らした。
「ま、チビどもからすればロトはいい遊び相手だしな。面白い話をいっぱい知ってるし、珍しい見た目をしていることだし」
リーだって未だにへばりついてるじゃないか、と言うスカンに、キセはどことなく眠そうに見える視線を向けてゆっくりと一度瞬きをし、軽い嘆息と同時に苦笑した。
「確かにね」
大陸中を巡っていても、あそこまで珍しい容姿の者にはなかなか遭遇しない。生まれてこのかた風の民として生きているキセも、出会ったのは初めてだった。寧ろもっと長く生きている大人たちですら初めてだったようだった。そんな客人が居ることもだが、加えて自分たちの相手をしてくれるのだから、小さな子供たちがはしゃぐのも仕方がないことなのかもしれない。
◆◇◆
「あれ。ヘキってばまだ寝込んでんの? なんだかいっつも無駄に元気なだけに、三人くらい一気にいなくなったような感じがするわね」
明日もまた早朝から移動の予定だったので、野営の為の簡易的な天幕だけを張って、すぐに夕食の時間になった。大鍋で炊かれたカウーのミルクの甘い臭いが漂う中、いつも通り、中央のかがり火から少し離れた場所に座っていたキセとスカンの元に現れたリーが、キセの隣に彼の小さな妹の姿が見当たらない様子を見て、ちょっと意外そうに言った。
額の中心で左右に振り分けた前髪と頬横の髪が長いせいで、正面から見るとそれなりに女の子らしい髪型なのだが、後ろはスカンと変わらないくらい短く散切りにされていて、少々吊り上がり気味で琥珀色の瞳がどことなく猫を思わせる。
母親の習慣に従って食前の黙祷をしていたスカンの脇に腰を下ろしながら、恐らくはヘキの為に持って来てくれたのだろう果物を三人の中央に押しやり、さっそく自分のトゥラカリ(薄型の円形のパン)に齧り付いて、「早く良くなるといいわね」と咀嚼の合間に頷いた。
「……お前こっちで食っていいの? ロトの話聞けるとこじゃなくて」
他人より長い「いただきます」を済ませ、膝に乗せたシチカ(乳のスープに蒸し野菜を入れたもの)の中に千切ったトゥラカリも放り込みながらスカンが訊ねると、リーは再び齧り付こうとしていたトゥラカリを持った手を下ろし、少し眉を寄せ、唇を横に引っ張った顔で唸った。
「うーん……晩御飯の時は何でか会話が色恋沙汰になるのよねぇ……お酒が入るからかしら。あたし別にそういうの興味ないし」
族長の家に生まれ、美人も気立てもいいと評判の姉をもっていながら、リーはそのあたりのことにとんと興味がない。生まれた頃から一緒に遊んでいる幼馴染が二人とも男だったのが良くないのか、はたまた少し年上の姉が美人すぎるのが良くなかったのか、彼女は随分と男っぽく育った。あまり他人目を気にする性質ではなく、キセより無鉄砲で、スカンより喧嘩っ早い。新しいものや珍しいものに食い付き、変なものに目を輝かせる傾向がある。
最近は珍しい容姿を持つ客人を興味津々に追い回しては、嬉々としてその話に耳を傾けていたが、恋愛絡みの会話に参加して、夜毎まわりにからかわれるのは流石に嫌だったらしい。
「ふーん」
聞いた割には適当に流して、スカンはシチカをがっつき始める。特に会話に参加するでもなく、スカンの祈りが終わるの待ってからあと黙々とシチカの中の野菜を口に運んでいたキセが、その時ふと顔を上げた。
宵闇の中で人影が動き、
「――こんばんは。ご一緒しても構わないかな?」
深みのある穏やかな声が掛けられる。その声にスカンとリーが振り返ると、件の客人がシチカの皿を片手に佇んでいた。
一般的で簡素な旅装に、土埃に色あせた、けれども大陸南端の国を思わせる色鮮やかな刺繍が施されたマントを纏った青年。物静かな印象を与える彼は、しかし、図らずも周囲から浮いてしまうだろう特徴をその身に宿していた。軽く首を傾げた拍子に、古木を思わせるような濃い茶の目許を、サラリと少し長い前髪がかすめる。その髪は、――苔のような、緑色だった。
