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九,幽霊部屋

 帰宅した夫と佐緒里はひどく言い争った。ほとんど一方的に佐緒里がののしったが。それまで一度も使ったことのない汚い言葉で夫をののしり倒した。夫は、戸惑った。

「おい、やめろよ、里香が怖がるだろう? いったいどうしたって言うんだ?」

 妻の豹変ぶりが、まったく理解できない。

「四元奈緒とどういう関係よ!?」

「え? 誰だって?」

「白々しい! 上の、六〇五号室のあなたの愛人よ! ここに引っ越す前から下見に来ていて、あの女ともそういう関係になっていたんでしょう!?」

「なんでそうなるんだよ? ああ、上の人なら…、挨拶したけど……。夜勤に出ている、看護士さんだろ?」

「はああ? なに白々しくしらばっくれてんのよ? 看護士? はああ? バッカじゃないの? ホステスよ!キャバクラの!」

「ああ…、そうなのか?……」

「ああそうなのか? はんっ、白々しい。夕べもお店で会ってたんでしょう? キャバクラで、どんなサービスされてんのよ? キャバクラで靴下脱いでしてもらうサービスって何よ? ええ? お店じゃなくって、二人で抜け出してホテルで仲良くしてたんじゃないの? ええ?」

「靴下脱いで、って、なんのことだよ?」

「あなたの靴下があったのよ!あの女の部屋の洗濯機の中に、あの女の下着といっしょに! いやらしいっ!!」

「靴下って……」

 夫はカバンを開け、中から一組の黒いソックスを取りだした。困った顔でじっと様子を窺う夫に、佐緒里はわめき散らしていた興奮をそがれ、ポカンと口を開けて夫の手のソックスを見つめた。

「どこに……」

「料理屋の座敷席に上がって、その時脱いで、なくしちゃ悪いと思ってカバンに入れておいたんだ。もうだいぶ酒が入って、俺も失念していた。ずっと立ち仕事で臭ってたから足を拭かせてもらった……みたいだ。よく覚えてないけど」

 夫はじいっと妻の表情を窺った。

「カバンに……ずっと入っていた……」

「そうだよ」

 誤解が解けたかと少しほっとした夫は、異臭に顔をしかめた。

「なんだこのにおい? 臭いぞ?」

「……かび……。ひどかったから、昼間管理人さんに除去剤できれいにしてもらったの…………」

「そうか。ま、古いからな。そうか、この臭いのせいだな、苛々しているのは」

 夫は妻の異変を化学薬品のせいにして、笑顔で丸く収めようとした。

 しかし妻はジロッと怖い目で夫を睨んだ。

「分かった。部屋に入る前にあの女から返してもらったのね?」

「は? おいおい、疑うのもたいがいにしてくれよ。上の人とは挨拶しただけだし…、おまえの友だちなんだろう? 俺はキャバクラみたいな所で遊んだりしないって」

「嘘。くそう、あの泥棒猫、尻尾を掴んでやる」

「おいおい、佐緒里!」

「ここに靴下があるってことはあの女の部屋にはないってことよ。くそう、あなたとの仲をとっちめて、はかせてやるう」

 佐緒里は夫を突き飛ばして外へ出ていった。

「おい!佐緒里!」

 夫は追いかけようとしたが、一人取り残される娘を気に掛けてすぐには出られなかった。

 その間に佐緒里は廊下を走り、階段を駆け上がり、六〇五号室に来ると、チャイムを鳴らし、苛々と、ドン!ドン!と鉄のドアを叩いた。

「四元さん! この嫌らしい泥棒メス猫! 開けて嫌らしいメスの顔を見せなさい! 人の亭主寝取ったやらしい顔を見せろお! こらあっ、出てこおい!!」

 ドン!ドン!ドン!

「男物の黒靴下見せてみなさいよお! うちの亭主とラブホテルにしけ込んだ証拠の靴下、見せられるものなら見せてごらんなさいよおおっ!? ほらああっ、さっさと開けやがれ、すべたっっ!!!」

