第九話
豪石武子は甲板の上に向かう階段を駆け上がって、三人の中では一番速く甲板の上に出た。
武子が後を振り向くと残る二人、太平屋洋と泉後が続いているはずだったが、二人の姿は影も形も見えなかった。
(何を、もたもたしているんだ!あの二人は!)
武子は階段に戻った。
階段を下りて通路を逆に戻ると、洋が通路の床に座っていて、その側に泉後がいた。
「何をしているんだ?洋!真っ先に船室を飛び出したのは、お前だろ!」
洋は息が絶え絶えになっていた。
「はぁ……、はぁ……、考えてみれぱ、僕は普段ろくに歩きもしないんだった。いきなり走ったら、すぐに息が切れて……」
「しょうがないなあ。もう!」
洋は武子と泉後に支えられて立ち上がると、歩き出した。
洋たちが甲板の上に出て帆柱の方に向かうと、帆柱の根本の周りには人だかりができていた。
人だかりの中では何か騒ぎが起きているらしいが、人だかりが邪魔になって見えない。
「何が、あったのですか?」
泉後が人だかりの一人に尋ねた。
「ああ、あの南西家の例の跡取り、酒に酔って帆柱に登って天辺まで行ったんだが、そこで足を滑らせて甲板までまっ逆さまに落ちたんだ。ぴくりとも動かない。今、船員さんが船医を呼びに行ってるよ」
洋は、泉後に肩車してもらって高い視点から人だかりの中を見た。
そこでは、南西一郎太が甲板に横たわっており、その側では南西三郎太が遠目から見ても分かるほど狼狽していた。
「医者だ!医者は、まだか!?兄上!もう少しの辛抱ですぞ!間もなく医者が参ります!」
洋は、それを見ると泉後の肩から下りた。
「タケ。船室に戻ろう。僕たちがここにいてもできることは何も無い。泉後は残ってくれ、やってもらいたいことがあるから」
洋は泉後に指示を言い残すと、武子と一緒に船室に戻った。
しばらく後、船室に泉後が戻って来た。
「洋さま。言われた通りのことを聞いてきました」
「それで、どうだった?」
「洋さまの言われた通り、三郎太さまも船員さんたちも、帆柱に登ろうとする一郎太さまに必死に止めるように声をかけていたそうです」
「腕ずくで止めようとした人は、誰もいなかったんだな?」
「はい、そうです。まあ。船員さんたちは身分の高い御方を取り押さえるようなことを、ためらったのは分かります」
「でも、三郎太さまは一応兄弟だ。腕ずくで止めることもできたはずだ。それをしなかったのは……」
洋は、目を閉じて考え込んだ。
「おい。洋。まさか、三郎太さまが何か企んだと考えているんじゃ、ないだろうな?三郎太さまは、俺に無理矢理口づけしようとした一郎太のヤツを止めてくれて、ヤツが暴言を吐いたのを打ち消そうとしていたんだぜ?」
洋は閉じていた目をゆっくりと開けると、武子と視線を合わせた。
「僕は、あの宴会で誰とも言葉は交わしてはいないけれども、その分、出席者たちを観察していた。僕の記憶では三郎太さまが一郎太さまにしきりに酒を飲むことを勧めていた」
「それは変じゃ、ないか?」
武子が疑問を持った。
「見たところ一郎太のヤツは、かなり酒癖が悪いぞ。三郎太さまは兄弟なのだから、それを知っているはずた。それなのに三郎太さまが酒を飲むよう勧めるなんて、まるで一郎太が酒に酔って問題を起こすのを期待しているみたいじゃ……」
武子は自分の言葉に驚いて、黙り込んだ。
「タケ。僕が何を言いたいのか、分かったみたいだね?」
武子は真剣な顔になって、洋にうなづいた。
「一郎太のヤツが酒に酔って、暴言を吐いて、帆柱に登って墜落するように、三郎太さまが仕向けたと、洋は考えているのか?」
「その通りだよ」
武子は混乱した。
「だけど、それはやっぱり変じゃ、ないか?一郎太が酒に酔ったからといって、暴言を吐いたり、帆柱に登ったりするとは限らないだろう?」
洋はうなづいた。
「そうだよ。三郎太さまにとっては一郎太さまが酒に酔って問題を起こさなければ、それはそれで構わなかったんだ。その場合は三郎太さまに何の損も無い。だけど、もし一郎太さまが酒に酔って暴言を吐いたら?その時は、三郎太さまは理性的な人間を演じれば良い。それだけで三郎太さまの評判は良くなり、一郎太さまの評判は悪くなる。 酒に酔って一郎太さまが帆柱に登ったら?その時は、口では止めるけど、腕ずくでは止めなければ足を滑らせて墜落するかもしれない。そうすれば、大ケガするだけではなくひょっとしたら命を落とすかも……」
泉後が二人の会話に割り込んだ。
「あの……、洋さま。今のお話では、三郎太さまが一郎太さまが『事故死』するように仕組んだように聞こえるのですが……」
洋は首を軽く横に振った。
「正確には『事故死する可能性が大きくなるように仕組んだ』と言うべきだな。俺の推測だが、今まで何度も三郎太さまは一郎太さまに『ひょっとしたら事故死するかもしれないこと』を仕組んできたのかもしれない。今日、ついにそれが成功したわけだ」
洋の言葉に、泉後は納得できない顔になった。
「今のお話だと、三郎太さまは一郎太さまの『死』を望んでいるようですが?」
「そうだよ」
「何故?三郎太さまは兄である一郎太さまの『死』を望まなければ、ならないのですか?」
