第十一話
ここは北東島の中心都市、北限湊の町中にある石炭問屋黒石屋である。
太平屋洋、豪石武子、泉後健の三人は黒石屋を訪れていた。
「船一隻にすでに積み込まれている石炭を一万五千両で、買い取りたいですと?」
黒石屋の応接間で、応対に出た黒石屋の主人、黒石屋黒衛門は戸惑っていた。
なぜなら、船一隻分の石炭は一万両が相場だからである。
「うん。そうだよ。それで大儲けしようと思ってね」
洋は精一杯明るい声で答えた。
黒衛門には分からなかったが、初対面の人間とまともに話すこともできない洋のそれが全力であった。
「本当に一万五千両で、よろしいのでしょか?」
洋は黒衛門にうなづいた。
洋が初対面の人と話す限界が近づいていることが分かった泉後は、口を挟んだ。
「いやー、見事なお庭ですね。あの木の枝振りといい、池といい、実に見事です。洋さま。武子さま。見せていただいては、どうでしょうか?」
黒衛門の了解を得て、洋と武子は庭に出て行った。
泉後は庭に通じる障子戸を閉めると、真剣な顔で黒衛門に振り向いた。
黒衛門は五十歳代の男で、枯れ木のように細い体をしているが、眼光は鋭かった。
「ここからが、本題というわけですか?泉後さん」
黒衛門の言葉に、泉後はうなづいた。
「はい、黒石屋さんのおっしゃる通りです。太平屋の跡取りとはいえ、いまだ十歳にすぎない洋さまに一万両の商談をさせるほど、太平屋は愚かではありません」
泉後は営業用の笑顔を黒衛門に向けた。
泉後は、客観的に見て美男子である。
美男子のなかには、相手に冷たい印象を与えてしまう顔立ちの人もいるが、泉後の顔立ちは「親しみ」や「優しさ」を感じさせる物である。
泉後は自覚していないが、太平屋の主人である太平屋元が商談の時に泉後を同席させることが多いのは、相手の警戒心を和らげることが目的である。
洋も、その効果を狙って泉後を北東島に同行させた。(もちろん。洋にとって店の人間でまともに会話できるのが、泉後だけという理由の方が大きいが)。
今も、泉後の笑顔を向けられた黒衛門は笑顔を返した。
泉後は本題に入った。
「黒石屋さんは不審にお思いでしょう?船一隻分の買い取り価格の今の相場は一万両です。首府に運んでの売値の相場は一万一千両です。それなのに、一万五千両で買い取ると洋さまは言ったのですから」
「それはまあ……、変な話だとは思った」
黒衛門は、お茶の入った湯飲みに口をつけた。
お茶を飲みたかったわけではなく、考える時間を稼ぐためである。
(首府での石炭相場が高騰したのか?いや、いや、それなら『旗振り通信』で連絡がすでに来ているはずだ)
「旗振り通信」とは、巫女王国で最も早い通信手段である。
「旗振り通信」の登場以前に最も早い通信手段は、「早馬」であった。
戦国時代の大名たちが、領内の迅速な通信を確保するために始めた通信手段であり、征国大将軍による巫女王国の再統一の後は、全国規模の物が設置されている。
手紙を持った使者が馬に乗り、手紙の届け先に向かうというのは、古代から行われていた。
しかし、一人の乗り手が一頭の馬で出発地から目的地までを走り通すことがほとんどであった。
そのため乗り手が馬を全速力で走らせると、すぐ潰れてしまうため、馬の最高速度のまま全行程を行くことは不可能だったのである。
馬の最高速度を生かして、手紙を早く届ける手段として設けられたのが、「早馬」なのだ。
まず、街道筋に多数の「駅」を設ける。
駅と駅の間の距離は、馬が全速力で走れる限界の距離になっている。
駅には替え馬が用意されており、宿泊施設や食事の用意もされている。
手紙が「普通便」の場合は、夜は乗り手は駅で休むことになるが、「速達便」の場合は馬も乗り手も駅で交代して、昼も夜も走り続ける。
(余談ではあるが「駅」という言葉は、蒸気機関車による「鉄道」が発明された時に、乗り降りする場所の名称として使われそうになったが、混同を避けるために鉄道の方は「停車場」となった)
「早馬」は馬に乗ることができるのが、武士のみに許された特権であるため、武士専用の通信手段であった。
武士身分以外の者で、早馬を使って手紙を送ることができるのは、大名から仕事を請け負っている一部の御用商人だけであった。
武士身分以外のほとんどの者は、人間が自分の足で走って手紙を運ぶ「飛脚」であった。
当然ではあるが「飛脚」は「早馬」よりも遅い。
そのため商人身分の者が、考え付いたのが「旗振り通信」であった。
旗振り通信の仕組みは、次のような物である。
通信の出発地点には、長い棒を持った一人の人がいる。
棒の先には遠くからでも目立つように、赤い大きな旗が付いている。
旗を振った回数で、数字や言葉を表すようになっている。
それを遠眼鏡で離れた場所にいる人が見ていて、読み取った通信文を隣にいるやはり赤い旗の付いた棒を持った人に伝える。
その人は赤い旗を振ることで、遠くから遠眼鏡で見ている人に伝える……。
これを到着地点まで何度も繰り返して、通信を送っているのである。
通信速度は早馬よりも速く、鉄道や蒸気船よりも速い。
今では巫女王国中に、旗振り通信による通信網が張り巡らされていて、身分に関わらず料金さえ支払えば、誰でも利用可能である。
早馬の方が通信手段としては廃れることなり、現在では鉄道未開通の地域で小荷物を扱っているのみである。
黒衛門は旗振り通信と、洋たちが乗ってきた蒸気船の速度差を頭の中で計算した。
(やはり、どう考えても、この太平屋の者たちが蒸気船で首府を出発した時に、首府で石炭の値が上がっていれば、この者たちがここに訪ねてくる前に、その事は自分の耳に入っているはずだ。ならば、首府での石炭の値段は通常通りなのだろう)
黒衛門はさらに思考を進めた。
(ならば、何故?通常より高い値段で、石炭を買おうとするのだ?)
