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短期間異世界に転生しちゃった件

掲載日:2026/07/13

【プロローグ】

どれほど、まともな睡眠をとっていないだろうか。

俺、佐藤(さとう) れんは、連日の休日返上で働き続ける、どこにでもいる限界サラリーマンだ。

その日も、深夜に及ぶ残業を終えて家路を急いでいた。疲労で足元がふらつく。アスファルトを蹴る自分の靴音が、やけに遠くで聞こえた。

突如、ぐにゃりと視界が百八十度反転した。

「え……?」

重力に抗えず、身体が地面へと倒れ込んでいく。冷たいコンクリートに顔を打ち付けたはずなのに、痛みすら感じないほど五感が麻痺していた。意識が急速に、深い闇の底へと落ちていく。

『あ、これ、やばい……かも……』

カチリ、と頭の中で何かのスイッチが切れる音がした。

【1日目】

「……つ、熱い……」

肌を焦がすような熱気に、俺はうめき声を上げて目を覚ました。

重い瞼を押し上げると、目に飛び込んできたのは、見慣れた天井でも街頭の明かりでもなかった。

地平線の彼方まで遮るものなく広がる、圧倒的な緑の草原。

そして何より異常だったのは、見上げた空だ。そこには、二つの太陽が並んでぎらぎらと神々しい光を放っていた。

「嘘だろ……。これって、いわゆる『異世界転生』ってやつか?」

身体を起こして自分の姿を確認する。服装は、会社帰りそのままのくたびれたワイシャツとスラックス。ポケットを探ると、中身はバッテリーの切れたスマホと、胸ポケットに挿したボールペンが一本だけ。当然、スマホの画面の端には『圏外』の文字が虚しく光っている。

周囲を見渡しても、人工的な建造物は愚か、道すら見当たらない。このまま干からびるわけにはいかない。俺は一縷の望みをかけて、太陽の位置を頼りにひたすら歩き始めることにした。

【2日目】

どれほどの距離を歩いただろうか。

昨日から水一滴、喉を通していない。容赦なく照りつける二つの太陽が、俺の体力を確実に奪っていく。じわじわと視界が霞み、足がもつれた。

「いや、もう……歩け、ない……」

二度目の限界が訪れ、俺は緑の絨毯の上へと崩れ落ちた。

「――っ、人が倒れてる! 大丈夫!? しっかりして!」

意識が途切れる寸前、鼓膜を震わせたのは、鈴を転がすような少女の焦燥した声だった。優しく身体をさすられる感覚を最後に、俺は再び深い眠りに落ちた。

「はっ……! 仕事、仕事にいかなきゃ!」

跳ね起きると、そこは見知らぬ木造の天井だった。

息を荒くしながら周囲を見回す。簡素なベッドと、温かみのある木製の家具。

「あ、そうだ……。俺、異世界に転生して、歩き続けて、限界が来て倒れたんだっけ。……って、俺は何回連続で限界を迎えて倒れてるんだよ」

自分の情けなさに呆れ、片手で顔を覆う。

その時、小気味よい音を立てて部屋の木扉が開いた。

「あ、やっと起きたー! 身体の方、もう大丈夫そう?」

部屋に入ってきたのは、カゴを抱えた十五歳くらいの少女だった。赤髪をハーフアップにし、利発そうな大きな瞳がこちらを覗き込んでいる。

彼女の名前はエリス。村の外で山菜を採っているときに、行き倒れていた俺を偶然見つけて、ここまで運んでくれたらしい。

「ここはガヴリウム王国の東の端にある『ライト村』だよ。小さな村だけど、隣国との国境が近いから、警備の兵士さんたちが駐屯して睨みを効かせてるんだ」

エリスは人懐っこい笑顔で教えてくれた。

「助けてくれて本当にありがとう、エリス。俺の名前は……」

本名を名乗るのも不自然かと思い、俺はとっさに頭を回転させた。

「……『レン』って言うんだ。遠くから旅をしていて、迷ってしまって」

「レンね! よろしく!」

エリスが用意してくれた温かいスープと干し肉を食べると、干からびていた身体に活力が戻っていくのが分かった。一息ついた後、彼女は快く村を案内してくれた。

ライト村は、エリスの言う通り長閑のどかで美しい場所だった。東側には厳めしい甲冑を着た国境警備隊の姿が見えるが、その他の場所には豊かな田畑が広がり、活気ある市場が形成されている。

