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【コミカライズ】ノンシリーズ

無口な夫が、私の恋愛小説の台詞を試してきます

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/10/17

 

「今夜は君を帰したくない」


 夕食の皿が下げられたあと、夫が言った。私がお茶を飲んでいる間に、ずいぶん重大な決意をしたらしい。膝の上できちんと揃えていた両手を開き、こちらを見ている。

 私はカップを受け皿へ戻した。縁をぶつけなかった自分を褒めたい。


「帰る、とおっしゃいました?」

「ああ」

「どこへでしょう」


 オスカー様は、居間の扉を見た。その向こうには廊下があり、階段があり、二階には私の仕事部屋がある。

 しかし、ここは私の家でもある。三か月前にアーレンス伯爵家へ嫁いできてから、実家へ泊まりに帰ったことは一度もない。


「仕事部屋へ、だ」

「でしたら、帰すというより、行かせないでは」

「それでは命令になる」


 そこまで聞いて、私は膝の上の指を握り込んだ。

 今夜は君を帰したくない。書いた覚えがある。離宮の露台で、王子ユリウスが令嬢アリナを引き留める場面だ。私が昨夜オスカー様に渡した原稿の、ずいぶん後ろの方にある。


「読んでくださったんですね」

「頼まれたから」

「ええ。会話で不自然なところがあったら教えてくださいと、申し上げましたけれど」

「ここは、不自然だった」


 夫の顔は真面目だった。私は唇を噛んだが、駄目だった。肩が揺れたところを見られ、夫が困ったように眉を寄せるので、余計に笑ってしまう。


「申し訳ありません。だって、王子は、まだ結婚していないんです」

「ああ」

「私はもう、あなたの妻です」

「それは分かっている」


 分かっていて、帰したくないと言ったのか。

 笑いが引いたあとも、私はカップを取り上げられなかった。夫はいつも、夕食が済めば仕事の続きをどうぞと言ってくれる。私も、それではお言葉に甘えてと立ち上がる。廊下で別れるまでの会話は、明日の天気や帰宅の時刻くらいだった。


「もう少し、ここで一緒に茶を飲みたかった」


 オスカー様は、脇の小卓へ視線を落とした。二人分のポットと、まだ手を付けていない焼き菓子が載っている。


「そう言えばよかったな」

「……どうして、私の台詞を?」

「君を仕事部屋から出すための言い方が、分からなかった」

「夕食には、毎日来ています」

「その先の話だ」


 夫は一度口を閉じた。言い直すつもりなのか、カップの取っ手へ伸ばしかけた指を戻す。


「君を口説こうとしている」


 私はようやくお茶を飲んだ。冷めかけていたはずなのに、喉を通るところだけ妙に熱い。原稿には、こういう時の女の子の返事をいくつも書いた。いくつも書いておいて、一つも出てこなかった。

 家同士の紹介で何度か会い、私も望んで結婚した。水門の魔導設備を扱う技師で、父との話はよく弾むのに、私と二人になると口数が減る人だった。婚約中に本の話をした時、長くなってしまった私に、続きをどうぞと言ってくれたのがうれしかった。

 結婚してからも親切だった。執筆を続けたいと話せば、机を置く部屋を一緒に見てくれたし、外出から戻れば玄関まで迎えに来てくれる。私もよい妻になりたくて、彼の話を待ち、用事が済めば長居せず席を立った。

 その夫が、今は私の返事を待っている。


「お茶、もう一杯いただきます」

「分かった」

「そちらに座ってもいいですか」


 向かいの椅子から立ち上がると、オスカー様が長椅子の端へ寄った。一人分以上も場所を空けるので、私は真ん中の少し手前に腰を下ろした。

 今度は、彼がお茶を注いでくれた。袖が触れそうな距離で見ると、右手の人差し指に細い擦り傷がある。昼間の点検で金具に引っかけたのだという。夫の顔を見て話すことに気を取られて、今まで気づかなかった。