「おい佐緒里い! やめろよ?」

 走ってきた俊典がドンドン、ドアを連打する佐緒里の手を慌てて掴んだ。

「やめてくれよ? ほんとにいったいどうしちまったんだよお?」

「出てきやがれ、ちきしょおおおおっ!!!」

 暴れてドアを蹴る佐緒里を俊典は引き剥がして羽交い締めにした。

 隣の部屋のドアが開いた。気の弱そうな老人が怖そうに顔を覗かせて言った。

「あのおー……、四元さんなら三〇分ほど前に出かけましたが……」

「ほら」

 佐緒里は俊典を睨んだ。

「帰宅するあなたと待ち合わせて靴下を渡したのよ」

「まだ言うか」

 俊典は泣きそうになり、他の住人の手前もなく妻を自分に向き合わせるときつく抱きしめた。

「佐緒里。落ち着け。な?、落ち着いてくれ」

 そして腕をゆるめると、しっかり顔を向き合わせた。

「おい、俺を見ろ。な?しっかり見ろ」

 佐緒里はふてくされた顔で夫を睨んだ。

「俺はおまえを愛してる。浮気なんて絶対にしていない。本当だ。俺はおまえに、こんな嘘は絶対につかない。な?、分かるだろう? 愛してるんだ、おまえを。佐緒里。」

 佐緒里の表情が徐々に弛んで、不安と怯えが現れた。

「あなた……、わたし…、いったい………」

「大丈夫か? 落ち着いたか?」

 佐緒里は視線を下に向けすっかり弱気になった顔でうなずいた。

「よし。里香が待ってる、里香の所に帰ろう」

 佐緒里はコクンとうなずき、俊典は彼女の肩を抱き、ドアから覗いている老人に軽く挨拶して歩き出した。


 部屋に入るのは心配だったが娘を一人にしてちゅうちょも許されず、とにかく入った。

「待ってろ」

 玄関に妻を待たせ奥へ向かうとベランダのドアと窓を全開にした。娘里香は大人しくテレビを見ていた。夫婦で大声で怒鳴り合って、精神状態が心配だが、今は妻の方が危ない。玄関に戻り。

「外に食べに行こう。この薬の臭いは危険だ」

 佐緒里は力無く首を振った。

「外は……嫌……。人に……会いたくない…………」

「そうか?」

 俊典は不安に思ったが、

「ごめんなさい、あなた。どうかしてました。少し前からわたし、変なんです」

 と、佐緒里は落ち込んだ顔で素直に謝った。

「そうだったのか? いつ頃から?」

「うん………、二、三日前から……」

「そうか……。この臭いのせいじゃないんだな?」

 佐緒里はコクリとうなずいた。俊典は、それでは新しい環境か、除去したというかびのせいだったのかと考えた。

「そうか……。ここに居て、大丈夫か?」

「うん……。里香もいるし……、もう、大丈夫よ」

 佐緒里は顔を上げ、もう大丈夫、を頑張ってアピールした。俊典は眉を下げ、うん、とうなずいてやった。

「それじゃあ……、何かデリバリーするか? 確か宅配ピザの広告が入っていたよな?」

「ええ、そうね。里香も好きだし」

「そうだな」

 夫婦で微笑み合った。

「おおーい、里香。ピザ注文するぞー」

「わーい!やったー!」

 テレビを見ている里香が素直に歓声を上げた。



 ピザが届き三人で食べた。窓をずうっと開けっ放しでようやく臭いも気にならなくなってきた。

 食べている間に風呂が沸き上がった。

 お先にどうぞと言うので俊典が先に入らせてもらうことにした。正直体が汗でべたべただった。

「里香の体だけ先に洗ってくれる?」

「ああ、いいよ」

 気軽に引き受け

「よし、里香、さっさとさっぱりしちゃおうな」

 といっしょに洗面所に入った。里香も昨日お風呂を我慢して汗をかゆがっていた。二人で服を脱いで風呂場に入り、俊典は自分も早く上がるようにしようと思った。

 里香に包帯を巻いた手が濡れないように上げさせて、シャワーで流して大急ぎで体を洗ってやった。頭も洗ってやり、

「里香も顔が濡れるのが平気になって、大人になったなあ」

 と褒めてやると喜んだ。

 ガラガラ・・と戸が開いて、佐緒里が洗面所に入ってきた。里香の体をタオルで簡単に拭いてやり、

「ほい、出来上がりー」

 ドアを開き、バスタオルを構えて待っていたママへ送り出した。

「アイス!」

「はいはい、ちゃんとパジャマ着てからね」

 ピザのおまけでアイスが付いてきて、お風呂を上がってからと約束してある。ガラガラ、と戸が開き、二人仲良く出ていった。

 湯船でさっと温まり、体を洗った。洗いながら、佐緒里と里香を東京に帰そうかと考えた。土日はほぼ確実に仕事は休みなので、こっちに単身赴任で週末に帰ればいい。新幹線で二時間、高速でも四、五時間の近さだ、平日五日くらい別れていても大したことはないだろう。

 頭を洗っていると、ガラガラガラ・と戸が開いて、佐緒里が入ってきたようだ。なんだろうなと思っていると、風呂のドアが開いて、白い脚が入ってきた。俊典は頭を洗っている手を止め、見上げた。裸の妻が微笑んでいた。

