一,深夜の帰宅
※ご注意※
≪年齢制限をR15としましたが、一部、女性にとってたいへん嫌だろうと思われる描写がありますので、嫌だな、と思われる方は読まないでください。≫
菊池俊典は工場用の大型製造機械の会社に勤め、東京本社勤務であったのがこの地の工場に大型の注文が入り、製品の納入と共にメンテナンスとして同工場に出向することになった。こちらに常駐で、一応二年間の予定である。
俊典一人単身赴任でも良かったのだが、娘里香はまだ就学前で、妻佐緒里と共に親子三人こちらに引っ越すことにした。二年間の予定だが、生産性と品質の成績次第では同社のもう一つある工場にももう一セット導入してもよいという話で、そうなればこちらでの滞在は更に延び、俊典は専属の技術者としてこちらの会社に移動という話もある。この不景気で大手の正社員でもリストラの脅威に戦々恐々していなければならぬご時世、あまり出世は望めなくとも専門技術者として雇用が保障されるなら悪い話ではない。まあ何ごとも上手く行けばの話で、そうなればなったらで俊典一人の問題ではない。妻と娘がこちらの生活に満足してくれればの話でもある。
引っ越して一週間、月曜の夜である。
さっそく機械の不調で遅くまで残業になってしまった。コンピューター制御の繊細なセンサーが複数付いた精密機械でもあるので最初の内調子が悪いのも仕方ない。幸い昼間だけの稼働なので製産終了後一人で残って調整を行った。ここで頑張ってなんとしても機械と、自分の信用を勝ち取らなければならない。
帰宅は午前になってしまった。
こちらの新居は
「アケボノハイツ」
という、かなり年季の入ったマンションで、二年で本社に帰るにしろ本格的にこちらで人生を送るにしろ、ここは仮の住みかだ。東京でも同じような賃貸マンションで、里香が小学校に上がる頃にはちゃんとした将来住み続ける、出来たら、家に、住みたいと、今は出来るだけ倹約して貯金を増やしたい。同じような東京のマンションに比べて、うんと家賃は低い。まあそれだけ古いのだが。
大通りから一ブロック入り、左手に「我が家」が見上げられた。五階の五〇五号室だ。ハンドルの上に首をかしげて見上げると、ベランダに面した窓に青い光が見えた。他はあらかたまっ暗だ。あの色はテレビだろう。妻が起きて待ってくれているようだ。そういえばこちらでは深夜韓流だの台流だののドラマをやっていて、新聞のテレビ欄を見て東京で見逃したドラマをやっていると喜んでいたっけ。夫の帰宅を待つにかこつけて夜更かしして見ているのだろう。俊典は微笑んで、前を向き、建物を過ぎると駐車場に左折していった。
ステップを上がって中に入ると、各部屋の郵便受けが並び、階段があり、緑色の扉のエレベーターがある。遅くなって疲れている俊典だったが、階段を上がることにした。ここの古いエレベーターはどうも嫌いだった。深夜のエレベーターなどどこでも嫌なものだ。
汗をかきながら五階まで上がり、やっぱりエレベーターにすれば良かったかな子どもじゃあるまいしと苦笑いしつつ、五〇一から順に過ぎ、五〇五号室。都会人の用心深さで表札は入れていない。他はだいたい入れているようだが、ないところもある。部屋は全部埋まっているそうだ。やっぱり家賃が魅力なせいだろう。
鍵を差し込み、そうっと回す。うっかりすると鉄のドアで「ガンッ」とひどい音が響く。
ドアを開け
「ただいまー」
と小さく挨拶した俊典は、真っ暗な室内に『あれ?』と拍子抜けした。奥の居間で妻が起きてテレビを見ていると思ったら、真っ暗で、起きている気配はない。上がってくる間にドラマが終わって寝てしまったのだろうか? それなら寝入りばなで「おかえりなさい」と一言言ってくれそうなものだが。
「別の部屋だったか」
ちぇーっとがっかりし、ドアの脇のスイッチを押して電灯をつける。しらじらした蛍光灯に玄関とキッチンが浮かび上がる。
「ただいまー…」
小さく言って半分開いた寝室をそっと覗く。薄掛けを胸まで掛けて妻と娘が眠っている。くー……と寝息が聞こえて、やっぱりすっかり眠っていたようだ。
「ぐっすり眠っちゃって、起きないものかねー、不用心な」
間取りは玄関から伸びる中央の廊下を挟んで右に、キッチン、寝室、(小さな)書斎。左に、洗面所兼脱衣所と風呂場、トイレ、居間。となっている。
カバンと腕に抱えてきた背広を置きに居間に入ると、テレビにハードディスクに録画中の赤いランプがついていた。ワイシャツの襟をくつろげながら洗面所に入り、そーっと格子の入った曇りガラスの引き戸を閉めた。