「ほかには、どこが不自然でした?」


 私が尋ねると、夫は仕事の報告をする時のように少し顎を上げた。


「抱きしめるところだ」

「どこでしょう」

「片腕で腰を抱いて、もう片方の手で髪を撫でる」

「はい」

「その次の行で、彼は彼女の両手を取っている」


 私は膝の上で、自分の両手を開いた。


「……腕が多いですね」

「途中で、どこかを離す必要がある」


 書いている間は、とてもよい場面だった。ユリウスの仕草もアリナの返事も、私にははっきり見えていた。ただ、腕の数をきちんと数えていなかった。


「明日、そこを見せてください」

「印を付けてある。紙片を挟んだだけだが」

「それで十分です。まだ、赤い字を入れられると泣いてしまうかもしれないので」


 夫の口元が緩んだ。少し遅れて、肩まで動いた。低い笑い声を聞きながら、私は、あの文を書き直すのが楽しみになっていた。

 ポットが空いてもすぐには立たず、彼が明日点検する古い水門の話を聞いた。手で歯車の大きさを示すたび、袖口が私の腕に当たる。途中から、それを避けなくなった。



 火曜の夕食が済むと、オスカー様は赤い紐で綴じた原稿を持ってきた。紙の端が、渡した時より丁寧に揃っている。挟まれた細い紙片は三枚で、私はその少なさにほっとした。

 最初の一枚には、昨夜聞いた腕の問題があった。次は階段の踊り場に立った二人が、いつの間にか露台へ移っている。最後はアリナが何も答えず、ユリウスだけが長く話すところだった。


「ここは、どうして印を?」

「返事をしないから、彼が嫌われたのかと思った」

「感動して、言葉が出ないんです」

「そうだったのか」


 夫は安心したように紙を見直した。私はその顔を見て、余白に小さく、手を伸ばす、と書き足した。何も言えなくても、できることはある。

 それから、腕が三本になってしまった王子のところへ戻った。私が自分の腰に手を回しながら首をひねると、向かいにいた夫が立ち上がった。


「やってみようか」


 私の返事を待っているので、頷いた。紙の上で動かしていた男女の代わりに、自分が立つ。急に裾の位置が気になって、私はドレスを撫でた。オスカー様も上着の釦を一つ外したが、そのあと手を止めた。


「痛かったら言ってくれ」

「抱きしめる場面ですから、痛くはしないでくださいね」

「そのつもりだ」


 左の手が私の腰へ回り、背中に触れた。普段は食卓の向こうにある上着の襟が、すぐ目の前にくる。私は自分の両手をどこへ置けばいいか分からず、しばらく彼の袖を摘んでいた。

 夫の右手が、こめかみの脇の髪に触れた。指先は傷に気をつけるようにゆっくり動く。髪を撫でるとは書いたけれど、これほど耳の近くで布の擦れる音がするとは思わなかった。


「このあと、両手を取る」


 オスカー様は右手を下げ、それから腰に回した左手を離した。ほんの半歩ぶん間が空く。そこでようやく、彼の手が背中に当たっていた場所を、私は自分で意識した。

 両手を取ってもらえば、原稿の動きは確かめ終わる。そう思って腕を出したのに、左の指がまだ上着を摘んでいた。


「セシリア?」

「今、離さないでほしいと思ってしまいました」


 口から出してから、しまったと思った。物語の中ではなく、私が。

 夫は私の手を見た。離れるなら指を解かなければならなかったが、私は解けなかった。彼の左腕が、さっきより少し深く背中へ回る。


「こうか」

「はい」


 今度は私も、彼の背中に手を添えた。私の耳が胸元に届くくらいの差で、顔を上げると彼の顎が近い。よい香りがするのかと思っていたら、いちばんよく分かったのは、温かいことだった。昼の光が抜けた居間で、そこだけ暖炉の近くにいるようだった。

 オスカー様は何も言わなかった。私も、王子の腕をどう書き直すかを忘れていた。しばらくして、廊下の足音が聞こえ、私は慌てて顔を上げた。


「お茶をお持ちしましたが」


 扉の向こうのマルグリットに、夫が少し声を張った。


「少し待ってくれ」


 足音が遠ざかる。私が顔を戻すより先に、彼の手が緩んだ。


「すまない。今のは、少し勝手だった」

「いえ。お茶は、まだ熱いと思います」


 口に出してみると、ひどい返事だった。夫は一瞬黙り、それから私の肩に顔を寄せて笑った。上着越しにその震えが伝わり、私も笑ってしまった。もう、綺麗に立っているどころではなかった。

 お茶を運んでもらう頃には、私の髪の一筋が夫の襟に引っかかっていた。彼がそれを外すのを待ってから、長椅子へ一緒に座った。原稿は私の膝に戻ったが、すぐには開かなかった。


