第十二話
黒石屋黒衛門が指差した契約書の最後の所には、次のように書かれていた。
「……以上のように太平屋と黒石屋の間での売買契約において、契約書に記載された契約内容に契約者が契約に違反した場合は、違反した側が賠償金として二万両を相手側に支払うこと」
黒衛門が真剣な顔で質問しているのに対して、泉後健は軽い態度で答えた。
「ああ、それは、洋さまの退路を断つためです」
黒衛門は泉後の「洋の退路を断つ」という言葉を聞いて、すぐに意味が分かった。
「なるほど、もしそちらの洋さんがこの契約を結んだ後に『やっぱり止めた』と言い出したとしたら、こちらに二万両の賠償金を支払わなければならなくなるわけだ。二万両の賠償金を支払うよりは、契約通りに一万五千両で石炭を買った方が損失は少なくなるわけだ。そうすることで、そちらの洋さんへの『商売の修行』をさせるわけだ」
「その通りです」
泉後は朗らかな笑顔で答えた。
「しかしだな……、泉後さん」
黒衛門は疑問の表情になった。
「この契約内容だと、こちら側が『石炭を売るのを止めた』場合は、こちらから太平屋さんに二万両の賠償金を支払わなければならないことになるわけだが、これはどういうことだ?」
黒衛門が少し詰問するような口調になったのに対して、泉後はあっさりと答えた。
「それは契約内容を公平にするためです」
「公平?」
「そうです。契約内容が公平な物でないと、神殿の審査で認められない場合があるのはご存知でしょう。それを避けるためです」
神殿が発行している「誓紙」に書かれた契約書は「写し」を二通作り、写しを契約者双方が保管して、「原本」は神殿に提出しなければならない。
神殿の神官により契約書の契約内容は審査されて、契約内容が「片方にとって不公平」だったり、「公序良俗に反する」と判断されれば、契約書は「無効」となる。
黒衛門は泉後の言葉に一応納得して、うなづいた。
「それと、他の疑問点だが……」
契約書の他の点について、黒衛門は泉後に質問した。
「『船一隻分の石炭は明日の夜明けまでに、ただちに太平屋側に引き渡せるように黒石屋側は準備すること。なおこの場合の引き渡しとは、全ての石炭が船への積載が完了しており、ただちに船が出港可能な状態になっていることを言う』となっているが、ずいぶんと急ぐのだな?大量の石炭の取引については場合によっては数ヶ月前から交渉をすることもあるのに、交渉を始めたのが今日で、船に積み込むのが明日の夜明けまでとは……」
少し戸惑っている黒衛門に、泉後はのんびりと答えた。
「これは洋さまへの『商売の修行』が目的なので、なるべく早く済ませたいのです。石炭を積み込む船は、こちらの方ですでに雇ってあります。すぐに出港できる準備はできています」
そう言って泉後は、懐から紙を出した。
その紙を見た黒衛門は、目を見張った。
その紙は、首府に本店がある両替屋の金山屋が扱っている為替手形であった。
巫女王国における高額貨幣は金貨である大判・小判であるが、重量があるため運搬には手間が掛かり、運搬の途中で事故や盗難に遭う可能性もあるため、大量の現金を運ぶのは危険が大きい。
そのため商人の間での高額取引に使用されているのが、為替手形である。
今の場合は、振出人である太平屋が為替手形に金額と自分の名前を記入して、さらに受取人である黒石屋の名前を記入する。
為替手形を受け取った黒石屋は両替屋の金山屋に為替手形を持ち込めば、太平屋が金山屋に預けてある現金の中から為替手形に記入されている金額を受け取れるようになっている。
金山屋は信用の高い両替屋であり、全国の主要な都市に支店があり、北東島の中心都市である北限湊にも支店がある。
黒衛門が泉後の取り出した為替手形を見て、目を見張って驚いたのは、それに記入されている金額であった。
今回の取り引きの石炭の買い取り価格の一万五千両と記入されていたのであった。
高額の取り引きでは、一度に全額が支払われるということはほとんどなく、一部を手付金として支払って、残りの金額は分割払いであることが一般的なのだ。
分割払いも全額が支払われるのに一年以上かかる場合もあり、支払う側がその間に倒産してしまったりして、受け取り側にとって残金が未回収になってしまうこともあるのだ。
「契約が成立すれば、この場ですぐに為替手形を黒石屋さんにお渡しします」
為替手形を手にしている泉後に、思わず黒衛門は同意する言葉を口から出そうとしたが、慌てて引っ込めた。
(落ち着け!落ち着くんだ!自分!確かに今すぐに一万五千両全額が手に入るのは魅力的だが、何か落とし穴があるのかもしれん!考えろ!考えるんだ!)
黒衛門は返事を考える時間を稼ぐために、湯飲みのお茶に口をつけた。
(まず状況を整理しよう。この契約内容で太平屋の側は基本的に損をするようになっている。太平屋が得をするとしたら、こちら側が契約違反をして賠償金である二万両を得ることしかない)
さらに、黒衛門は思考を進めた。
(こちら側が契約違反をするとしたら、『明日の朝まで』と期限が切られている船への石炭の積み込みが間に合わないことだ。それが起こる可能性はあるだろうか?)