◆◇◆
「――どうしよう。人が死んでる」
「は?」
どうしよう、と言った割にはあまり焦りも感情も滲んでない声がボソッと呟いたのを聞きつけて、スカンは背後を振り返った。
白い雲を泳がせながらも、澄み渡った青空の中で、太陽はいま一日のうち最も高い位置にあり、なけなしの緑しかない荒野をいつも以上に非情な土地に見せている。その枯れた大地のとある岩場の上に立ち、スカンの物静かな親友は一段下の大地へと静かな視線を注いでいた。
一見黒に見えるほどに濃い茶色の、油気のない髪が吹き抜ける風にさらさらと流され、『帯』と共に腰に巻かれた色鮮やかな『サイ』が膨らんではためく。この親友、キセは目のいいと言われる自分たち、風ノ民の中でも恐ろしく視力が冴えているが、今はその能力はあまり関係なかったようだ。キセの見つめる先に視線を投じたスカンにも、その死体ははっきりと見えた。
「……ま、荒野を甘くみたツケってな」
倒れたその人影の傍に、荷物と呼べるようなものはおよそ見つからないけれど、マントのフードまで乱されることなくしっかりと被っている。荒野の、昼の暑さを甘くみたのか、夜の寒さを甘くみたのか。ひょっとすると、小さな泉すらそうそうないということ知らなかったのかもしれない。
肩をすくめて呟いたスカンに、キセは曖昧に頷いて、少し目を凝らすような仕種をみせた。
「ん? どうした?」
「いや……」
不思議そうにキセを見るスカンに対して、死体から目を離さないままキセは呟き、それからふと、上空を旋回していた隼の方に目を上げる。そして唐突に叫んだ。
「クルムカーラ! ちょっとあの人突付いて!」
それから胸に下げていた小指ほどに小さい、ガラス玉の笛をピルリルと短く吹き鳴らす。
「え、いや、おい、キセ! それはまずくないか!?」
いくら相手が死んでいるとはいえ、いや寧ろ死んでいるからこそよくないんじゃないだろうか、と常識を発動させたスカンの静止も時既に遅く、隼は主人の命令通りに地に伏した死体に向かって急降下し、容赦なく鋭い嘴を繰り出し始める。
鳥を操るのは、風ノ民の古くからの風習だ。小さな笛を吹き鳴らして指示を与え、狩りや伝書に使ったりする。ずっと遥か昔には一人一人が一羽ずつ鳥を飼っていたというが、今ではもう一家に一羽いるかいないか、というくらいまでに減っていた。クルムカーラはキセが八歳の頃から世話をしている隼で、最初の頃ならいざ知らず、今ではほとんどキセの命令を違えない。猛禽類とは総じて気まぐれで、上下関係をはっきりと植えつけなければならないというが、キセとクルムカーラの関係には、友情という言葉が一番しっくりくるとスカンは常から思っていた。
「その行為は死者への冒涜になると思うんだが……! やめといた方がいいぞー……な? ――って聞いちゃいないんだろうなぁ……あーあ」
何とか止めた方が善かろうと説得を試みたスカンが、わりかし早く挫折してぼやいた通り、特にどこと定めるでもなく死体を適当に突付くクルムカーラをじっと観察するキセに彼の声は全く届いていない。数拍の間、スカンはキセの横顔に視線を送ったが、反応は期待できそうになかったので、短く嘆息して遠くの荒野に視線を流した。
こういう時、たいていこの親友は何かに気付いて何かを考えているのだ。たまたま同じ年に、たまたま同じ部族内で生まれ、長年連れ添って来たから、嫌というほど分かっている。放っておけばそのうち動き出すだろう。それは弱冠、諦めにも似た境地で、スカンはボケッと待った。
「……やっぱり」
「……何が?」
