第三話
五年前、太平屋洋は十歳。泉後健は三十五歳の時の事だった。
当日の太平屋の主人は、洋の父親である太平屋元であり、泉後健はまだ番頭ではなく太平屋に十人以上いる手代の一人だった。
「泉後さん。泉後さん。旦那さまがお呼びです」
丁稚が店で帳面をつけていた泉後に、他の者に聞こえないように小声で耳打ちした。
「また。洋さまのことでお呼びなのかい?」
泉後も小声で返した。
丁稚は無言でうなづいた。
泉後が立ち上がると、周囲で仕事をしている他の手代たちは何も言わないが、馬鹿にした視線を自分に向けてくるのを感じた。
(仕方がないか……そういう視線で見られるのも……)
泉後は自分が商人としての能力が認められたから、手代になれたわけではないことが分かっていた。
「洋さまの子守りも大変だな。泉後。しかし、お前はそれしか能がないんだから、しっかりやれ!」
部屋から出て行こうする泉後の背後から、馬鹿にするような声がかけられた。
泉後はそれに何の反応もすること無く、部屋から出て行った。
振り向いて誰の声かを確認する必要は無かった。
筆頭手代の杉田秀雄に決まっているからだ。
一般的に大きな敷地を持つ大商人の家は、通りに面した表が店舗になっており、奥の方が主人の家族の私的な家になっている。太平屋もそうなので、泉後は店を出て、奥にある家に向かった。
泉後は六歳の時に、太平屋に丁稚奉公で入り、店と家どちらの建物も長年見慣れた物であるのだが、その豪華さに圧倒される。
成金の家のように金ぴかの装飾品で飾り立てているのでは無く、さりげなく高価な品物が置かれている。
例えば、来客用の入り口の玄関の脇には花瓶が置かれており、生花が常に生けてある。
花瓶は当代一名人と言われる陶芸家が焼いた物であり、もちろん大変高価である。
生花の方は、泉後は草花の種類については詳しくなく、何度か花の名前を教えてもらったのたが、全く覚えられないでいるのだが、素人目で見ても大変美しい花だと分かる。
花瓶に入れると、一日と持たずに枯れてしまう花なので、花屋から毎日代わりの花が届けられている。
もちろん大変な費用が掛かる。
来客用の玄関にそれらを飾ることで、客に太平屋の財力を示しているのだ。
泉後は来客用の玄関からではなく、使用人たち用の勝手口から家に入った。
勝手口には何の飾りも無い。
太平屋の方針として金を掛けるべき所には、いくらでも金を注ぎ込むが、無駄な金は極力はぶいている。
(しかし他の店では丁稚に出す食事は、ご飯と味噌汁におかずは三切れの漬物だけ、ご飯と味噌汁のお代わりは無しが普通なのに、この太平屋ではご飯と味噌汁はお代わり自由、おかずもたまに塩漬け魚や干し魚が出る)
泉後は自分が子供の頃、丁稚だった頃を思い出していた。
(『店で働く者には精一杯働いてもらいたい。だから、腹一杯飯は食べてもらう』が太平屋の方針だからだそうだが、私が手代としてもらっている給金も他の店よりはるかに高給だ。できれば末長く、この太平屋で働きたいものだ)
泉後は太平屋の待遇に満足していると同時に、そこで働けることに誇りを持っていたが、将来に不安を持っていた。
太平屋の後継ぎである洋のことである。
泉後は廊下を歩いて主人の部屋に向かった。
部屋に近づくと、予想通り、洋の泣き声が聞こえてきた。
(やれやれ。またか……)
泉後は少しうんざりしていたが、それを態度に出さないようにして部屋に入った。
部屋には太平屋の主人である太平屋元と、その一人息子である洋がいた。
元は背が高く筋肉質の体格をしており、顔も美男子ではないが意志の強さを感じられる顔つきである。
それが元に「この人は頼りになる」と他人に印象を与えている。
実際に元は外見からくる印象に違わず商人としての能力は高く、人格も素晴らしい。
今年で五十五歳になるが、いささかの衰えも見せてはいない。
泉後はもちろん太平屋で働いている人間は全員無条件で、元を尊敬し信頼している。
その元の唯一の弱点が畳に横になって手足をばたつかせて、泣きじゃくっていた。
「やだよー!やだよーっ!」
泣きじゃくる洋に泉後は近づいた。
「洋さま。どうなさったのですか?」
洋は泉後の姿を認めると、泣き止んだ。
「うん。泉後。お父さん。僕に酷い事やれって言うんだよ」
「酷い事とは、何でしょうか?」
泉後は洋が何と答えるのか予想がついていたが、洋を落ち着かせるために話を聞いた。
洋の話の内容は、予想通りだった。
大商人の家では後継ぎが十歳ぐらいになると、商売上の交渉の席に同席させる。
もちろん十歳の子供に交渉力など期待はしていない。交渉の場にいても発言は許されず。大人たちの話をただ聞いているだけである。
ほとんどの子供は話の内容を理解できないが、子供の頃から交渉の場の雰囲気に慣れさせて経験を積ませようとする修行なのである。
元は、その修行を洋が今年で十歳になってから、何度もその修行をさせようとしているのだが、そのたびに洋が泣いて拒否するのである。
