妻の座なら、差し上げましょう
「私、思いを寄せている殿方がいますの」
王都の外れにある、小さな喫茶店。
その二階の個室で、ヴィオレット・ベルナール子爵令嬢はそう切り出した。
向かいに座る女性は、静かに紅茶を口へ運んでいる。
艶やかな黒髪に、涼しげな紫の瞳。
身につけているドレスは質がいいが、派手さはない。
彼女の名はフェリシテ・クローヴェル。
困り事を抱えた女性の相談に乗っているらしい――。
そして、鮮やかな手腕でその相談を解決しているという噂の人物だ。
「ご相談でしたら、私は席を外しましょうか」
そう口を開いたのはヴィオレットでもフェリシテでもない。その場にいた先客だ。
栗色の髪の小柄な女性だった。
だがヴィオレットは、気にする様子もなく言った。
「構いませんわ。別に、聞かれて困るような話ではありませんもの」
「……そうですか」
栗色の髪の女性は、立ち上がりかけていた腰を下ろした。
フェリシテは続きを促すようにヴィオレットへ視線を戻す。
「思いを寄せている殿方についてお聞きしても?」
「アルマン・エルヴェ子爵様です。社交界でも評判になるほど素敵な方ですから、フェリシテ様もお名前くらいは耳にされたことがあるのではないでしょうか」
ヴィオレットは、そこで自分の胸元へ手を添えた。
紫水晶を連ねた首飾りが、窓から差し込む光を受けて輝いている。
「こちら、アルマン様からいただいたものですの」
「まあ」
「私たちは愛し合っています」
迷いのない口調だった。
ヴィオレットがアルマンと知り合ったのは、一年ほど前の夜会である。
二人はすぐに意気投合した。
それから、観劇や晩餐に連れ立つなど二人はしばしば同じ時間を過ごしているのだという。
「アルマン様は、私といる時が一番楽しいと仰ってくださいます。けれど……」
そこで、ヴィオレットの表情が陰る。
「アルマン様には、クラリスという名の奥方がいらっしゃいます。ですが、お二人の結婚は親同士が取り決めたもの。互いに想い合って結ばれたわけではありません」
「クラリス様というのは、どのようなお方なのでしょう」
「はっきり言って……地味でつまらない女です」
ヴィオレットは鼻で笑った。
ヴィオレットとクラリスは、娘の頃から何度も茶会で顔を合わせている。
「昔からそう。今だって、何をするにも細かなことを気にしてばかりで」
「細かなこと?」
「アルマン様がお金を使うたびに、口を出すんですの」
新しい馬を買おうとすれば反対する。
礼服を仕立てようとしても、去年のものがあるでしょうと言う。
友人達を招いて晩餐会を開こうとすれば、今月は余裕がないから控えてほしいと頼む――そんな例を出しながら、ヴィオレットはうんざりしたように言葉を続ける。
「アルマン様は子爵家の当主なのですよ? その程度のお金を使うたびに、妻から小言を言われるなんて。あまりにもお可哀想ですわ」
「なるほど」
「私でしたら、決してそのような事は言いません。見た目だって、地味なクラリスより私の方がアルマン様と釣り合いがとれますわ。アルマン様自身も、いずれクラリスと離縁して私を妻にしてくださると仰ってくださっています。けれど――」
だが、その言葉を聞いてから半年が過ぎても、アルマンはクラリスとの離縁話を進めようとはしない。
ヴィオレットが問いかけるたびに、
『今は時期が悪い』
『家同士の問題もある』
『もう少しだけ待ってほしい』
同じような答えが返ってくるばかりだ。
「――それで、困っているのです」
ヴィオレットは身を乗り出した。
「きっと、クラリスが邪魔をしているんです」
「クラリス様ご本人が、離縁を拒んでいらっしゃるのですか?」
「詳しくは知りませんわ。お屋敷に乗り込んで、クラリスに問いただす訳にもいきませんし」
「では、どうしてクラリス様が邪魔をしていると?」
「だって、そうとしか考えられませんもの」
あまりにも当然のこととして、ヴィオレットは言った。
「ですからフェリシテ様。クラリスを退かせる良い方法を考えてくださいませんか?」
フェリシテはしばらくヴィオレットを見つめた後、ゆっくり頷いた。
「分かりました。わたくしにできる限りのことはいたしましょう」
◇
ヴィオレットを見送った後、先ほどの小柄な女性――リディアという名の元伯爵夫人が、ためらいがちに口を開いた。
「……本当に、あの方のお手伝いをなさるのですか?」
リディアも以前、悩み事を抱えてフェリシテを頼ったことがある。
今日はそのときの礼を伝えに訪れていたのだが、そこへヴィオレットが姿を現したのだった。
「あの方は、人のご主人を奪おうとしている――そんな風に、私には聞こえました」
「そのようですね。ですが、ヴィオレット様のお話だけでは、まだ本当のところは分かりません。クラリス様が本当に離縁を妨げていらっしゃるのか。それとも、ほかに理由があるのか。まずは、アルマン様がなぜ離縁なさらないのかを確かめてみましょう」
◇
数日後。
フェリシテは、エルヴェ子爵家の領地を訪れていた。
王都から馬車で三日ほどの場所にある丘陵地帯の川のほとり。そこに、子爵家の屋敷が建っていた。
ヴィオレットの名を出して面会を申し込むと、アルマンはすぐに応じた。
通された客間で待っていると、ほどなくアルマン・エルヴェ子爵が姿を現す。
二十代後半の、見栄えのする男だった。濃い茶色の髪はきれいに整えられ、身につけている服も一目で上等なものだと分かる。
形式通りの挨拶の後、フェリシテが切り出す。
