第十六話
旅館の窓から見える景色は、夕日で赤く染まっていた。
ここ北東島の中心都市である北限湊では、太陽は東の海から昇り、西の山脈に向けて沈んでいく光景が見られる。
西の山脈に夕日が沈んでいく光景は、古代の有名な歌人が「絶景」と評して歌に詠んだほどで、沈む夕日を見るためだけに、この地に観光に来る者もいるくらいである。
西の空は雲一つ無く晴れ渡っており、まさに歌人が評した通りの「絶景」になっている。
しかし、その旅館の一室にいる一人の男は、外に出て景色を眺めることも、窓から外に目をやることもなかった。
座布団にじっと座ったまま、畳の上に置いてある紙を見つめていた。
男は廻船問屋太平屋の手代である泉後健であった。
泉後は長い時間、その紙を見つめていた。
その紙は、為替手形であった。
為替手形に記入されている金額は、九万両である。
「九万……、九万両か……、夢じゃないよな?」
泉後は何度も、そうつぶやいていた。
「あの、お客さま」
閉じている襖の外から、旅館の仲居の声がした。
「な、なんでしょうか?」
「お客さまに訪ねて来た方がいらしゃいます」
「どなたですか?」
「黒石屋のご主人の黒石屋黒衛門さまです」
泉後は何故黒衛門が訪ねて来たのか分からなかったが、断る理由もないので部屋に通した。
黒衛門は座布団に座って、泉後と向かい合うと、世間話をするかのように話始めた。
「泉後さん。太平屋の跡取り息子の洋さんは、どうしたのかね?」
「洋さまでしたら、婚約者や友人と一緒に沈む夕日を見物に外に出てます」
「ほう!運がよいな!これほどの快晴は、長年ここに住んでいる自分にも珍しい。山脈に向けて沈む、あの美しい夕日を見れただけでも、ここに来た意味があるな!」
黒衛門の顔は笑っているが、泉後には自分に対する忌々しさが口調に滲み出でいるのを感じた。
「洋さまに用事があるのでしたら、呼びましょうか?」
黒衛門は首を横に振った。
「いや、いや、泉後さん。あなたと話をしたいと思って来たんだ」
「私と!?」
泉後が黒衛門が自分と話したがる理由が分からず戸惑っていると、黒衛門が畳の上に視線を下げた。
「九万両の為替手形か……、ずいぶんと儲けたもんだな」
「あっ!それは!」
泉後は為替手形をうっかり畳の上に出したままにしていたのに気づいて、慌てて懐にしまった。
その泉後の様子を見て、黒衛門は苦笑した。
「別にこっちは泥棒じゃないんだから、そんなに慌てる必要はないよ。まあ、そちらの企みに引っ掛かってしまった忌々しさはもちろんあるが……」
「こちらの企みとは、何ですか?」
黒衛門の言葉の意味が分からなかった泉後は、素直に尋ねた。
黒衛門は、ますます苦笑した。
「そう!その態度だよ!泉後さん!あなたのその態度には騙された。あなたはまるで裏表が無くて、隠し事などできなくて、秘かに物事を進めることなどできない人だと思っていた」
泉後は、うなづいた。
「黒石屋さんのおっしゃる通りです。私は何かを企むような頭の良さなどありません」
実際に泉後には、何かを計画するような頭の良さは持ってはいない。
「どこまで、とぼける気なんだ。あなたは……、まあ、本音を隠すのは、自分たち商人の職業病のようなものだが、ここは自分の方から正直になろう。今の自分は、あなたの企みに引っ掛かった忌々しさよりも、あなたが上手くやったことを称賛する気持ちが大きい!」
「私を称賛ですか……」
「そうだ!本当に上手い方法を思いついたものだ!」
(確かに、洋さまは上手い方法を思いついた。何を企んでいたか分かった時は、私も驚いたものだった)
船に積み込んだ石炭が正式に太平屋の物になってから、相次いで数人の商人たちが泉後を訪れて、その石炭の購入を求めたのだった。
事前にできるだけ高値で売るように、洋から指示を受けていた泉後は、商人たちに「競り売り」をして、一番高い値段をつけた商人に売却したのだった。
その値段が九万両であった。
泉後には、相場で一万両の石炭が九倍もの値段で売れた理由が分からなかった。
「洋さま。何故、相場の九倍の九万両で、石炭が売れたのですか?石炭が不足しているのですか?」
泉後の質問に、洋はニヤニヤ笑いながら答えた。
「泉後は、何故、石炭が不足しているなんて思うんだ?」
「そ、それは……」
泉後は自分に何かを考える力は足りないと自覚していたが、精一杯頭を振り絞って考えた。
「どのような商品でも、それが不足すれば値上がりし、余れば値下がりするからです」
洋のニヤニヤ笑いは、さらに大きくなった。
「そう、それが常識だね。泉後は、港にある倉庫から石炭が運び出されるのを見たよね?」
「はい、見ました」
「僕の雇った船に石炭の積み込みが終わった後、倉庫の中身は、どうなっていた?」
「えーと、それは……」
泉後は自分の頭の中の記憶を探った。
「港に連なっているいくつもの倉庫は、積み上げられた石炭で一杯でした」