「さっきのところ、もう一度お願いしてもいいですか」

「どこを?」

「腕の数を、確かめない方です」


 夫は原稿を小卓へ移し、そのために空いた私の手を取った。



 木曜、いつもより少し早く帰ってきた夫は、白い薔薇を抱えていた。薄い紙で包んだ、小さな花束だった。玄関で受け取ると、冷たい花弁が頬に触れそうになる。


「白い薔薇を見るたび、君を思い出す」


 私は花の間から夫を見た。彼もこちらを見ていたが、先に視線を逸らしたのは私だった。


「それは、まだ書き直していません」

「覚えていた」

「全部、覚える必要はありませんからね」


 自分の書いた小説が、こんなに危険なものだとは知らなかった。原稿を受け取ってから二日、私は夕方になると、夫が何を言うだろうと考えていた。階段を下りる前に鏡を覗く回数も増えている。

 マルグリットが水を入れた花瓶を用意してくれたので、居間へ飾ってから庭に出た。初夏の日はまだ高く、夕食までには時間がある。私はいつものように半歩後ろへ続きかけて、夫の袖を軽く引いた。


「一緒に歩きましょう」


 差し出された腕に手を添える。歩き始めてから、私の方が少し遅いと分かり、夫が足を緩めた。

 庭の端には、黄色い薔薇が咲いていた。白いものより花びらが厚く、開き切ると、真ん中まで丸く見える。朝、仕事部屋へ上がる前に見るのが好きな花だった。


「私、あれがいちばん好きなんです」


 言ってから、腕に添えた指を動かした。今、白い薔薇をもらったばかりだ。


「今日の花もうれしかったです。お帰りになる時、選んでくださったんでしょう」

「ああ。店で少し迷った」

「どちらと?」

「黄色い方だ。君が庭で見ていたから」


 私は立ち止まった。夫も歩くのをやめる。


「けれど、アリナは白い薔薇を喜んでいた」

「アリナと私は、好みが違うこともあるんです」

「そうらしい」


 オスカー様は黄色い花を見たあと、困ったような、可笑しがっているような顔をした。


「家にいる君に聞けばよかった」

「聞かれたら、お花屋さんまで付いていったかもしれません」

「では、次はそうしてくれ」


 その言い方がうれしくて、私はすぐに頷いた。彼が一人で店先に立って、白と黄色を見比べていたところを想像する。原稿の台詞を覚え、私の顔を見て、それを言うまでに何度か言い直したかもしれない。

 居間へ戻った時、私は花束の包み紙に残っていた短いリボンを見つけた。白い薔薇を一輪だけ花瓶から抜いて、葉の下へ結ぶ。花屋で短く整えられた枝を、夫の上着の胸へ当てた。


「あなたには、白が似合います」


 オスカー様は花を見ようとして顎を引いた。私が笑うと、もう諦めたらしく、上着の襟に手を置いたまま動かなくなる。


「付けても?」

「ああ」


 花を胸ポケットへ差した。小さな白が濃い灰色の上着によく映えたが、それ以上に、何をされているのか気になるのに任せてくれるところが好きだった。


「似合っています。私には、こちらの方が難しいです」

「何が?」

「書くのではなくて、言うのが」


 夫の手が、私の手首に触れた。花を直し終わっても、少しそのままでいた。翌朝、彼は出勤前に、萎れかけた一輪を自分の書斎の小さな瓶へ移していた。



 金曜の夕方、仕事部屋の扉が叩かれた。私が返事をすると、オスカー様が顔を出す。彼は机の上をちらりと見て、入ってもいいかと尋ねた。

 原稿は、火曜より少し厚くなっていた。書き直した紙を上に重ねていたので、赤い紐がそろそろ短い。私は筆を置き、隣の椅子を引いた。


「ちょうど、一区切りしたところです」

「そうか」


 夫は椅子へ腰を下ろした。日が傾き始め、北の窓の外が青みを帯びている。机の左側にある魔石灯へ手を伸ばすと、彼が先につまみを回してくれた。

 この部屋を決める時、午前も午後も紙へ強い日が差さないところがいいと私が言ったら、夫は窓を一つずつ見て回った。灯りも、私が書く手の影が紙に落ちない位置に置いてある。ありがたく使っていたけれど、彼がこの椅子に座ることは、あまりなかった。