やがて、短く吹かれた笛に従い上空へと戻っていったクルムカーラを一瞬目で追って、スカンは小さく呟いたキセに訊ねる。と、スカンの方を振り返った翡翠の瞳が瞬いて、それが一度岩下の人影に向き、再びスカンの目へひたと合わさって、キセはやっと薄い抑揚のまま言葉を発した。
「あの人――生きてる。まだ。ぎりぎり」
「……」
束の間を要して、スカンはキセの言葉を飲み込んだ。
キセは死体が死体じゃないという。
だとすれば早く助けなければならないのではなかろうか。
「……って、え!?」
キセの調子に呑まれていたスカンは、ようやっと自分の思考が戻ってきたように感じつつ、
「お前、それは早く言えよな!」
慌てて岩場を下った。
基より感情が面に出る方ではないのは十二分に知っているが、そういう事に気付いた時くらい、少しは慌てた表情を見せて欲しいものだと思う。
「どうする? 連れて帰る?」
意識なく昏倒していたのは、まだ年若いと言えるほどに見える青年だった。とりあえず確認の為に脈だけを測って、膝をついたキセがスカンを見上げる。
スカンは一度キセと目を合わせ、青年を見、それから大気に視線を移した。
「ま、面倒だが……置き去りにしたら次の日には死んでそうだよなぁ」
「――うん」
こんなことならカウーを連れてくればよかったと思ったが、出掛ける前はただの散歩程度の感覚だったのだから仕方がない。
「バークあたりでも呼ぶか? でかいし。力持ちだし」
男としてはどちらかと言わずとも細身な部類に入ってしまう自分とキセで運ぶのはなぁ……、と思いつつキセを見ると、彼も頷いて、鳥笛を吹き鳴らした。甲高い独特な音色を聞いたクルムカーラが、上空からキセの腕に舞い降りる。キセは後ろ腰に下げた革の小袋から皮紙と木炭を取り出して、簡潔な手紙を認めると、それを隼の足に括り付けた。
鳥使いは、こうして大陸全土に散っている民や、商売相手に連絡をとる。キセはクルムカーラを使えるとはいえ、成人まであと一年あるので、今のところその技術を学びながらも、主に私信を送る程度にしかクルムカーラを使っていなかった。
キセが腕を払うと、彼女は空へと戻っていく。そして、その後吹き鳴らされた合図に忠実に、部族が仮住いを構えている方角へ飛び去った。
「これでバークとカウーの手配は済んだ」
エインヘンヤルの格闘大会に出たことがあるとかないとかという伝説を持つ強力を呼ぶのであれば、カウーまで連れてきてもらう意味はないんじゃないだろうか。
スカンは一瞬そう考えたが、まぁなんだったら自分もカウーに乗って帰ることにしようと思い、わざわざ突っ込むのは止めておいた。
外傷が無いかの確認とできる限りの応急処置くらいはした方がよかろうと今度はスカンが青年の傍らに膝をつく。医療手当てはあまり得意分野ではないんだけどなぁと心の中でぼやきつつもとりあえず頭のフードを外す。そして、ちょっと驚きに手を止めた。傍らで、キセが同じように驚いた気配を感じる。
自分も大概、珍しい見た目だと言われるけれど……。スカンは思った。
(こいつほどじゃないな……)
◆◇◆
「――あんたこそこんな隅っこで食べてていいのか? よくあの輪から抜け出せたな」
キセとリーの間、スカンと向かい合うようにして腰を下ろしたロトに向かってスカンが首を傾げると、ロトはほんのり苦笑を滲ませて、シチカの中のイモを半分に割った。
「夜毎、婿に来いと言われることが多くなってきたものだから……」
それが嫌だというよりは、それを受け入れられないと断る、という作業が嫌なのだろうと思わせる、困りきっているようで少しはにかんだ調子で言って、ほかほかと柔らかな湯気を立てているイモを咀嚼する。
「昨日は遂にサイを作ってやろうとまで言われてしまったから、今日はちょっと非難しておいた方がいいんじゃないかと思って」
口許に苦笑を残したまま、もう半分も丁寧に食べてしまいながらロトは長く伸びた前髪を手で払った。