「おいおい、里香は?」

「アイスとテレビに夢中。一人でお風呂に入るのは怖いの。いっしょに、いいでしょ?」

「しょうがねえなあ」

 狭い風呂場に大人二人で、面倒くさそうにぼやきながら、いっしょに風呂に入るなんてどれくらいぶりだろうとにやけた。

 佐緒里は俊典の肩に左手を置いて、右手を伸ばして桶で湯をすくい、体を流した。俊典の体にも半分掛かる。コトン、と桶を置くと、佐緒里は妖しく微笑んで夫の背中に覆い被さってきた。

「おいおい、よせよお、まだシャンプー流してねえぞ?」

 俊典はフックに掛けたシャワーを出し、頭を流した。背中に負ぶさる妻の髪もシャワーに濡れて俊典の首筋にまとわりついてきた。俊典は妻の女らしいなまめかしさに体が熱くなった。







 しばらくして。

 俊典は悲鳴を上げて風呂場から飛び出し、洗面所からも飛び出してくるとガラガラピシャン!と引き戸を閉めた。風呂場からそのまま飛び出してきたので体は濡れたままで、床はたちまちびちゃびちゃになっていった。

 振り返った俊典は、

「うわあっ」

 と、またびっくりした悲鳴を上げた。佐緒里がすぐ後ろのキッチンに流しを向いて立っていた。

「さささ、佐緒里、やややや、やっぱり、ぶぶぶ、無事だったか」

「なあにあなた? 無事って、なんのこと?」

 俊典は戸を両手で押さえて泡を食いまくりながら言った。

「いいい、今、おおおお、お、女が来て、そ、それから…、うわあっ!」

 振り向いた妻にまた悲鳴を上げた。佐緒里は手に包丁を握っていた。それは何か明日の弁当の下ごしらえをしていたのかも知れない。が、目が再び据わっていた。

「さ、佐緒里?」

「女が、そこにいるのね?」

 佐緒里は手に包丁を握ったまま洗面所に入ろうとした。

「どいてあなた。でないとあなたも…」

「よ、よせ! お、お、お、女がいるが、女だけじゃないんだ、後から男が入ってきて、包丁で女を……」

 風呂場からバシャン!バシャバシャバシャッ、と尋常でない激しい水音が上がった。俊典は顔面蒼白になり、佐緒里は冷たい顔でじっと磨りガラスの奥を見ている。

 水音が止まった。と、ガラッと風呂場の折りたたみ式ドアが開いた。

「ひいっ」

 俊典は思わず悲鳴を上げて引き戸を離れ、握った包丁を恐れつつ妻の肩を掴んで下がらせた。

 ビチャッ、ビチャッ、と水を滴らせて何者かが風呂場から上がってきた。ビチャッ、ビチャッ、影が近づいてきて、肉付きのよい男のようで、白いシャツの胸の辺りが真っ赤だった。顔が分かるほど近づいてくると、その手には佐緒里のように包丁を握っていた。

「ひ、ひ、ひいい〜〜」

 俊典は戸を押さえるべきか逃げるべきか迷ったが、磨りガラスのすぐ向こうに男のギョロッとした目が浮かんで、逃げる方を選んだ。

「ねえ、ママあー、パパあー」

 娘が呼んだ。

「りっ、里香っ!」

 俊典は妻の腕を掴んであたふた居間に向かった。背後でガラガラガラと引き戸が開いた。

「ひっ、ひっ、ひいい〜〜。り、里香あ〜〜」

 ベランダに出て、お隣に逃げられるだろうか?

「パパあ、ママあ、テレビ、変なのやってる」

「り、里香、テレビなんかいいから、に、逃げるぞお!」

「ほら、見てえ、変なのお」

 俊典は振り返り、胸から顔に真っ赤な返り血を浴びた中年男が出てきたのを見て泣きそうになった。

「り、里香あ〜〜、逃げるんだあー」

「ほらあっ、見てえっ!」

「早く……」

 娘を椅子から下ろそうとして、頑固に指さすテレビを見た俊典は戦慄し、下半身から力が抜けた。

 テレビ画面いっぱいに気味悪い青白い顔の人間たちが映っていて、それはまるで俊典たちを見て、こちらに出てこようとしているようで、気づけば、

『うんおおおお〜、うんおおおお〜、うんおおおお〜』

 と読経の合唱が大声で流れ出ている。俊典はそれを直感的にこの世の物ではないと思った。

「ひ、ひ、ひいいーーん………」

 俊典は娘を捕まえたまま床にへたり込んだ。

 洗面所から出てきた包丁男は居間には入ってこないでまっすぐ廊下を歩いていった。するとその後から、今度は赤と白のワンピースの女がびしょ濡れになって滴を垂らしながら、ビタン、ビタン、と出てきて、ワンピースの上半身が真っ赤なのは、刺された胸から流れ出た血なのだった。