「ヴィオレット様から、アルマン様との関係についてご相談を受けました」
「ええ。こちらも、彼女から聞いていますよ。あなたにご相談したと」
「ヴィオレット様は、あなたとのご結婚を望んでいらっしゃるようですね」
フェリシテがそう告げると、アルマンの口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「僕も、彼女とは相性がいいと思っています。一緒にいると本当に楽しくて、時間が経つのがあっという間で」
しかし、すぐにアルマンの笑みが陰る。
「僕の妻、クラリスとは大違いです。彼女は……本当に小言ばかりうるさくて」
「では、いずれヴィオレット様とご結婚なさるおつもりなのですか?」
「そのつもりです。あまり、大っぴらには言えませんがね」
アルマンは悪びれる様子もない。
「でしたら、なぜ今もクラリス様との婚姻を続けていらっしゃるのか。伺ってもよろしいですか?」
「離縁と口にするのは簡単ですが、それを実行に移すとなると……」
「離縁の妨げになっているのは、家同士のつながりや財産の所有権などに関する問題でしょうか」
「いえ、そこは問題ありません。ただ……」
アルマンは、ためらいがちに続ける。
「クラリスは、金についてうるさいことを除けば妻として非難されるような落ち度がありません。使用人や出入りの商人からの評判もいいですし」
「それが問題なのですか?」
「落ち度のない妻を、ほかの女性と結婚したいという理由で捨てたと思われれば……僕が世間から非難されてしまうでしょう」
「ヴィオレット様も、他人の夫を奪った女性だと思われるかもしれませんね」
「僕とクラリスの関係は、ヴィオレットと出会う前から冷えていました。それなのに、まるでヴィオレットが原因で夫婦仲が壊れたように思われるのは困る」
「つまり、クラリス様との婚姻を続けたいわけではない。ただ、新しい妻を迎えるために妻を捨てた夫とは思われたくないのですね」
「ええ、まあ……」
アルマンは、渋い顔をしながら頷いた。
「クラリス様へ、正式に離縁を申し出たことはないのですね?」
「はい。まだ、そこまでは」
離縁は、クラリスに妨げられて進まないのではない。
アルマン自身が、正式な話を何一つ始めていなかったということだ。
「よく分かりました。次は、クラリス様のお考えを伺わせてください」
◇
アルマンとの話を終えた後、フェリシテは別の客間でクラリス・エルヴェ子爵夫人と会った。
「お待たせして、申し訳ありません」
そう言って姿を現したクラリスは、ヴィオレットが話していた通りどこか控えめな印象の女性だった。
ひとしきり挨拶を済ませると、フェリシテは客間のカーテンへ目を向ける。
白い布地に、青と紫の花々が刺されている。
花弁の重なりや葉の濃淡まで細い糸で表されている、手の込んだ品だった。
「素敵な刺繍ですね」
その言葉に、クラリスの表情がわずかに明るくなる。
「ありがとうございます」
「ずいぶん手の込んだものですね」
「ええ。時間はかかりましたけれど、そのぶん愛着もあります」
「では、クラリス様がお作りになったのですね」
「ええ。娘の頃から、刺繍が好きで……」
そう言ってから、クラリスは少し照れたように続けた。
「作るのも好きですけれど、人に教えるのも好きなんです。近くに住んでいる方から頼まれて、時々一緒に刺すことがありまして」
「まあ。では、刺繍教室の先生でもあるのですね」
「そんな大層なものではありません。月に一、二度、知り合いに教えている程度ですから」
そう話すクラリスの声は、わずかに弾んでいた。
だが間もなく、年配の執事が客間の扉に姿を現す。
「奥様。お話し中のところ恐れ入ります。急ぎご判断いただきたい件がございます」
クラリスはフェリシテへ向き直った。
「申し訳ありません。少しだけよろしいでしょうか」
「もちろんです」
フェリシテが頷くと、クラリスは執事へ続きを促した。
「ロヴェール商会から、今月分のお支払いについて、急ぎ返事が欲しいとのことでございます」
クラリスは書状と帳面を確かめると、すぐに答えた。
「予定どおりお支払いしてください。東側の農地から小麦の代金が入れば、今月の資金にはある程度の余裕ができます」
「かしこまりました」
執事が下がるのと入れ替わるように、今度は別の使用人が報告書を持ってきた。
「奥様。北側水路の本修繕について、工事の範囲を決めていただきたいとのことです」
「見積もりが二通ありますね。今後の支出にも関わりますから、これはアルマン様にもご覧いただかなければなりません」
ちょうどその時、客間の扉が開いた。
「クラリス、少しいいかい?」
姿を現したのはアルマンだった。クラリスへ声をかけた彼は、そこで客間にフェリシテがいることに気づいた。
「フェリシテ様。まだいらしたんですね」
「ええ」
アルマンはそれ以上気に留める様子もなく、クラリスへ視線を移した。先に口を開いたのはクラリスの方だった。
「ちょうどよかったです。アルマン様。水路の修繕について、どちらの工事を選ぶかご相談したいのですが」
「そういうことは、君に任せているだろう。必要な方を選べばいい」
「費用が大きく異なります。安い方では、雨季を越せる保証がありません」
「なら、高い方にすればいい」
「その場合は、他の支出を減らさなければなりません。何を優先するのかは、当主であるあなたに決めていただかなければ――」
「細かな話は後にしてくれないか。これから出かけるんだ」