食べ歩きができそうな香ばしい匂いを漂わせる屋台、重厚な金属音が響く鍛冶屋、そして立派な看板を掲げた『冒険者ギルド』。

「本当に異世界に来たんだ」と、俺の胸は少しだけ高鳴った。

しかし、問題があった。俺にはこの世界の通貨がまったくない。

困り果てる俺に、エリスは親身になって提案してくれた。

「それなら、冒険者になってみたら? 無理な依頼を受けなければ、ソロでもなんとかやっていけるよ。これ、おじいちゃんが使ってたお下がりだけど……使って!」

そう言ってエリスが差し出してきたのは、手入れの行き届いた一振りのショートソードと、古びているが丁寧に編み込まれた小さな『お守り』だった。

見ず知らずの俺にここまで親切にしてくれる彼女の温かさに胸が熱くなる。俺はその夜、お守りを握りしめ、明日への決意を胸に眠りについた。

【3日目】

翌朝、俺は朝一番で冒険者ギルドの重い扉を叩いた。

早朝にもかかわらず、場内はすでに屈強な冒険者たちで熱気に満ちていた。緊張で唾を飲み込みながら、受付へと向かう。

「あの、冒険者登録をお願いしたいのですが……」

応対してくれた受付のお姉さんは、慣れた手つきで一枚の羊皮紙を差し出してきた。

「ここに名前と年齢、使用する武器を記入してくださいね」

俺は少し考えて、ペンを走らせた。

・名前:レン

・年齢:25

・武器:ショートソード

登録を終え、併設された掲示板に向かう。ずらりと並ぶ依頼書の中から、俺は『スライム討伐』のクエストを引き剥がした。

受付嬢の話によると、スライムはモンスターの中で最弱。草原に群生しており、三匹も倒せば、この村での一日分の宿代と食費にはなるらしい。

「そういえば、初日にあの草原で寝てたとき、よく襲われなかったな……」

武器も持たずに無防備に眠っていた己の幸運に、今更ながら背筋が凍る思いがした。

俺は一度エリスの家に戻り、「草原へ行ってくる」とだけ告げて、ショートソードを腰に帯びて村を出た。

青々とした草原を進むと、すぐに目的のモノと遭遇した。半透明の青いジェル状の身体を揺らす、教科書通りのスライムだ。

「よし……おりゃあ!」

勇気を振り絞り、ショートソードを抜いて一気に踏み込む。刃がスライムの核を正確に捉え、パシャリと水風船が割れるような音と共にモンスターが霧霧と消えていく。あとに残ったのは、小さな鈍い輝きを放つ『魔石』だった。

「これがいわゆる、ドロップアイテムか……」

魔石を拾い上げ、ホッと胸を撫で下ろす。その調子で、俺は二匹目、三匹目のスライムも比較的順調に倒し、必要な魔石を回収することに成功した。

「これで今日の食い扶持は稼げたな。さあ、村に戻ろう」

そう思った矢先、激しい馬のいななきと、野卑な叫び声が耳に届いた。

声のする方へ目を向けると、街道を進んでいた豪華な装飾の馬車が、五匹の小鬼――ゴブリンたちに包囲されていた。

馬車の前後には、護衛任務を放棄して一目散に逃げ出す不届きな冒険者たちの後ろ姿が見える。そして馬車の窓からは、恐怖に顔を歪ませて怯える高貴な身なりの少女と、彼女を庇うように抱きしめるメイドの姿が見えた。