「仕事の邪魔ではないか」

「まだ一行も邪魔されていません」


 夫が少し笑ったので、私は机から膝へ手を下ろした。


「明日の夜会のことだ。最初の曲を、私と踊ってほしい」

「ええ。もちろん」


 返事をしてから、私は彼の顔を見直した。夫妻で出席する返事は、ずっと前に出している。馬車もドレスも支度してあるし、最初の一曲は夫と踊るつもりだった。

 それなのに、彼は私の返事を聞いて、ようやく背もたれへ身体を預けた。


「楽しみにしている」


 私は黙ってしまった。あまりにも普通の言葉だった。書こうと思えば、どんな場面にでも書ける。それをオスカー様が、帰宅してから私の部屋へ来て言ってくれた。


「今のは、私の本にはありませんよね」

「ないと思う」

「ご自分で?」

「朝から考えていた」


 私は机に向き直り、紙の端を揃えるふりをした。耳が熱くて、彼の方を向いていられなかった。そんな私を、夫は真面目に見守っている。言葉が出ない時は手を伸ばすと、自分で書き足したばかりだった。

 私は膝の上の彼の手に、自分の手を重ねた。


「私も、楽しみにしています。どんな曲だといいですか」

「速すぎない曲がいい」

「苦手なんですか」

「君の顔を見ている余裕が欲しい」


 重ねた手を引っ込めるわけにもいかず、私は窓の外を見た。黄色い薔薇はこの窓からは見えない。北向きの部屋を選んだことを、初めて少しだけ残念に思った。

 夫は私の指を握り返した。それから紙の隅に描いた丸い図を見つけ、何だろうと尋ねる。私は、ユリウスとアリナが露台で星を見る場面だと答えた。


「星の位置を、適当に書くと怒られそうなので」

「二人は、どちらを向いている?」


 夫は身を寄せた。私が、今度はちゃんと露台へ移動しましたと付け加えると、彼は図の横の一文を読んで笑った。

 星を選んでいるうちに、古い星図投影器の話になった。王都の丘にある旧天文台に、手で軸を回すと丸い天井いっぱいに星が動く装置が残っているのだという。新しいものなら魔石に触れるだけで動くそうだが、夫は古い方が好きだと言った。


「回すと、音がする。歯車が順に噛む音だ」


 そう言って、指先で机に小さな円を描く。私は天井を見上げた。白い漆喰しかないのに、そこを星が動くところを想像できた。


「幼い頃、叔父に連れていってもらった。最初は、あの中に夜空を畳んで入れているのだと思っていた」

「素敵ですね」

「装置の裏を見せてもらってからは、そちらばかり見ていたらしい」

「星は?」

「星も見た。たぶん」


 夫はそう言いながら、ここへ描いていいかと尋ねた。私が紙を裏返して筆と一緒に渡すと、歯車を二つ描き始めた。

 薄い線を引く手つきが丁寧だった。間違えると消すのではなく、その脇へ小さく正しい形を描く。自分の机へ戻れば道具が揃っているはずなのに、私の筆を持って少し窮屈そうに書いている。

 私は装置のことを聞いた。二つ目の質問に答える頃、夫の声が少し高くなった。私が分からないところでは図へ戻り、分かったところは先へ進む。夕食を知らせる声がするまで、彼は一度も会話を急いで終わらせなかった。


「ずいぶん話してしまったな」


 廊下へ出る時、夫が言った。私は彼の腕に手を添えた。


「続きも聞きたいです」


 初めて会った頃、同じ言葉をもらった。その時の私も、こんな顔をしていたのだろうか。夫がまだ説明していない三つ目の歯車の話を始めたので、私は階段の一段目で少しだけ彼を待った。



 土曜、支度を終えて階段を下りると、夫が玄関の方から振り向いた。私は淡い金色のドレスの裾を持ち上げ、最後の段で一度止まった。

 その瞬間、彼が何か言うだろうと思った。原稿に、似た場面がある。けれどオスカー様は黙って、私が下りるのを待っていた。


「変でしょうか」

「いや」


 夫は手を差し出した。私がそこへ指を置くと、彼の視線がようやく顔まで上がってきた。


「よく似合っている。見ていて、言うのが遅れた」


 私は礼を言おうとして、先に笑ってしまった。まだ何も困っていないのに、もうどうしようもなくうれしかった。

 馬車の中では、今夜会う人の名前を二人で確かめた。私は扇を開いたり閉じたりしていたが、夫が指を差し入れて、動きを止めた。扇の骨を触るためではなかった。私は片手に持ち替え、空いた方の手を差し出した。