アルマンは報告書を見ようともせず、自分が持ってきた別の書類をクラリスへ差し出した。
「こちらも、今日中に処理しておいてほしい」
クラリスの表情が陰る。
「ですが……。今日は、これから刺繍を教えるお約束がございます」
「刺繍なら、別の日でもできるだろう?」
「今日いらしていただくお約束をしています。こちらの都合で、急に日を改めていただくのは申し訳ありません」
「こちらはエルヴェ子爵家の仕事なんだ。どちらを優先すべきかくらい、分かるだろう」
その時、廊下から明るい声が聞こえてきた。
「アルマン様。まだですの?」
客間へ姿を現したのは、アルマンと観劇へ出かけるため屋敷まで迎えに来たヴィオレットだった。華やかなドレスの胸元では、先日の紫水晶の首飾りが輝いている。
彼女はフェリシテがいることに気づき、声をかける。
「まあ、フェリシテ様もいらしていたのですね」
「ええ。クラリス様にお話を伺っておりました」
「そうでしたの」
その口角がわずかに上がる。
「『あの件』、よろしくお願いしますね――フェリシテ様」
そう言って、ヴィオレットはアルマンへ視線を戻した。
「もう出られますでしょう?」
「ああ。僕もそのつもりだったんだけどね」
アルマンは困ったように、クラリスの前に置かれた報告書へ目をやった。
「クラリスが、水路のことで僕に決めてほしいことがあると言うんだ」
「水路?」
「修繕に金がかかるらしくてね。どこまで直すかだとか、その代わりに何を減らすかだとか。そういう細かな話さ」
ヴィオレットは、クラリスへ視線を向けた。
「そのようなことで、アルマン様をお引き止めしていらしたの?」
「金額の大きなことですから、当主であるアルマン様にも確認していただきたいのです」
「でも、そのようなことでしたら、クラリスが決めればよろしいのではなくて?」
「もちろん、私に判断できることはしております。ただ、今回は今後の支出にも関わりますから――」
そこで、アルマンが割って入る。
「君に任せると言っているんだから、それでいいだろう?」
アルマンはうんざりした様子で、ヴィオレットへ向き直った。
「それにクラリスはこの後、刺繍を教える約束があるそうなんだ」
「刺繍?」
ヴィオレットがわずかに眉を上げ、クラリスを見る。
「ええ。今日いらしてくださる方々と、以前からお約束しています」
「それで、お仕事をアルマン様へ押し付けようとなさっていたの?」
「押し付けるということではありません。必要な判断を――」
「ですが、クラリス」
ヴィオレットは、諭すような口調で言った。
「刺繍はお好きな時にできるでしょう? 今は、お家のことを優先なさるべきではありませんか?」
クラリスは黙った。ヴィオレットは、畳みかけるように言葉を続ける。
「アルマン様には、さまざまなお仕事がおありなのです。こういう細かなことまで、いちいちお手を煩わせるのはお可哀想ですわ」
その言葉にアルマンは当然のように頷き、自分が持っていた書類をクラリスへ差し出した。
「頼むよ」
クラリスは二人の顔を見た後、黙ってその書類を受け取った。
「……分かりました」
「では、行ってくる」
「ええ。急ぎましょう、アルマン様」
二人は楽しそうに会話を交わしながら、客間を出ていった。
クラリスはしばらく、二人が出ていった扉を見つめていた。
やがて使用人を呼び、今日刺繍を教える予定だった者たちへ、時間を取れなくなったことと、その詫びを伝えるよう頼んだ。
「よろしいのですか?」
フェリシテが尋ねる。
「家の仕事の方が……優先ですから」
クラリスはわずかに肩を落とした後、改めてフェリシテへ向き直った。
「申し訳ありません。せっかくお越しいただいたのに、フェリシテ様とのお話を中断してしまって」
「お気になさらないでください」
フェリシテはそう答えた後、少し間を置いて続けた。
「むしろ、おかげでクラリス様のお立場について、少し分かったような気がいたします」
「私の立場、ですか?」
「ええ。クラリス様もご多忙でしょうから、回りくどいお話は抜きにいたしましょう」
「はい」
「アルマン様とヴィオレット様は、以前からあのように親しくしていらっしゃるのですか?」
「……ええ、そうです」
「お二人の関係について、アルマン様から何か言われたことは?」
「一度だけあります。気が合う友人だ――と」
むろん、ただの友人などではないことはクラリスも理解している。
「ですが、アルマン様はヴィオレット様に、いずれあなたと離縁して妻にすると約束していらっしゃいます」
「……そうなのですか?」
「もしアルマン様から正式に離縁を求められたら、どうなさいますか?」
クラリスはわずかに思案した後、静かに答えた。長く迷わなかったところを見ると、その可能性は以前から頭にあったのだろう。
「受け入れます。愛されてもいない方に、縋るつもりはありませんから」
「では、クラリス様の方から離縁を申し出ることは?」
「私から申し出ても、受け入れていただけるとは思えません」
「なぜ、そう思われるのですか?」
「以前、ヴィオレット様との関係について話題になった際、私と離縁するつもりはないとはっきり言われました。下手な形で離婚に踏み切れば、両家の恥になる……とも」
クラリスは、何かを堪えるように、静かに顔を伏せた。
フェリシテは、伏せられたクラリスの顔から、静かにカーテンの花々へ視線を移す。
「クラリス様は……心から、刺繍がお好きですか?」
話題が変わったことにクラリスは戸惑いをみせる。
「刺繍、ですか? それは……もちろん」