洋と武子は目を剥いて泉後を見た。
「あ……、あの?洋さま。武子さま。私は何か変なことを言ったのでしょうか?」
戸惑っている泉後に対して、洋が口を開いた。
「泉後。おまえの実家は貧乏子沢山の農家で、おまえは十人兄弟の末っ子で、あまえは口減らしのためにウチに奉公に来たんだよな?」
「はい、そうです」
泉後は、洋の質問の意図が分からないまま答えた。
「おまえの実家は、小作じゃなくて、一応自作農だったよな?」
「はい。小さいですが、父は田畑の所有者でした」
「今、その田畑は、誰の物になってるんだ?」
「父はだいぶ前に亡くなりましたから、一番上の兄の物になっています」
「つまり、泉後家の財産はすべて長男の物になったわけだよな?」
「その通りです。それが世間の常識ですから」
巫女王国の社会における一般常識として、武士であろうと、農民、商人であろうと、長男が家を継ぎ、家の全財産を相続するのが当たり前であった。
「泉後、こう考えたことはないか?『自分の九人の兄たちが全員死ねば、泉後家の全財産は自分の物になるのに』と?」
泉後は恐怖で目を見開いて、首を激しく横に振った。
「洋さま!何と、恐ろしいことを申されるのですか!兄たちの死を望むなど!そのようなこと一度も考えたことはありません!」
洋はさらに泉後に質問した。
「泉後の兄たちには会ったことないから、どんな人か知らないが、例えば性格的に嫌な人間で、能力的にも低かったら、自分の方が家を継ぐ資格があるなんて、考えないか?」
「そんなこと!考えたことありません!私の一番上の以外の兄たちも、あちこちに奉公に出ましたが、それなりに上手くやっています!」
武子が口を開いた。
「泉後さんは、善人なんだね」
武子は皮肉な口調ではなく、本当に泉後を称賛した態度だった。
「どういうことでしょうか?武子さま」
「巫女王国では『長男が家を継ぐ』のが常識になっているけど、その常識を憎んでいる人たちは多いんだ。それでも農民や商人なら、他の家に奉公に出て、出世する可能性もあるけど、武士にとっては可能性は少ないんだよ」
「お武家さまが、ですか?」
「武士の家を継げない次男以下にとっては出世するとしたら、他の家の養子になるか、婿入りするぐらいしかない。でも都合の良い養子先や婿入り先なんてめったに無い。それに家を継いだ長男に跡継ぎの子どもが生まれる前に急死するような場合に備えて、予備として家に留め置かれる場合もある。その場合は長男が急死しない限りは、一生飼い殺しだ」
武子は自分の言葉に納得するように何でもうなづいた。
「そう考えると、洋の言うように、三郎太さまが一郎太さまを亡き者にしようと企んだ可能性は考えられる。南西家の長男を亡き者にしたら、次は次男をどうにかしてしまえば、三郎太さまが次の南西家の当主になれるんだからな」
泉後は、洋と武子の話に精神的衝撃を受けて、しばらく何も言えないでいたが、思い切って口を開いた。
「それで、洋さまは、どうなされるおつもりなのですか?」
「どうするつもりって、何を?」
「もちろん。三郎太さまが一郎太さまを殺害した件です。お役人に訴えますか?」
「僕は何もする気は無いよ。と言うより、僕は何もできない」
「どういうことですか?」
「僕が言ったことには、何の証拠も無い。訴えたところで僕の妄想にすぎないと言われてしまえば、それまでだ。下手をすると南西家を敵に回してしまう」
「そう言えば、そうですね」
泉後は理不尽さに少し憤ったが、世の中には耐えるしかない理不尽さもあると分かっていたので、この話はこれで終わりにした。
船室の戸の外から声がした。
「お客様。当船の接客係です。お知らせがあります。急病人発生のため最寄りの港に、緊急に入港いたします」
港に船が到着すると、一郎太が担架に載せられて、その横に三郎太か心配そうに付き添って船を降りて行った。
船内では表向き「一郎太さまは命に別状は無く、設備の整った陸上の病院に入院することになった」と発表されていた。
洋たち三人は、担架の上の一郎太の様子を目立たぬように甲板から見ていた。
「化粧で顔色を誤魔化しているが、あれは死人の顔だ」
武子は、洋と泉後にだけ聞こえるようにつぶやいた。
洋も小声で話した。
「酒に酔って事故死したとなると、御家の恥になるからな。入院してから一旦は回復したことにして、頃合い見計らって何か適当な死因で死んだことにするつもりだろう」
洋の言葉に、他の二人はうなづいた。
「まあ。僕たちは、もう南西家に関わることは無いのだから、どうでも良いけどね」
洋のこの言葉だけは、ハズレた。
数年後、洋たちは南西家と深く関わることになる。
船が出航すると洋たち三人は、船内の機関室に向かった。
洋が見学を希望していたからだ。
機関室の中に入ると機関長の号令の下で、大勢の機関手見習いが石炭を運んでいた。
機関手見習いには、洋と同年代の男の子が多かった。
その内の一人を見て、洋は驚いた。
「熊雄!」
首府で「相撲部屋に入門する」と言って別れた熊雄が、そこにいた。
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