黒衛門は表向きは落ち着いてお茶を飲んでいるようにみえるが、内心では相手の意図が読めないので少し困惑していた。
「黒石屋さんは、困惑なされていると思いますので、こちらから、このような取引をしようとする理由を話したいのですが……」
黒衛門が湯飲みから口を放すと、泉後が口を開いた。
黒衛門は相手の出方を探ろうと、鷹揚にうなづいた。
「泉後さんとやら、とにかく、あなたの話を聞かせてもらおう」
泉後は話を始めた。
「洋さまの言った通りに事を進めたとしますと、一万五千両で船一隻分の石炭を買い、首府に運んで売ったとして、今の首府での相場では一万一千両でしか売れませんから、四千両の損失になります。これは運送料を勘定に入れない場合ですから、実際には損失はもっと大きくなります」
泉後は、他に誰もいないことを確かめるかのように周囲を見回した。
重大な話に入ると察した黒衛門は、黙って話の続きを待った。
「その四千両は、我が太平屋の主人であり、洋さまの父親である元さまは『稽古代』だと考えております」
「稽古代?」
言葉の意味が分からなかった黒衛門は、鸚鵡返しに口に出した。
「はい、そうです。『稽古代』です。さすがに四千両もの損失を出せば、洋さまも目が覚めるでしょう」
黒衛門は、泉後の言葉を聞いて考え込んだ。
(聞いた噂では、太平屋の跡取りで一人息子の洋は、商売の修行もせずに、一日中書斎で本を読んでいるということだ。さっき洋は自信満々で『大儲けする』と言っていたが、本で読んだ知識だけで『大儲けする方法』を思いついたが、それが『机上の空論』だと父親から言われたのだろう)
黒衛門は、さらに思考を進めた。
(そう言われて納得しなかった洋は、『実際にやってみなければ分からないだろう』と反論したのだろう。確かに新しい商売の方法が上手くいくかどうかは、実際にやってみなければ分からないからな)
黒衛門は、自分としての結論を出した。
(なるほど、太平屋の主人は息子に『新しい商売の方法』を実際にやらせてみて、上手くいけば『儲け物』。失敗すれば金銭的には大きな損失だが、そのことで息子が商人としての修行に身を入れてくれれば良いと考えているのだろう)
黒衛門は内心でうなづいた。
(確かに、言われる通りに売っただけで、こちらは五千両の儲けだが……)
黒衛門は口を開いた。
「泉後さん。『新しい商売の方法』とやらを教えてはくれないかね?」
泉後は恥ずかしそうな顔になった。
「洋さまの思いつかれた事は『机上の空論』と言うべき物で、とても人様にお話できる物ではありません」
(簡単には教えてはくれなそうだな。だからといって、無理矢理聞き出そうとして商談その物が駄目になるのもな……)
黒衛門は決断した。
「よろしいでしょう。船一隻分の石炭を一万五千両でお売りしましょう」
黒衛門の言葉に応じて、泉後が懐から一枚の紙を取り出した。
「契約書を作っておきました。こちらの署名捺印はしてありますので、内容に異議が無ければ、黒石屋さんに署名捺印していただければ契約は成立となります」
「神殿で発行している『誓紙』に書かれておりますな」
泉後から契約書を手渡された黒衛門はつぶやいた。
「誓紙」とは、巫女王国の神殿が発行している紙で、重要な約束事をする場合に誓いの言葉を書くのに使用される。
誓紙に書かれた約束事を破ったとしても法律上の罰則は無いが、「巫女王」を通じて「創造神」に誓った事を破ることになるので、破った者は社会的な信用を無くすことになる。
そのため商人同士での重要な取り引きの契約書に、誓紙は普通に使われている。
(余談ではあるが、誓紙は一枚五両の値段で発行されており、神殿の重要な収入源の一つになっている)
契約書に目を落として、何度も読み返した黒衛門は、顔を上げると泉後に目を合わせた。
「泉後さん。この文の意味は、どういう事なのかね?」
黒衛門は、契約書の一部分を指差した。
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