「作品を作ることも、人へ教えることも?」
「はい。どちらも好きです」
「では、もしそれが仕事になるとしたら?」
「刺繍を……仕事に?」
「刺繍を教え、作品を作ることで、この家を離れても暮らしていけるとしたら。もしそれでアルマン様も納得するとしたら。クラリス様は、その道を選びたいと思われますか?」
クラリスは、すぐには答えなかった。
夫人としてこの家を支える以外の人生など、考えたこともなかったのだろう。
「本当に、刺繍で暮らしていけるのでしょうか?」
「まだ分かりません」
フェリシテは正直に答えた。
「ですから、クラリス様さえよければ、それをこれから確かめましょう」
クラリスは、カーテンに刺された花々を見つめた。
「もし本当にできるのでしたら……」
そして、小さく頷いた。
「挑戦してみたいです」
◇
フェリシテには、以前から親しく付き合っている公爵夫人がいた。
ラングレー公爵夫人。
刺繍や服飾に造詣が深いと評判の人物である。すっと伸びた背筋と澄んだ眼差しに、凛とした気品を漂わせる女性だ。
もともと刺繍は、貴族女性の嗜みの一つとして広く親しまれている。加えて近年は、王妃が刺繍を好んでいることから王都の令嬢たちの間でも以前にも増して人気が高まっていた。
ラングレー公爵夫人は、そうした流行以前から刺繍や服飾を好んできた一人である。
王都へ戻ったフェリシテは、クラリスから預かった刺繍を手に彼女の屋敷を訪ねた。
「今日は、こちらを見ていただきたくてお持ちしました」
フェリシテは、持参した刺繍を広げる。
公爵夫人は布の上へゆっくりと視線を巡らせる。
「見事ですね。どなたがお作りになったの?」
「クラリス・エルヴェ子爵夫人です。昔から刺繍がお好きで、近頃では知り合いの夫人や令嬢へ教えることもあるそうです」
「そうですか」
「一度だけ、実際に教えるところを見ていただけませんか? もし教える腕も確かだとお認めいただけましたら、刺繍を好む方々へご紹介いただきたいのです」
公爵夫人はフェリシテの顔をじっと見つめる。
『相変わらず、色々なことに首を突っ込んでいるのね』。そう言いたげな表情だ。
「よろしいでしょう。一度、私の娘に教えていただきます。指導ぶりも確かでしたら、心当たりのある方々へ私から声をかけましょう」
「ありがとうございます」
「ただし、それ以上のことは、その時の様子を見てからです」
「もちろんです」
◇
それからしばらく後。
フェリシテを通じて日程を調整し、クラリスは一日だけ王都を訪れた。
屋敷や領地の仕事を前もって整理し、急ぎの用件が出た場合にも家令が対応できるよう、必要な指示を残してきた。それでも、翌日には領地へ戻るため王都を発たなければならない。
公爵家でクラリスは、公爵夫人の娘に刺繍を指導した。
「また変な方向に曲がってしまったわ」
令嬢は、自分が刺した花の茎を見て顔をしかめた。一か所だけ、あらぬ方向へ曲がってしまっている。
「全部やり直さなくちゃ……」
「いいえ。ここまでは綺麗にできていますよ」
クラリスは布の一か所を指差した。
「このあたりを二、三針ほどいてみましょう。曲がるところは、もう少し針目を短くすると綺麗に沿いますよ」
令嬢は言われた通りに糸を抜き、もう一度針を通す。
「あ……真っ直ぐになった」
「その調子です」
そうして授業が終わる頃には、小さな刺繍の花が一輪出来上がっていた。
「お母様、見てください」
令嬢は嬉しそうに布を掲げた。
「素敵ですね」
公爵夫人も満足そうに頷き、クラリスへ顔を向けた。
「クラリス・エルヴェ子爵夫人。もしよろしければ、今後も娘の指導をお願いできますか? もちろん、正式に謝礼をお支払いします」
さらに公爵夫人は、娘の友人の中に刺繍を習いたい令嬢が三人いることを伝えた。
「もしお引き受けいただけるのでしたら、ぜひその方々にも教えていただけませんか?」
クラリスはすぐには答えなかった。
今のまま領地で子爵夫人を続けながらでは、定期的に王都へ通うことはできない。
だが、もしあの家を離れることになれば、刺繍で暮らしていくための現実的な足掛かりになる。
「ありがとうございます。大変ありがたいお話です」
クラリスは感謝を込めて、公爵夫人へ一礼した。
「ただ、今の私には、すぐにお返事をすることができません」
「そうでしょうね」
「今後のことが決まりましたら、改めてお返事をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
◇
公爵家を辞した後、クラリスは喫茶店でフェリシテと向かい合っていた。
「今日はいかがでしたか?」
「楽しかったです」
クラリスは迷わず答えた。一時とはいえ、家のことを全て忘れ刺繍に没頭できた。いったいそれは、いつぶりだっただろう。
フェリシテは問いかける。
「また、このような時間をお過ごしになりたいと思いますか?」
「はい」
「そのために、アルマン様との婚姻を終えることになっても?」
クラリスはしばらく考えた後、はっきりと頷いた。
「はい。私は、刺繍を続けてみたいです」
◇
エルヴェ子爵家の客間にて。
フェリシテはアルマンとヴィオレットに、クラリスがラングレー公爵夫人から刺繍の教師として求められていることを告げた。
「刺繍教師? いいお話ではありませんか」
フェリシテから話を聞いたヴィオレットは笑みを見せた。だが、そこには露骨な嘲りが滲む。
「刺繍を教えて暮らすなんて、地味なクラリスにはぴったりだわ」