(困ったものだ。洋さまの人見知りの酷さは……そうなったのは、自分にも責任の一部はあるのだが……)
十年前に洋が生まれた数日後に、洋の母であり元の妻であった玉子は、産後の肥立ちが悪く亡くなった。
太平屋のような大店の主人は妻を亡くしたら、一定期間を置いて後妻をめとるのが普通である。
しかし、元は玉子への愛情から再婚することはなかった。
(それが、洋さまがこうなってしまった原因なんだが……)
大商人の後継ぎとなる人間は、六歳ぐらいになると他の商人の店に商売の修行のために丁稚奉公に出される。
実家で商売の勉強をすると、どうしても甘やかしてしまうからである。
(旦那さまは、玉子さまによく似た洋さまを自分の側から離したがらなかった。それでずっとこの家にいるのだが……)
洋は酷い人見知りになってしまった。
幼い頃は、子守り女に洋の面倒を見させようとしたのだが、洋が初対面の人間には泣き出すためそれができなかった。
何故か、当時丁稚だった泉後には洋はなついたため、泉後が子守をしたのである。
洋の商人としての修行を施すのも、泉後がやることになった。
泉後は他人から「丁稚止まり」と評価されていて、自分もそう思っていた。
貧乏子沢山の農家の十人兄弟の末っ子に生まれて、口減らしのために丁稚奉公に出された泉後は、食べられるだけで満足だったので「丁稚止まり」でも不満は無かった。
その泉後が手代になれたのは、後継ぎである洋に商人としての修行を施す人間が「丁稚」では世間に対して、格好がつかないので、元が「手代」に昇格させたのである。
筆頭手代である杉田からは「子守り手代」などと面と向かって馬鹿にされているが、泉後は事実なので何も言い返せないでいる。
「泉後。このままでは、いけないのは、お前も分かっているだろ?」
元は困り果てた表情を泉後に向けた。
「はい。分かっています。杉田さんのこともありますし……」
元は杉田の名前を出されると、ますます顔を歪めた。
「杉田の奴は、この太平屋の番頭の地位を狙っている!それだけなら、かまわないが、さらに太平屋その物の乗っ取りを企んでいる!」
「旦那さま。声が大きいです」
泉後は元を落ち着かせようとした。
「分かっている。せめて、番頭の帆根が元気であればなあ……」
今度は元は愚痴をこぼした。
番頭の帆根一夫は数ヶ月前から病床にあり、復帰は望めそうにない。
「杉田のヤツは、ワシに面と向かって番頭にしてくれるように言ってきやがった!」
元は悔しさを顔ににじませた。
「返事は適当に誤魔化しておいたが……杉田のヤツを今は首にすることはできん!ヤツ無しでは店が成り立たないし、首にして商売敵の店に行かれたら、こちらを本気で潰そうとするだろう!」
無能な主人を排除して、有能な番頭が店を乗っ取るというのは、商人の世界では頻繁に起きていることである。
筆頭手代の杉田は太平屋の今の主人である元に対しては、それは不可能だと考えているが、洋が主人になれば簡単なことだと思っている。
「ワシが生きているうちは良いが、ワシがいなくなったら……」
泉後は元の嘆きを聞きながら、考えていた。
(戦国時代の武士だったら、主家乗っ取りは主人が家来に殺されてしまうが、商人の場合は一定の財産を分けられて、田舎に引っ込むことになる。洋さまにとっては、その方が良いのではないか?)
そんなことをもちろん元に言うわけにはいかないので、目先のことについて口にした。
「洋さまが人見知りが激しくて、交渉の席に同席できないのならば、洋さまが隣の部屋に隠れれば、どうでしょうか?」
「隠れる?」
「良いことではありませんが、隣の部屋から覗き見、立ち聞きをするんです。洋さまにとにかく交渉の席の雰囲気だけでも知ってもらわないと……」
元はしばらく考えていた。
「それで行こう。来客にはばれないように、泉後は洋と一緒に隠れていてくれ」
「今日の来客はどなたですか?」
「豪石武司。お武家さまだ」
しばらく後、応接間で元は来客を待っていた。
隣の部屋には襖ごしに洋と泉後がいる。
小さな覗き穴を二つ開けてあるが、襖の模様に紛れて目立たない。
「豪石武司って、武子のお父さんだよね?」
「そうです」
洋の質問に泉後は答えた。
「お父さんのことは知らないけど、武子のことは良く知っているよ。僕と同じ十歳で、このあたりのガキ大将だもの」
「武子さまは女の子でしょう?なのにガキ大将なんですか?」
「女の子だからだよ。弟の武太郎より武芸の腕は遥かに上なのに、女の子だというだけで家を継げないから荒れているんだ。このあたりのケンカが強い子供全員にケンカを売って、全勝しているから子供たちからは恐れられているよ」
応接間に向けて、足音が近づいて来た。
「静かになさってください。洋さま」
武司が応接間に入って来た。
これから起きる出来事が、洋の生き方を大きく変えることになるとは、洋自身も泉後もまったく予想できなかった。
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