 ずぶ濡れで長い黒髪の女は、居間に入ってきた。俊典は妻と娘を抱き寄せてぼろぼろに泣いていた。

 反対の方から包丁男も入ってきた。俊典は二人を抱きしめひたすら小さくなった。

 包丁男と流血女はテーブルの向こう側を左右から歩いてきて、お互い同じ極同士の磁石が反発し合うようにスルッと避けて、反対へ離れていった。

 二人がそれぞれ出口から出ていって、俊典はひとまず脱した危機にむせび泣いたが、テレビ画面の白い光がもやのように広がり、白い着物を着た亡者たちがこっちの世界に溢れてきた。彼らは俊典たち家族を見ていた。手を伸ばし、

「んーまあだあー、んーまあだあー、」

 と、何千何万回と唱えてすっかり輪郭の崩れてしまった経文をうなりながら生者の肌に触れようと押し合いへし合いした。

「きゃあっ、パパあーっ」

「あ、あ、あなたあっ」

 二人にもそれは見えるようで悲鳴を上げて俊典にしがみついてきた。

「ひ、ひ、ひいい〜〜〜っ」

 俊典は二人をかばってもう訳も分からず床を這いずりながら廊下へ向かった。向かう先に亡者たちの白い、青黒い血液が流れていそうな足の林がひしめき、俊典はひいひい悲鳴を上げながらそれを押しのけ進んだ。手応えはなかった。やはりこの世の物ではないのだ。しかし触ると、ヒヤリとして、自分の肉体の内部を冷たく湿った空気が通り抜けるような感じがして、ひどく萎えた。

「に、逃げるんだ、ここから脱出するんだ」

 亡者たちの群から娘をかばって抱きかかえ、腰にすがりつく妻を励ました。亡者たちは手を伸ばして俊典の裸の背や肩を触ってくる。風邪をひいて高い熱が出たときのようにゾクゾクした寒気がした。

 廊下に這い出すと、すね毛の生えた生々しい足が立っていた。見上げた俊典は包丁を握ってこちらを見下ろしている男と顔を見合わせ、

「うわああっ、」

 と思わずのけぞった。娘を抱きしめ、妻がしがみついてくる。

「んーまあだー、んーまあだー、」

 読経の声が充満し、こちらを見下ろしていた男は興味を無くしたように前を向き、歩き出した。白い亡者たちがふらふら歩く中、血まみれ女が紛れて歩いていて、男とまるで相手を感知しないようにすれ違った。今度は女がじっと下を見て近づいてくる。

「ひ、ひ、ひ、ひい〜〜〜」

 俊典は再び這いずり、キッチンの手拭きのタオルを取ろうとしたが亡者がいて断念し、玄関の緑色の扉のノブに飛びついた。ガチャガチャ回し、開かないドアに焦り、ああ鍵を掛けていたとガチャリと回し、冷たい外気の流れ込んできたドアの外へ飛び出した。

 男が立っていた。

「うわあああっ」

 俊典は悲鳴を上げた。

「どうされました?菊池さん?」

 管理人の平山だった。

 俊典は亡者たちが向かってこようとするドアをバン!と閉めた。冷たいドアにすがりついてへたり込んだ。

「あ、あなた………」

「パパあ〜〜……」

 妻と娘が怯えた声を出して俊典にすがりついてきた。その必死の様子に

「え? ええ?」

 まだ何があると言うんだ?とすっかり泣きたい気分で通路の左右を見た俊典は、ビクッと身を震わせ、ゾッとした。

 管理人の平山は微笑みながら、その顔は非常に淡泊だった。

 左右の部屋部屋のドアが開き、各部屋の住人たちが顔を覗かせていたが、どれもこれも、非常に意地悪な顔で、薄ら寒い微笑みを浮かべ、俊典たち家族を眺めていた。

 俊典はドアに背を付け、ぺたんとお尻を付いて、すっかり意気地が砕けてしまった。

「なんなんだ……、なんなんだよお、このマンション……………」





 佐緒里が決死の思いで部屋に戻り、夫の衣服と財布を持ち出した。夫の問いに中の様子は「分からない」と答えた。

 一家は駐車場の車に乗り込み、マンションを離れると、その夜はそのまま車の中で過ごした。

 翌日、佐緒里と里香は取る物とりあえず東京の実家へ帰った。

 俊典は車中泊を続け、工場から帰宅後明るいうちは引っ越しの準備を進めている。



 おわり。

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