隣に座るアルマンも、安堵した様子を見せている。
「クラリス自身が王都で暮らすことを望んでいるのであれば、話はずいぶん違ってくる」
フェリシテは頷いた。
「クラリス様はご自分の意思で子爵夫人としての生活を離れ、刺繍を仕事として生きる道を選ぶ。アルマン様は、その望みを尊重して送り出す。そういう形であれば、双方が納得した上での離縁として説明できるでしょう」
「それなら、僕がヴィオレットと結婚するためにクラリスを追い出したとは思われずに済む」
「ただし、当然のことながら……クラリス様がこの家を離れた後は、家や領地の仕事を頼むことはできません」
フェリシテは二人の顔を順に見た。
「クラリス様がいらっしゃらなくても、問題はございませんね?」
「当然ですわ。これからは私がアルマン様の妻になるのですもの。クラリスなどいなくても、家のことくらい取り仕切ってみせます」
「必要なことは、僕とヴィオレットで決められます」
「これでようやく、クラリスを追い出せますわね」
ヴィオレットはそう言って、アルマンに視線を送った。
「ああ。クラリスも好きなことをして暮らせるんだ。これなら誰も困らない」
アルマンも、当然のことのように頷いた。
フェリシテは二人の様子をしばらく見つめ、それから口を開く。
「では、クラリス様との離縁のお話を進めましょう。よろしいですね?」
「お願いします」
アルマンは、迷うことなく頷いた。
◇
数日後。子爵家の執務室。
そこには離縁のための書類が用意されていた。アルマンが署名し、クラリスもそれに続いた。
「家を出るまでに、帳簿や領地のことはすべて引き継ぎます」
クラリスはペンを置き、アルマンとヴィオレットを見た。
「ですが一度エルヴェ家を離れた後は、こちらの問題に責任を負うことはできません。分からないことがあっても、戻ってお手伝いするのは難しくなります」
「必要なことを、書類にして残してくれれば十分だ」
アルマンは、面倒そうに答えた。
「これからの子爵夫人は、私です」
ヴィオレットが口を挟む。
「前の奥様がいつまでも家のことに関わっていては、私も困ります。引き継ぎが済んだ後は、エルヴェ家のことには口を出さないでくださいませ。あなたなどいなくとも――問題ありませんから」
勝ち誇ったように告げるヴィオレット。
「……分かりました。では、必要な引き継ぎだけを済ませます」
クラリスはそう応じると、あらかじめ用意しておいた引継ぎ用の書類を差し出した。
商人への支払い、使用人の給金、領地から届いている報告、今後予定されている修繕。
いつまでに何を処理しなければならないのかを書類にまとめ、ヴィオレットへ一つずつ説明していく。
「ロヴェール商会への今月分の支払いは、すでに済ませてあります。次回の支払予定はこちらにまとめてあります」
「ふぅん……まだ余裕がありますわね」
「それから、東側の農地から小麦の代金が入る予定です。北側水路の本修繕に必要ですから、その分を残しておいてください」
クラリスは帳簿の該当箇所を指した。
「残った分で、来月以降の支払いをしていけば問題ありません」
「はいはい」
ヴィオレットは、軽く頷いた。
「まあ、家令や執事もいますし……細かなことは、その方達に聞けば分かりますわね」
「ただ、何にお金を使うのかを最後に決めるのは――」
「その時になったら、私とアルマン様で決めます」
ヴィオレットは自信たっぷりに言った。
一方、アルマンは引き継ぎの書類にほとんど目を通そうともしなかった。
必要なことは伝えた。
クラリスは最後に使用人たちとも確認を済ませ、すべての書類を屋敷へ残した。
そして、自分の荷物と刺繍道具を持ってエルヴェ子爵家を去った。向かうのは王都だ。
ラングレー公爵夫人の後援を受け、刺繍の師範として暮らしていくための準備はすでに整っている。
◇
離縁は、互いの将来を尊重した上での円満なものとして社交界へ発表された。
クラリスは子爵夫人の立場を退き、刺繍教師として自立する道を自ら望んだ。アルマンもその決意を尊重し、双方の合意によって婚姻を解消した――という形である。
ヴィオレットとの関係を疑う者がいなかったわけではない。しかしクラリスが自ら望んで王都で新しい生活を始めた以上、アルマンが愛人のために妻を追い出したと公然と非難されることはなかった。
そして頃合いを見計らい、アルマンとヴィオレットは再婚の準備を始めた。
ちょうどその頃、まるで二人の結婚を祝福するかのように東側農地から小麦の代金が入った。アルマンは、その大半を結婚式の資金に充てることに決めた。
「よろしいのですか? こちらは、北側水路の本修繕に充てるようクラリス様から申し付けられておりますが……」
子爵家に仕える家令はそう念を押した。
「クラリスはもうこの家にいない。だいたい、水路の修繕は雨季までに間に合わせればいいんだろう?」
「はい。しかしそれほど使えば、本修繕に必要な額を残すことができません」
「まだ時間はある。先に婚礼の支払いへ回してくれ」
「そうですわ。貴族家の婚礼をみすぼらしくするわけにはまいりませんもの」
ヴィオレットもその判断に賛成した。
こうして、本来は北側水路の本修繕に使われるはずだった小麦の代金は、その大半が婚礼の費用へ回された。
それからしばらく後、二人は結婚式を挙げた。
結婚後の一月ほどは、二人の思い描いていた通りの日々が続いた。
アルマンは新しい馬を買い、礼服を仕立てた。ヴィオレットも子爵夫人にふさわしいドレスや宝石を揃え、友人達を招いて何度も晩餐会を開いた。手元の金では足りない分はいずれ領地の収入から払えば良いと、二人とも掛け払いにした。