 会場の大広間には、淡く光る魔石を連ねた灯りが下がっていた。天井の曲面に光が広がり、人が動くたび、床に落ちる影も揺れる。夫は一度だけ灯りの留め金を見上げたあと、私の耳元で、あれは新しい型だと教えてくれた。


「帰るまでに、仕組みを聞いておきましょうか」

「それは、踊ったあとにしよう」


 主催の奥様へ挨拶をして、顔見知りに声をかけられているうち、楽師たちが楽器を構え始めた。夫と仕事の話をしていた男性も気づき、どうぞ、と道を空けてくれる。

 オスカー様が私に向き直った。昨日まで何度も触れた手なのに、こうして差し出されると、私は置き方を考えてしまった。手袋の先を揃え、掌を重ねる。歩き出す前に、彼の指が一度だけ軽く閉じた。

 始まったのは、夫が望んでいたような穏やかな曲だった。私は彼の肩へ手を添えた。背中に回る手の位置が家にいた時と違って、けれど重さは知っている。最初の数歩では周囲の裾を気にしていたが、曲がひと巡りする頃には、夫の顔を見られるようになった。


「余裕はありますか」


 私が小さく尋ねると、彼は頷いた。


「少し」

「では、もう少しこちらを見てください」


 オスカー様が目を合わせた。私の足が半拍遅れ、夫の手に支えられる。自分で頼んでおいて、何をしているのだろう。


「今のは、私です」

「分かっている」


 彼が笑った。つられて私も笑ってしまい、次の一歩は息を合わせて踏み出した。物語の男女には何度も踊ってもらったけれど、相手と目が合うたび、次の足を出すのが惜しくなるようなことは書いていなかった。

 私たちの脇を、青い裾が通り過ぎていった。向こうの鏡に、一瞬、二人の姿が映る。背の高い夫が私の顔を見るために少し顎を引き、私はその人に何か話している。よその仲のよい夫婦を見る時のような気持ちになったあと、鏡の私も笑った。

 曲の終わりで、オスカー様が歩みを止めた。重ねた手はまだ離れない。私が広間の端へ視線をやると、彼が先に尋ねた。


「もう一曲、踊ってくれるか」

「はい。私も、そう言おうと思っていました」


 次の曲は少し速かった。私は大きく回るところで彼の腕を頼り、彼は私が戻るのを待った。声をかけるほどのことでもない小さな動きを、二人でその都度直していく。二曲目が終わった時には、私は扇を広げるより先に、彼の腕へ手を戻していた。

 飲み物をもらってひと息ついたあと、広間に続く画廊へ出た。開いた扉から楽の音が届いていたが、長椅子の置かれた窓際には、ほかに誰もいない。夫が私のグラスも受け取り、脇の小卓へ二つ並べた。


「疲れた?」

「少しだけ。あなたは?」

「まだ踊れる」


 私は扇で自分を扇いだあと、夫にも少し風を送った。彼の前髪が動く。それが可笑しくて、もう一度やると、オスカー様は逃げずに顔をこちらへ向けた。



「今週、よく笑いましたね」


 私が言うと、夫は自分の口元へ手をやった。


「君が笑うから」

「私だけのせいでしょうか。最初に、帰したくないとおっしゃったのはあなたです」

「……あれは、忘れてくれないか」

「嫌です」


 夫が顔を上げた。私は扇を閉じ、膝に置いた。原稿の文字を、彼の声で聞いた夜のことを覚えていたい。どんな甘い言葉より、そのあとに一人で言い直してくれた、茶を飲みたかった、という一言が残っている。