「その通りだよ。石炭は不足なんかしていない。むしろ余っている方なんだよ」
「では、最初の質問に戻りますが、何故、相場の九倍もの値段で、石炭が売れたのですか?」
「船に積み込んである石炭は、僕の雇った船一隻しかないからだよ」
「はあ!?」
洋の言った言葉の意味が分からなかった泉後は、思わず変な声を出してしまっていた。
「ああ、ごめん、ごめん。泉後。僕の言葉が足りなかったね」
洋はニヤニヤ笑いを止めて、説明を始めた。
当たり前のことではあるが、石炭は買い取ったのならば、それが「消費」される土地まで運ばなければならない。
消費されるのは、一般家庭の煮炊きや暖房用や、工場での動力としての蒸気機関用、鉄道や蒸気船用である。
北東島で採掘された石炭は、主に船で中央島と南西島の沿岸部にある都市に向けて運ばれている。
鉄道の方が速いが、大量輸送では船の方が優れているからである。
「昨日の騒ぎで……、これは僕が仕組んだことなんだけど、港での全部の船への荷物の積み込みは夕方まで止まったままだった。荷運び人を使うための料金を黒石屋さんは通常の三倍支払うことで、船への積み込みは再開されたけど、太平屋さんは契約違反の賠償金を支払うことを避けるために、僕の雇った船に石炭を積み込むのを最優先にして、他の船のことは放っておいた。そうしたら、どうなったと思う?泉後?」
泉後は少し考えてから答えた。
「ええと……、他の船には、石炭が積み込まれなかったのですよね?そうすると、他の船は空っぽなわけで、そうなると……、そうなると……」
考えに詰まってしまった泉後に、洋が言葉を続けた。
「そうなると、僕の雇った船だけが、石炭の積み込みが完了していて、すぐに出港できる船だったんだ。船の宴会場で、僕が石炭の買い付けに来た話は広めたからね。その情報は商人たちの間には短時間で伝わった」
その言葉を聞いて、泉後は理解した。
「分かりました!洋さま。港の倉庫に石炭があふれていても、石炭が積み込んである船が一隻だけなのが、希少価値だったのですね?」
洋は、うなづいた。
「その通りだよ。僕の石炭を九万両で買った商人は、今日中に石炭を積んだ船を北限湊から出港させなければ、届け先の到着期限に間に合わなかったんだ」
「指定した期限に待ち合わないというのは、私たち商人にとって著しく信用を失うことですからな。下手をすれば、今後取り引きを一切してもらえないということもありえます。それで、あの商人は今回は大損を覚悟して、九万両もの値段で買ったのですな」
洋は笑った。
「これで石炭の購入代金一万五千両や船の雇い料金、その他もろもろの必要経費を差し引いても、約七万四千九百両の儲けになる。その内一万両は、武子のお父さんに大将軍府のお偉いさんに賄賂用に渡すから、約六万四千九百両が僕の儲けだ」
その時、泉後は別のことに気づいた。
「あの、洋さま。黒石屋さんのことなんですが……」
「黒石屋さんが、どうかしたの?」
「黒石屋さんも、こちらに『罠にはめられた』ことは、もう分かっていることでしょう。金銭的には向こうは損はしていませんが、こちらの印象は、かなり悪くなったはずです」
「印象が悪くなったから……、それで?」
「いえ、黒石屋さんは北東島で採掘される石炭を独占しています。これから太平屋に対しては『石炭を売らない』なんてことになったら、困るのでは?」
「その時は、泉後を首にして、黒石屋さんに詫びを入れる」
その言葉に、泉後は焦った。
「な、何で!私が首に!」
「黒石屋さんは、今回のことを企んだのは泉後だと思っているよ。お前を首にすれば、向こうも気が済むんじゃないかな?」
「そんな……、蜥蜴の尻尾切りなんて……、私は……」
泉後が言葉に詰まっていると、洋は歯をむき出しにして笑った。
それが洋が冗談を言う時の癖であることを知っている泉後は、安心して大きく息を吐いた。
「洋さま。質が悪い冗談はお止めください」
「悪い、悪い。僕がお父さん以外では、唯一まともに会話をすることができる泉後のことを首にするわけないだろ。それに、黒石屋さんに機嫌を良くしてもらう方法なら本当に考えてある」
洋は、その方法を具体的に泉後に教えた。
そして、今、泉後は黒衛門が自分に会いに来たので、洋の指示通りに話を始めた。
「黒石屋さんは、港に起重機を設置していたがっていましたよね?」
「ああ、だが、港を縄張りにしている北湊屋に拒否され続けている。今回のゴタゴタで、さらに難しくなるかもしれない」
「その問題を解決する方法があると言ったら、どうしますか?」
「何だと!?」
最初は疑わしい顔で泉後の話を聞いていた黒衛門は、話を聞き終わると満面の笑みになった。
「黒石屋さん。準備に数ヶ月はかかるので、数ヶ月後に結果を持って、またここに来ますよ」
「泉後さん!数ヶ月後を楽しみにしてますよ!」
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