「やはり、君と結婚してよかった」
アルマンは上機嫌だった。
「クラリスとは大違いだ。君は、僕が何をしても小言を言わないからね」
「当然ですわ。あなたには、ご自分にふさわしい暮らしをしていただきたいですもの」
ヴィオレットも満足していた。
自分の正しさが、ようやく証明されたのだと思っていた。
◇
「奥様。今月のお支払いについて、ご判断いただきたいことがございます」
ある朝。家令が数枚の書類を持ってヴィオレットのもとを訪れた。
「ロヴェール商会への今月の支払いと、北側水路の本修繕が重なっております。現在ある資金では、どちらか一方にしか充てられません」
「小麦の代金が入ったでしょう?」
「大半は婚礼の費用として消えました。残った分を含めても、今ご用意できるのはこちらの額だけでございます」
「それでしたら、領主であるアルマン様にお決めいただいて」
「旦那様からは、家のことは奥様へ任せていると伺っております」
「……でしたら、あなたが決めて。この家に長年仕える使用人なのだから、あなたにだって判断できるでしょう?」
「商会との約束を破るか、水路の本修繕を延期するかは、私の権限では決められません。商会を優先すれば水路が雨季に耐えられない恐れがあり、水路を優先すれば、商会から今後の取引を断られる可能性がございます」
家令は事情を把握した上で、ヴィオレットに判断を求めていた。
こういった判断は、使用人が決定できる範囲を超えている。
当主、もしくは当主の代理を務められる人物――すなわち、ヴィオレットが決定しなければならない。
「では、商会にもう少し待つよう伝えなさい」
「かしこまりました。では、現在ある資金は水路の本修繕へ――」
「……ちょっと待って。アルマン様と私が仕立てた衣装や、晩餐会の支払いも残っているのでしょう? 今あるお金は、そちらへ回して」
「それでは商会への支払いだけでなく、水路の本修繕も延期することになります」
「水路は、雨季までに直せばよいのでしょう? そちらも来月にしなさい」
「かしこまりました。いつまでお待ちいただくようお願いすればよろしいでしょうか?」
「来月まででいいでしょう」
「来月の、どの収入からお支払いなさる予定でしょうか」
「そんなことまで決めなければならないんですの?」
「先方へ支払いをお待ちいただく以上、いつ、どのようにお支払いするのかをお伝えする必要がございます」
「……ああもう、面倒ね」
ヴィオレットは苛立ちながら、クラリスが残した引き継ぎ書を開いた。全て、クラリスから説明されているはずだ。だが、まともに聞いていなかったヴィオレットでは、必要な事柄がどこに書いてあるのかさえ、すぐには見つけられない。
結局ヴィオレットは、今後入るはずの収入を当てにして支払日を決め、その旨を記した返書へ署名した。
◇
その後も、家や領地の仕事は毎日のようにヴィオレット達のもとへ持ち込まれた。
それに加え、今まで掛け払いにしていた品々の支払期限も、次々と迫ってくる。
しかし、ヴィオレットには、そのための資金をどこから捻出すればよいのか分からない。
ヴィオレットがアルマンへ判断を求めると、アルマンは「君に任せる」と言って書類を返す。そんなことをしている間にも、支払の時期は過ぎていった。
ロヴェール商会は、ヴィオレットの署名した返書を受けて一度だけ支払いを待った。
しかし、新たに約束した日にも金は用意できなかった。
「クラリスの頃は、支払いを待ってくださったこともあったでしょう!?」
支払いを求めて屋敷を訪れた商人へ、ヴィオレットは不満をぶつけた。
「クラリス様は、どの収入からお支払いいただけるのかを示し、約束の日を守ってくださいました。今のエルヴェ子爵家様には……大変失礼ながら、次のお約束を守れる根拠がございません」
「私の言葉では信用できないと!?」
「すでに一度、お約束を守っていただけませんでしたので」
慇懃な態度の中に秘められた棘のあるその言葉に、ヴィオレットは何も言い返せなかった。
その夜、彼女は初めて帳簿を真剣に調べた。
自分が仕立てたドレスや、晩餐会のために買い入れた酒と食材の代金が、まだいくつも残っている。それらを追ううちに、見覚えのある品名が記された一枚の請求書を見つけた。
そこには、『紫水晶の首飾り』と記されていた。
アルマンから愛の証として贈られ、今もヴィオレットの胸元を飾っている品だ。
だが、代金はまだすべて支払われていなかった。
さらに帳簿には、残金をいつ払うのか、クラリスが宝石商と交渉した記録まで残されている。
「……嘘でしょう」
誰への贈り物か、おそらくクラリスも知っていたはずだ。それでも子爵家の名で生じた債務である以上、支払いを放置することはできなかったのだろう。
そしてアルマンは、贈り物の代金を払うための金さえ、自分で用意していなかった。
ヴィオレットへ首飾りを渡した後、支払いについての交渉までクラリスに任せていたのだ。
「アルマン様!」
ヴィオレットは請求書を掴み、夫の部屋へ飛び込んだ。
「この首飾りは、まだ代金が残っているではありませんか!」
「ああ。まだだったのか」
「まだだったのか、ではありません! 支払いの処理をクラリスに任せたまま、私へ贈ったのですか?」
「家の金で払えば同じことだろう」
「その家に、払うお金がないのです!」