もう随分と長いこと、旅をしているようだった。
何か目的があるのか、ただ放浪しているだけなのか、キセとスカンが荒野でこの男を拾ってからこれまで、明確に語ってくれたことはないが、目的無く彷徨っているだけならば、サイを与えられる事をこうも強くは拒まないだろう。
サイは名を顕す布だ。色や染め方、刺繍の模様に持ち主の名が持つ意味が刻まれている。
一族の中でサイを受け取った者が、ずっとその一族の中に居なければならないということはなく、キセの叔父のように、あっちこっちへふらふらした挙句、しばらくの期間どこぞの町に定住したり――と思ったら戻ってきたり、と奔放すぎる自由も咎められることはない。それはキセたちテスカトリの一族のみならず、風ノ民の全ての部族においていえることだ。
来るものは拒まず、去る者は追わない。――そこには種族も容姿も宗教も関与せず、だ。
サイを受け取ったからといって、彼の生活が束縛されることは基本的にない。ただ、サイを作るとなると旅人という愛称は使えないから、彼がもともと持つ名か、それがないのであれば、長が新たな名を与えることになる。ロトがサイを拒む理由の一端は、そこにもあるのかもしれないと、少しだけキセは思っていた。
「ま、うちの一族はあんたくらいの若い男が少ないからなぁ」
カウーのミルクを吸い込んだトゥラカリの熱さに顔を顰めつつ、しみじみとスカンガ頷く。
「リーを嫁に貰ってくれそうな人材も足りてないことだし」
貰ってやってくれってサマさんにさんざん言われただろう、と言うスカンに対して、返答に窮したロトを差し置き、「ふふん」と鼻で笑ったのはリーだ。
「残念だったわね。母さんの考えてる婿候補で一番なのはあんたよ、スカン」
自分の婿の候補の話をしているというのに、ご愁傷様とでも言いたげなリーのその口調に、スカンは驚きつつも呆れがそれを上回った表情で嘆息する。
「それをここで俺に直接言ってくる間は、お前と結婚してくれる男は現れないだろうな……」
しかしそれ以上の嫌味を吐くことはなく、今度はきょとんとした表情で首を傾げた。
「でもなんでキセじゃないんだ? 俺が言うのもなんだが俺よりよっぽどいい男だろ。頼れるし」
「……残念ながら、僕は多分候補外じゃないかと思うけど」
「ん? え、なんで?」
いつの間にかシチカの皿をきれいに空にしていたキセが、唐突にそう言って果物の皿に手を伸ばす。一言発したきり、いつも通りの鉄面皮でシャクシャクと咀嚼を繰り返すキセを振り返ってスカンが更に首を傾げると、リーが大仰に嘆息してみせ、野菜が刺さったままのフォークを突きつけた。
「うちのセレンがユウロと結婚するからよ。同じ家の出の男をわざわざ二人も婿に欲したりしないわ。あたしがキセを溺愛してるっていうんなら母さんも父さんも反対はしないでしょうけど」
「……あ、そう」
「そう」
まるで他人事のように語りきって、リーの視線はあっさりシチカに戻る。スカンは何だかなぁ……といった表情で一瞬夜空を見上げ、そこでふと動きを止めた。キセが気付いて、同じように空を見上げる。
「……あぁ、そうか」
そして小さく呟いた。
星が随分と動いていた。――いつの間にか、かなりの距離を歩いて来たのだ。
――それは、つまり。
「そろそろあんたは『分かれ道』だな、ロト」
スカンは静かに視線を下ろしてロトを見た。
彼の行きたがっていた国までは、移動順路の都合上、共に行くことが出来ない。
部族から離れ、別の場所へいく民がいる時、その人との別れのことを『分かれ道』という。
ロトは風ノ民の一員ではないが、少なくともキセとスカンが彼を荒野で拾ってから今までの間は、テスカトリの一族の一員であった。
「今日の昼シーボさんと確認したんだ。この調子で進むなら、明日の昼頃には分かれ道につくだろうって」