「おいおい、冗談だろ……」

放ってはおけない。だが、頭の中でエリスの言葉がリフレインする。

『無理な依頼は受けちゃダメ』

ゴブリンは、スライムを数匹倒しただけの素人が相手をしていい魔物ではない。一匹相手にするだけでも、今の俺にとっては命がけだ。

しかし、考えるより先に、俺の身体は勝手に走り出していた。現実世界で、理不尽な仕事の波に揉まれても何もできなかった自分が嫌いだった。ここで逃げたら、一生自分を許せない気がした。

「そこを離れろ、化け物ども!」

叫びながら、ゴブリンの背後からショートソードを突き立てる。不意を突かれた一匹が悲鳴を上げて倒れた。

しかし、残りの四匹の反応は早かった。

「ギギャッ!」

鋭い爪と錆びた短剣を持ったゴブリンたちが、一斉に俺を取り囲む。素早い動きに翻弄され、あっという間に背後を取られた。

「ぐあぁっ!?」

背中に走る激痛。鋭い刃物が肉を裂く感覚に、頭が真っ白になる。口内から鉄の味が広がり、地面に血を吐き出した。それでも、俺はなりふり構わず剣を振り回した。エリスにもらった武器を折るわけにはいかない。

死に物狂いの乱撃が奇跡的にゴブリンたちの急所を捉え、ボロボロになりながらも、俺は五匹のゴブリンをすべて叩き伏せた。

しかし、そこまでだった。

全身の傷口からドクドクと血が流れ落ちる。立っていられなくなり、俺は膝から崩れ落ちた。視界が急速に狭くなっていく。

馬車から駆け寄ってくる少女たちの泣き叫ぶ声が、遠くで聞こえる。

『ああ……また、意識が遠のく……。せっかく転生したのに、三日で終わりかよ。あっけない……人生、だったな……』

三度目の闇が、俺の意識を完全に包み込んだ。

【エピローグ】

規則的な、電子音が聞こえる。

ピッ、ピッ、ピッ……。

「あ、佐藤さん! 目を覚ましました! 先生、看護師さんを呼んでください!」

聞き覚えのある、現実世界の同僚の声だった。

ゆっくりと目をあけると、そこは白い壁と、点滴の管につながれた自分の腕。異世界の木造天井ではなく、見慣れた総合病院の病室だった。

医師の話によると、俺はあの夜、会社のエントランスで過労による急性心不全で心停止寸前まで倒れ、そのまま三日間も生死の境を彷徨っていたらしい。

「三日間……。じゃあ、あの世界での出来事は、死にかけた俺が見た長い夢だったのか……?」

何もかもが生々しかった。草原の匂いも、エリスの淹れてくれたスープの温かさも、ゴブリンに背中を刺されたあの飛び上がるほどの激痛も。

すべては脳が見せた幻覚だったのだと、自分に言い聞かせる。少しの切なさを覚えながら、退院手続きのために自分の衣服が詰められたナイロン袋を受け取った。

スーツのポケットに手を突っ込む。

スマホと、一本のボールペン。そして――指先に、妙な感触が触れた。

「……え?」

ポケットの奥から引き抜いたそれを見て、俺は息を呑んだ。

そこにあったのは、あのライト村で、エリスが「お守り」だと言って俺に手渡してくれた、古びた手編みの小さな布の塊だった。

現実の世界には存在し得ない、異世界の素朴な刺繍。

「夢じゃ、なかった……」

俺の日常が、再び始まる。

しかし、この胸の中に灯った確かな温かさと、ポケットの中のお守りがある限り、俺はもう、あの頃のただ流されるだけのサラリーマンじゃない。

いつかまた、あの二つの太陽が昇る空の下へ帰る日を夢見て、俺は強く一歩を踏み出した。

思いついたら手が止まりませんでした。

感想等良ければよろしくお願いします。

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