本来なら、首飾りの残金も領地の収入から計画的に支払われるはずだった。だが、婚礼とその後の浪費を優先したため、手元にはもう支払える余裕が残っていなかった。
「それをどうにかするのが、家計を預かる妻の役目じゃないか。クラリスは、ちゃんとやってくれていたけどね」
「私はクラリスではありません!」
「知っているよ。だから君と結婚したんだ。僕のすることに口を出さず、二人で幸せな日々を送ると言っただろう」
「私は、あなたの浪費や借金まで引き受けると言ったのではありません!」
アルマンの表情が険しくなる。甘く、心地よいはずのヴィオレットの声。
だが、それが今はどうしようもないほどにわずらわしく感じられた。
「君だって、好きなだけドレスや宝石を買ったじゃないか!」
「私のせいですの!?」
そして、二人は互いの支出を責めはじめた。
アルマンはヴィオレットの支出を減らせと言い、ヴィオレットはアルマンの馬を売るべきだと言い返した。しかし、責任の擦り付け合いに決着はつかない。
その間にも、子爵家の信用は失われていった。
ロヴェール商会をはじめとする商人達は掛け売りを断り、品物を仕入れるにも現金が必要になった。
後回しにされた北側水路はさらに傷み、最初の見積もり額では賄えないほど修繕費が膨らんだ。
子爵家に残る先祖伝来の品々を売り、なんとかその場をしのいでいたが、それにも限界がある。
数か月が過ぎる頃には、エルヴェ子爵家が傾き始めたことを、隠し通せなくなっていた。
そして家の中では、アルマンとヴィオレットが互いにののしる声ばかりが響き続けていた。
◇
「あなたは、困っている女性を救っているのではなかったの!?」
王都の外れにある喫茶店。そこでフェリシテを見つけるなり、ヴィオレットは声を張り上げた。
椅子に腰かけたフェリシテは、怒りに震える彼女を静かに見つめ返す。
「何のことでしょう?」
「アルマン様のことです! あなた、本当は知っていたんでしょう!? アルマン様が、自分では何一つできない方だって!」
「わたくしは、あなたから頼まれた通りにしたまでです。お望み通り、アルマン様とご結婚できたのでは?」
「ですが、まさかこんなことになるなんて――! あ、あなたは私を救ってくれるはずでしょう!?」
「わたくしなりに、お救いしたつもりです」
あまりにも平然とした返事に、ヴィオレットは言葉を詰まらせる。
「ど、どこがですの!?」
「ヴィオレット様は、アルマン様を素敵な方だと思っていらした。そして、その隣にいるクラリス様を地味でつまらない女性だとも仰っていたはずです」
フェリシテは穏やかに続ける。
「ですが、それはあなたから見た一側面にすぎません」
「それが、今の私と何の関係があるの?」
「アルマン様が気前よくお金を使えたのも、面倒な家のことを気にせずにいられたのも、クラリス様が支えていたからです」
華やかに見えたアルマンを支えていたもの。
地味で口うるさいと思っていたクラリスが背負っていたもの。それが、ヴィオレットには見えていなかった。
「あなたはクラリス様の立場を望まれた。ですから実際にそこへ立っていただけば、今まで見えていなかったものも分かると思ったのです」
ヴィオレットの表情が強張った。
「何も知らないまま、クラリス様だけが恵まれていると思い続けるより、ずっとよかったでしょう? 羨み続けるだけというのは、辛いものですもの」
フェリシテは、心から安堵したように微笑んだ。
「本当によかった。あなたをお救いすることができて」
「な、何よそれ……」
ヴィオレットはよろよろと後ずさった。
◇
離縁から数か月が過ぎた。
公爵令嬢への指導をきっかけに、クラリスの評判は少しずつ王都の貴族達へ広がっていた。
今では何人もの令嬢へ刺繍を教え、作品の注文も受けている。
生徒が増えたため、ラングレー公爵夫人は所有する屋敷の一つを刺繍教室として使えるようクラリスへ提供した。
クラリスは生徒ごとの日程や進み具合、作品の注文、材料の仕入れと謝礼を帳簿にまとめていた。かつて子爵家のために使っていた管理の力が、こうして今の仕事と暮らしを支えている。
王都での暮らしにも慣れた頃。その日も午後から、数人の令嬢が授業に訪れる予定だった。
クラリスは公爵夫人と、生徒に出す課題について話をしていた。
「あの子には、もう少し難しいものを教えてもよろしいのではなくて?」
「私もそう思っています。次からは、少し複雑な花模様に挑戦してもらおうかと」
クラリスが図案へ印をつけた、その時だった。
扉の外から使用人の声が響く。
「エルヴェ子爵様がお見えです」
クラリスの手が止まった。
「アルマンが?」
「はい。どうしてもお話ししたいことがあると」
クラリスは公爵夫人へ目を向けた。
「申し訳ありません。少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「構いませんよ。ここに、お通ししましょう」
ほどなくして、アルマンが部屋へ現れた。
以前と変わらず羽振りがよいように装っているものの、その服には皺が目立ち、明らかにうまくいっていないことが分かる。
公爵夫人の姿を認めたアルマンは一瞬、顔色を変えた。
子爵である彼にとって、公爵夫人は気安く話せるような相手ではない。
「ラ、ラングレー公爵夫人……」
「ごきげんよう、エルヴェ子爵」
「す、すみません。お話し中にお邪魔してしまって」
「お気になさらず」
「き、恐縮です」
アルマンは息苦しそうに、二、三度呼吸を整えた後、クラリスへ向き直った。