裸になって風呂場に入り、さっとシャワーを浴びたいところだが、音がうるさいので断念して、湯船からお湯をくんで体を流し、入った。沸かし直しをせず絶妙な生ぬるさだが、汗をかいた体に蒸し暑い夜でちょうどいい。
はあ〜あ、と人心地つき、手にすくったお湯で顔を洗い、ぼんやりユニットバスのクリーム色の壁と天井を眺めた。狭いながらも楽しい我が家、大して面白い仕事でもないが、妻と娘と家族三人、十分幸せな人生だよなと思う。高望みさえしなければ、生きていくことなんて十分楽だ。
もう一度お湯で顔を撫で、『うん?』と嫌な感触に顔をしかめた。手に長い黒髪が数本まといつき、顔に引っかかって、指で拭って取った。気がついてみれば、
「なんだ、ずいぶん抜けてるな?」
長い女の髪の毛が湯船の表面に浮かび、中に漂っている。
「里香の相手で忙しくて気がつかなかったか?」
俊典は通常五時上がりで、娘里香を風呂に入れるのは俊典の受け持ちになっていた。娘を風呂に入れてやれるなんて幼い子どもの内だけだ。里香は悪戯好きで、なんだかんだと遊びたがってなかなか大人しく上がってくれない。妻の奮闘ぶりを想像して微笑んだが。
「それにしてもこんなに抜けて、やっぱり環境が変わってストレスかな?」
俊典は主婦たちの昼間の生活は分からないが、それこそドラマの中では団地妻たちの間でお互い家庭の内情を探り合うどろどろした関係があったり、ママ友たちの間でもそうだが、そういったことが実際にあったりするのだろうか? 先週日曜日に越してきて、一階の管理人と、同じ五階の各部屋に親子三人で挨拶回りしたが、その時の住人たちの様子は、フレンドリーで、みんないい人たちに見えた。同じ階ではないが、里香の通う同じ幼稚園の子が二人いるし、小学生、中学生の子もいる。小学生はともかく中学生でこのマンション暮らしはちょっと可哀相な気がするが。まあ、何ごとも最初の内は、だ。
「リラックスして、頑張ってくださいよ、奥様」
俊典は髪の毛をまとめてすくって、手を振って排水溝に捨てた。
「ふうーー……」
ぬるいお湯が火照りといっしょに疲れを抜いていってくれるようで気持ちいい。どうせこのまま流すお湯だから汚したってかまわないだろう。佐緒里、妻は、残り湯を洗濯に使うのを嫌う。もったいないなあと思うが、それは臭いがして嫌なのだそうだ。ならばと俊典はタオルを湯に入れてごしごし体をこすり、洗うのはこれですませてしまうことにした。頭も浴槽から上半身だけ出してシャンプーをごしごし泡立て、おけでざっと流した。
「さあて明日も早いんだ、上がって寝るか」
と思いつつ、心地よさにのんびりしてしまう。このまま寝ちまったら朝には風邪をひいてるかな、なんて考えながらふふふと笑い、心地よさに目を閉じ、いつの間にか本当にうとうとしてきてしまった。
湯についた口からぷくぷくと泡を吹き、ずるずると沈んでいき……
俊典は頭までずっぽり潜った水中で目を開け、とっさに飛び上がろうとし、かえって足を滑らせて湯船の底まで逆さまに沈んでしまった。目を丸くして見上げる水面に、黒い影が揺れた。浴槽の縁に手を掛けて起き上がろうとするのだが、まるで胸に重石が載ったように体が上がらず、手足を暴れさせてバシャバシャお湯を弾かせた。水面を見下ろす影が揺れ、俊典はぐるんと下向きになって、今度こそ足をしっかり着いて水しぶきを上げて立ち上がった。
「ウエッ、ゲホッ、ゲホッ、ゲホンッ!」
俊典が激しく咳き込んでいると、ガラガラと脱衣所の戸が開き、風呂のドアが開かれた。
「あなた、何やってんの?」
大騒ぎしている俊典をパジャマ姿の妻が呆れた顔で眺めた。
「あ、いや、」
鼻がツーンとしてまだ咳き込みながら、俊典はかっこわるく言い訳した。
「風呂から上がろうとしたら底がぬめって転んじゃった」
「あらまあ」
と呆れた妻は、
「そんなに汚れてた?」
と、ちょっと嫌な顔をした。
「ああ、いや……」
と言いながら俊典は、そういえば妙に手のひらがぬめって、体がべとべとするなと思った。
「ああ、入ったまま体を洗っちゃったから……」
妻は呆れて。
「まあ…、いいけど。ご近所迷惑ですからね?お静かに」
「はあ〜〜い」
俊典はぼやきながら、ちらっと排水溝に黒々溜まった妻の髪の毛を見た。妻は、
「遅くまでご苦労様です、あなた」
と、ニッコリ笑った。
「お、おお」
俊典も、妻に裸を晒して照れ笑いを浮かべ、
『まあ、いいか』
と思った。
佐緒里はチラッと夫の下半身を見て、
「おやすみなさあーい」
と、引っ込んでいった。
上がり方、俊典は妻の髪の毛をつまんで、くずかごに捨てておいた。
お湯の中から見た上から覗き込む影は、暴れて立った波の陰だったのだろうと思う。