無意識の癖なのか、小首を傾げてそう言って、ロトは穏やかに微笑んだ。
「最後の晩御飯になりそうだから、命の恩人にしっかり挨拶しとかなきゃ……って思ってね」
「それで誰も引き止めなかったし、ちょっかいをかけにも来ない訳ね」
皆の興味の中心であるロトが居ながら、篝火から少し離れたこの輪がいつも通り平穏な理由に納得したようにリーが頷き、スカンはロトの言葉にほんの少しだけ目を瞠って、キセと顔を見合わせた。
「そんなの気にすることなかったのに」
「命の恩人って言うより、ただ発見してバークを呼び寄せただけだもんね」
謝礼を素直に受け取らず、どっちかというとその後ロトを運んでくれたバークと手当てをしてくれた大人たちが命の恩人なんじゃないかと言い出す二人に、ロトは小さく笑いを零した。
「いや、見つけてくれたのは君たちだから」
笑いまじりに言って、ロトは夜空を見上げる。三人も、つられるようにして星を見上げた。
「ここは居心地がよかったけれど、僕が探していたものはやっぱりなかったんだ」
静かに零れ落ちた呟きに、少しの間をおいて、「そうですか」とキセの淡白な合いの手が入る。「そりゃま、残念だったな」とスカンが次いで軽く返答し、「次では見つかるといいわね」とリーがあまり熱のこもらない励ましを言った。
ロトは空を見たまま微笑んで、暫しの間、目を閉じる。キセはその横顔をそっと伺い見たが、彼が何を思っているのかは分からなかった。
「君たちの別れの挨拶は好きなんだ」
唐突に明るい口調を取り戻して、ロトは居並ぶ三人の顔を順に見た。
「さようなら、って言わないだろう? 元気でね、とも言わない」
夜の空から顔を戻し、三人は何を言っているんだとでも言いたげに、そろって瞳をぱちくりと瞬かせる。
「だってまた会うだろ、いつか。――たぶん」
「それまでずっと元気でいろって、けっこう酷だよ」
「酷っていうか不可能よ。生きてるんだから」
当然だろうと言わんばかりに見つめられて、ロトはまた小さく笑った。
「そういう考え方は、嫌いじゃないんだ」
そうなのか? とスカンは首を捻り、そうなんですか、とキセが頷く。そんなものなのね、とリーが納得して、
「そうなんだ」
とロトは頷いた。
◆◇◆
空は青々と澄み切っていて、そういえばこういう日にはスカンの瞳がいつもより青みを増して見えるな、とキセは正面の男の髪を見て思った。
苔のように深い緑も、陽に照らされて鮮やかな葉を思わせる輝きを見せている。
『碧き髪の人々(リョ・ハ・トール)』。古の神話に登場する、世界を襲った災厄と闇に呑まれた二神を清めたのだという存在。その英雄たちと、最大の特徴が一致する男。
自身について、そう多くは語らなかった。容姿に加えて謎も多いものだから、少し神秘的で、浮世離れしているように感じて、けれども、世界に一番近いところにいるような気もした。
共に過ごした期間はそれほど長くもなく、『家族』というわけでもないが、友人であることに違いはない。
彼の分かれ道の先に、彼が望む幸運があればいいと願って、キセは翡翠の瞳を古木色のそれに戻した。
「じゃあ、また」
短く言って、軽く手をあげる。
「またな、ロト」
「道中気をつけなさいよ」
スカンとリーも続き、笑顔でひらりと手を振った三人は、早くも踵を返した。
風ノ民は別れを惜しまない。
それを薄情だと歌った詩もあるが、実際のところ、それはあまり真実に近くないようだ。彼らは再会を疑わない。信じているから、別れを惜しまない。
「ああ、また今度」
旅人は微笑み、仲の良い三人の後姿に言葉を掛けて、自らも、行く先へと踵を返した。
吹き抜けた風は砂埃を舞い上げ、そのままどこぞへ流れゆく。
蒼い空のはるかな高みで、クルムカーラが笛の音に似た高い鳴き声を響かせた。