黒衛門は自問自答した。
(いや、その可能性は無い!港の倉庫には買い手の決まっていない石炭の在庫がたっぷりとあるし、船一隻なら余裕で満杯にできる。倉庫から運び出して、船に積み込むのも今はまだお昼前の時刻だ。荷運び人たちに、この後すぐに旗振り通信で命じれば、積み込み作業は今日の日暮れまでには終わる。うん!何も問題は無いな!)
黒衛門は結論を出した。
「よろしい。泉後さん。この契約に同意しましょう!」
黒衛門は契約書に署名捺印した。
泉後は為替手形に受取人として黒石屋の名前を書くと、黒衛門に渡した。
黒衛門は部下の手代に命じて、契約書の写しを二通作らせ、一通は黒衛門が、もう一通は泉後が保管した。
契約書の原本は、泉後と黒石屋の手代が近くの神殿に提出するために、一緒に部屋から出ていった。
(契約者双方が神殿に行く理由は、契約した物とは違う偽の契約書を神殿に提出されることを避けるためである)
泉後と手代の二人が部屋から出るのを見送ると、黒衛門は庭にでた。
庭にには中心に池があり、その周りには北東島特有の木々や花々が植えられていた。
自他共に認める美しい庭であり、その自慢の庭を黒衛門は眺めた。
庭の隅の方に目を向けると、その美しい庭の眺めを壊す物があった。
(あれを設置することを決めたのは、自分自身だから文句は言えないが、この庭には不釣り合いだな)
そう内心で思いながら、黒衛門は、設置されている物に向かって歩いた。
設置されている物は四本の木製の柱が地面から立てられていて、その柱に木製の台が支えられている。
台の部分は建物の三階ぐらいの高さで、その上には二人の男がいた。
台の上の男の一人が、黒衛門が近づいて来るのに気づくと、台から梯子で降りてきた。
「旦那さま。旗振り通信の御用でしょうか?」
男は黒石屋が個人的に雇っている旗振り通信手であり、柱に支えられている台は、これも黒石屋が個人的に設置した旗振り通信所であった。
全国規模の組織である「旗振り通信組合」は、どこの町や村にも一軒は「旗振り通信受付所」があり、ほとんどの人々はそこで通信の申し込みをする。
しかし、大きな商店では一刻でも速い情報のやり取りが求められたため、個人的に通信所を設置する場合がある。
もちろん高額な通信所の設置料金と旗振り通信手の給金を、旗振り通信組合に支払わなければならないため、個人的に旗振り通信所を設置できるのは、ごく一部の富裕な者だけである。
「そうだ。港に向けて通信を頼む。通信内容は……」
黒衛門は港にある黒石屋の出張所に、泉後が指定した船の船倉一杯に石炭を日暮れまで積み込む指示した。
旗振り通信手は黒衛門からの指示を聞き終えると、梯子を登って台の上に戻った。
赤い旗が先に付いている棒を「旗振り手」が振り始めた。
もう一人は「遠眼鏡手」として、遠眼鏡で信号を送っている先にある通信所を見ていた。
遠眼鏡で見える視界の中には、ここと同じく三階ぐらいの高さにある旗振り通信のための台があり、「旗振り手」と「遠眼鏡手」がいた。
北限湊にある建物はほとんどが二階建のため、三階の高さがあれば遠くから見通せるのである。
向こうの遠眼鏡手は、遠眼鏡でこちらを見ている。
遠眼鏡の中に見える赤い旗は「受信完了」の意味に振られた。そして黒石屋の通信所が送ったのと同じ信号を赤い旗を振って、次の通信所に送り始めた。
「旦那さま。送信完了しました」
旗振り通信手は地面で待っている黒衛門に報告した。
黒衛門はうなづくと、返信をこのまま待つことにした。
今までの経験から、返信は数分と待たずに返ってくるはずだからである。
予想通り、数分以内に返信は来た。
しかし、返信内容は予想外の物だった。
「旦那さま。港の出張所より返信です。内容は『船ヘノ積ミ込ミハ不可能』」
「どういうことだ?」
黒衛門は戸惑った。今までの港にある出張所に旗振り通信で船への石炭の積み込みを指示した場合は、「了解。直チニ積ミ込ミヲ開始スル」との返信が来るのがほとんどだったからである。
「旦那さま。どういうことだ?と、おっしゃられても、私どもは送られてきた通信をお伝えしているだけですので……」
「そうだったな。では『積み込みが不可能な理由を知らせろ』と港の出張所に送ってくれ」
今度は返信は、三十分以上待っても来なかった。
(どうしたのだ?こんなに返事が遅いのは初めてだぞ?)
「黒石屋さん」
やきもきしている黒衛門の背中から声がかけられた。
黒衛門が背後を振り向くと、泉後がいた。
「契約書は神殿に提出してきましたので、私たちはこれで失礼します。こちらの旅館に泊まりますので、何かありましたら、こちらにご連絡ください」
黒衛門は泉後から旅館の名前が書かれた書き付けを受け取った。
「洋さま。武子さま。いつまでも隠れん坊していないで、帰りましょう」
庭の木の陰から洋と武子が姿を現した。
(庭に二人はいるはずなのに、姿が見えなかったのは隠れん坊をしていたからか)
そう黒衛門が思っていると、旗振り通信手が声をかけてきた。
「旦那さま!返信が来ました!」
「そうか!何と言っている?」
台の上の方に顔を向けた黒衛門は、庭から去って行く洋の顔を見れなかった。
もし見れたとしたら、洋の顔が面白そうに笑っているのが見えただろう。
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