「うれしかったんです。私を引き留めてくださったのが」


 言いながら、膝の扇を握りそうになった。私はそれを小卓へ移した。両手が空けば、まだ少し話しやすかった。


「いつも早く部屋へ戻っていたでしょう。あれは、書きたいからだけではなかったんです」

「うん」

「私、本の話を始めると長くなるので。あなたがお疲れの時まで、止まらなくなったら困ると思って」


 オスカー様は、自分の膝へ肘を置いた。少し身体をかがめたので、彼の目が私と同じ高さに近づく。


「私は、君が困っているのかと思っていた。書きたいのに、私に付き合って座っているのではないかと」

「そんなことは」

「昨夜は、私が長く話した」


 私は頷いた。まだ原稿の裏に、彼の描いた歯車がある。細い線で描いた丸が三つ、余白へ斜めにはみ出していた。


「楽しかったです。あんなふうにお話しになるのを、もっと近くで聞きたかった」


 夫の指が、長椅子の布を一度押した。私が見ていると、彼はその手をこちらへ開いた。


「話すことは、いくらでもある。君が帰ってくる前にも、帰ってきたあとにも、言おうと思っていたことがあるんだが」

「聞きます」

「君が楽しそうだと、それで言いそびれる」


 私は彼の手に、自分の指を重ねた。うまく返事ができなかったから、今度は顔を背けなかった。オスカー様は私の手を包んだまま、少し待ってくれた。


「私、あなたのことが好きです」


 声は思ったより小さかった。それでも夫に届いた。彼が私の手を握り直したので、私は続けられた。


「お部屋や灯りを用意してくださった時も、うれしかったです。でも、昨日、私の部屋で窮屈そうに図を描いていらしたでしょう。あのあと、夕食へ行くのが少し惜しかった」


 夫は私を見ていた。今度は私が、続きをどうぞと言ってもらう前に話した。


「また来てください。書いていて返事が短くなる日もあると思いますけど、お茶を飲みたい時は誘ってほしいんです。私からも行きます」

「来てほしい」


 彼の返事は早かった。


「何も面白いことを言えない日でも」

「昨日の歯車の続きを、まだ聞いていません」


 オスカー様が笑った。私が好きになった笑い方だった。声を出す前に目の端が少し下がり、それから口元が緩む。


「好きだ。セシリア」


 私は重ねた手を見た。自分の手袋の縫い目が、ほんの少し曲がっている。それを直している場合ではないと分かっていても、夫を見たらまた何も言えなくなりそうだった。

 頬に指が触れた。顔を上げると、彼はすぐ近くにいた。


「近づいてもいいか」


 今度は私は、頷くだけで済ませなかった。彼の肩へ片手を置き、自分から少し身体を寄せた。

 口づけは短かった。唇が離れたあと、息を吸うと、開いた窓から入る風が頬を冷やした。私はまだ彼の肩へ手を置いていた。オスカー様も、すぐには離れなかった。


「もう一度」


 言えた自分に驚いているうちに、夫の手が背中へ回った。二度目は、私も途中で目を開けなかった。

 広間の方で拍手が起こった。私たちは少し驚いて離れ、それが曲の終わりへの拍手だと分かると、声を抑えて笑った。扇を持ち上げて顔を隠そうとしたら、夫に手を取られていて届かない。


「オスカー」


 呼んでみた。様を付けずに呼ぶと、彼ははっきりとこちらを向いた。


「明日、天文台へ行きませんか」

「明日?」

「昨日の投影器を、見てみたいんです。裏側も」


 夫の顔が明るくなった。私はその顔が見たかったのだと思い、自分も少し前へ身を乗り出した。


「日曜なら、午後二時から装置の説明がある。私は休みだが、君の原稿は大丈夫か」

「午前中に書きます。二時には天文台に着けるようにしましょう」

「ああ。馬車なら、家を一時半に出れば余裕がある」

「それで、星もちゃんと見ましょうね」

「今度は、そうする」


 私は昨日の、たぶん、と言った彼を思い出して笑った。手を繋いだまま立ち上がり、広間へ戻る。夜はまだ続いていた。途中、夫が天井の魔石灯を見上げたので、私から、あの留め金のことを聞いてみた。彼は私の手を握り直し、空いた方の手で形を示してくれた。

 帰りの馬車でも、その話の続きになった。私が尋ね、夫が答え、ときどき私の説明が足りなくて、二人で窓枠や馬車の灯りを指差す。家へ着いた時、まだ言いかけのことがあった。

 玄関で外套を預けると、マルグリットが、居間へお茶をお持ちしましょうかと尋ねた。私は夫を見た。彼も私を見ていた。


「二人分、お願いします」


 私が頼むと、夫の指がもう一度、手袋越しに私の指を探した。私は先に掴み、居間へ続く廊下へ彼を引いた。


「今夜は、私がお引き留めします」


 オスカーは笑って、少しだけ歩くのを速めた。

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