「突然すまない。だが、どうしても君に話があって」
「何でしょうか」
「……戻ってきてくれないか」
クラリスはアルマンの瞳を見返した。
「戻る、とは?」
「もう一度エルヴェ家へ戻って、以前のように家のことを見てほしいんだ」
「ヴィオレット様がいらっしゃるのに、私を屋敷へ戻すおつもりですか?」
「彼女では無理なんだ」
アルマンは苦々しげに言った。
「商人との交渉も、屋敷のことも、領地から届く報告も……何一つまともに進まない。僕も手をつけてみたが、どこから始めればいいのか分からないんだ」
そこで、言葉を詰まらせる。
「君が必要だったんだと、ようやく分かった。だから――戻って来てくれ」
「お待ちなさい」
公爵夫人が口を開いた。
「クラリス先生には、たくさんの生徒がいらっしゃいます」
「クラリス……先生?」
アルマンが聞き返した。
「ええ。娘も私も、クラリス先生には大変お世話になっています。こちらからお願いしている作品もございますし、ほかにも先生を頼りになさっている方は大勢いらっしゃいます」
アルマンはクラリスを見る。
自分よりはるかに高い身分にある公爵夫人が、かつて自分の妻だった女性を、当たり前のように『先生』と呼んでいる。それが、にわかには信じられなかった。
「ですが、彼女がいなければエルヴェ家は……」
「クラリス先生は、もうエルヴェ家の方ではないでしょう?」
「それは……」
「離縁なさった時に、そうお決めになったのでは?」
アルマンは唇を噛んだ。
「ですが、このままでは本当に家が立ち行かなくなるんです。は、恥ずかしながら……いずれ、屋敷まで差し押さえられそうで。このままでは、我が子爵家は破滅してしまいます」
すがるような声音で続ける。
「そうなれば、屋敷で働いている使用人たちが路頭に迷うことになる」
その言葉に、初めてクラリスの表情が曇った。さらに畳みかけるようにアルマンは続ける。
「ああ。あの者たちまで困るのは……君の本意ではないだろう?」
クラリスも、ここまでエルヴェ子爵家が追い詰められているとは思わなかった。
彼女が何か言おうとしたところで、公爵夫人が静かに切り出した。
「でしたら、エルヴェ家の使用人の方々はこちらで受け入れましょう」
アルマンが呆けたような表情で問い返す。
「な、何ですって?」
「我が家には、王都だけでなく各地に屋敷があります。領内にも人手を必要としている場所がありますし、こちらで手がけている仕事にも使用人は必要です。その方の経験に合う働き口を手配できます」
公爵夫人はクラリスへ顔を向けた。
「エルヴェ子爵家の使用人の方々は、クラリス先生も信頼なさっている方々なのでしょう?」
「ええ。皆、真面目な方たちです」
「でしたら、なおさら問題ありません。エルヴェ家で給金が支払えないのであれば、こちらで働けるよう手配いたします」
「で、ですが……!」
「万一、エルヴェ家が破綻するようなことになってもご心配なく。フェリシテ様から、エルヴェ家の運営に支障が出た際には、領民に被害が及ばぬよう頼まれております。私のほうで然るべく取り計らいましょう」
「な、なぜ、そこまで……!?」
「クラリス先生には、余計なことに煩わされず、刺繍に専念していただきたいのです。先生の腕前には、それだけの価値がありますから」
アルマンは言葉を失った。
使用人まで困る。そこを突けば、クラリスは手を貸してくれるとアルマンは考えていた。
だが公爵夫人の申し出によって、その計算は脆くも崩れ去る。
「それでも、クラリスが手伝ってくれれば済む話なんです! たかが刺繍ごとき――」
なおも食い下がろうとした時、廊下から複数の女性の声が聞こえてきた。
「クラリス先生、いらっしゃいますか?」
扉が開く。
姿を現したのは公爵夫人の娘と、その友人である侯爵家の令嬢二人だった。これから始まる刺繍の授業を受ける者たちだ。
「先生、今日はこの前の続きを教えてくださるのでしょう?」
「私も図案を持ってまいりましたの。見ていただきたくて」
令嬢たちは、いつものようにクラリスの周囲へ集まった。
「ええ。順番に見せてくださいね」
クラリスが答えると、令嬢たちは嬉しそうに授業の準備を始めるため別室へと向かう。
アルマンは、その様子を呆然と見ていた。
「エルヴェ子爵」
公爵夫人が呼びかけた。
「そろそろ、クラリス先生は授業の時間です」
「ですが――」
「これ以上、クラリス先生の貴重なお時間を割くわけにはいきません」
アルマンは、それでもクラリスへ縋るような視線を向けた。
「クラリス……本当に、少しだけでも駄目なのか?」
「必要なことは、離縁する前にすべてお伝えしました」
クラリスは静かに答えた。
「それでも私の助けは必要ないと仰ったのは、あなたとヴィオレット様です」
「だが――」
「私は、エルヴェ家へ戻るつもりはありません。これからあの家をどうするのかは、あなたとヴィオレット様がお決めください」
アルマンは何も答えられないまま肩を落とし、一人で屋敷を出ていった。
◇
その後、予定どおり刺繍の授業が開始された。
「クラリス先生」
公爵令嬢が、刺しかけの布を差し出した。
「こちらの葉なのですが、この糸では少し濃すぎるでしょうか?」
クラリスは二色の糸を布の上へ並べた。
「こちらの方がいいですね。花の色も綺麗に見えると思います」
「では、こちらにします」
令嬢は嬉しそうに席へ戻っていく。
クラリスも自分の椅子へ腰を下ろした。
机の端に置いたままの布を引き寄せ、次に使う糸にそっと指を添える。




