雪国の公爵様は、伯爵令嬢を逃がさない〜だらしない研究員さんだと思っていたら、公爵家のご嫡男でした〜
エレノア・ヴァイゼンベルクは、伯爵家の長女として生まれた。
十九歳になった今は、行儀見習いを兼ねて王宮に出仕し、ベアトリス王太子妃付きの女官見習いとして働いている。
貴族令嬢が結婚前に王宮で勤めを経験することは、決して珍しいことではない。礼儀作法や宮廷内の人脈を学び、将来の縁談に備える意味もある。
ただ、エレノアの場合は、良縁を探すというより、家を離れて少しでも経験を積みたいという気持ちの方が強かった。
下には、弟が三人と妹が一人。
幼い頃から、誰かの襟元を直し、誰かの転んだ膝を拭い、誰かの喧嘩の仲裁をしてきたせいだろうか。
十九歳になった今でも、エレノアには妙な癖があった。
困っている人を見ると、放っておけないのである。
たとえそれが、王宮の廊下で紙束を抱えたまま、壁に額をぶつけている見知らぬ青年であっても。
「……大丈夫ですか?」
王太子妃宮へ向かう途中、エレノアは思わず足を止めた。
そこにいたのは、二十歳前後の青年だった。
背は高い。肩幅もある。けれど、身なりは何というか――とても惜しい。
上質な布地の上着を着ているのに、襟元は曲がっている。袖口には黒いインクの跡。柔らかそうな銀色の髪には、なぜか小さな紙片が絡まっていた。
その腕には分厚い書類と、魔術式がびっしりと描かれた羊皮紙が山のように抱えられている。
「ああ、すまない。前が見えていなかった」
青年は額をさすりながら、どこか呑気に笑った。
その笑顔に、エレノアは少しだけ目を瞬いた。
整った顔立ちだった。
きちんと身支度をすれば、それなりに目を引く青年なのだろう。だが今は、研究室からそのまま飛び出してきたような姿である。
「前が見えていない状態で歩くのは危険です。王宮の廊下は、あなただけのものではありませんよ」
「それは、もっともだ」
素直に頷かれ、エレノアは逆に言葉に詰まった。
叱られ慣れていない貴族の子息なら、ここで少し不機嫌になるところだ。
けれど彼は、まるで新しい知識を得たかのように、感心した顔をしている。
「君は、正しいことを分かりやすく言うんだね」
「……褒めているのですか?」
「もちろん」
青年は何の気なしにそう答えた。
エレノアは小さく息をつく。
「ひとまず、その資料を半分お持ちします。どちらへ?」
「ああ、助かる。宮廷魔導師の執務室まで」
「宮廷魔導師様のところへお届けする資料なのですね」
「届けるというより、共同研究の相談だね。術式の検証を頼まれている」
「まあ……では、研究に関わる方なのですね」
「そういうことになるかな」
やはり研究者なのだろう。
エレノアはそう判断した。
王宮には、王族や高位貴族だけでなく、宮廷に仕える文官や魔導師、研究に関わる者たちも出入りする。中には貴族出身者もいるが、研究に没頭するあまり身なりに無頓着な者もいると聞いたことがある。
きっと、この青年もその一人なのだ。
そう思いながら、エレノアは青年の腕から書類の半分を受け取った。
その瞬間、青年の髪に絡まっていた紙片が、ひらりと揺れた。
「……あの」
「うん?」
「髪に、紙がついています」
「紙?」
青年は自分の頭を撫でるが、見当違いの場所ばかり探っている。
エレノアはしばらく見守ったが、やがて諦めて一歩近づいた。
「失礼します」
指先でそっと紙片を取る。
青年は目を丸くして、じっとエレノアを見下ろした。
「取れました」
「ありがとう」
あまりにも自然に礼を言われ、エレノアはわずかに表情を和らげた。
「どういたしまして。研究員さん」
「研究員さん?」
「違いましたか?」
「いや、違わない……と思う」
青年は少し考え込んだあと、なぜか楽しそうに笑った。
「では、それでいい」
こうしてエレノアは、王宮で少しだらしない研究員と知り合った。
名前は、まだ知らなかった。
知る必要があるとも、思っていなかった。
王太子妃付きの女官見習いとして働く日々は、想像していた以上に忙しかった。
女官見習いの務めは、侍女のように主の身支度を整えることではない。
王太子妃のそばに控え、来客の名を覚え、茶会の席順を確認し、届いた招待状や贈り物を記録する。
宮廷で交わされる言葉の裏側を学ぶこともまた、仕事のひとつだった。
誰が誰に視線を向けたのか。
どの贈り物が、ただの祝意ではなく、家同士の距離を示しているのか。
何気ない褒め言葉に、どれほどの牽制が含まれているのか。
ベアトリス王太子妃のそばに控えていると、華やかな宮廷が決して美しいだけの場所ではないことが、少しずつ分かってくる。
それでも、エレノアはこの務めを嫌いではなかった。
家では五人兄妹の一番上として、弟妹たちの面倒を見ることが多かった。だからだろうか。誰かの動きに気を配り、必要なものを先回りして整えることは、エレノアにとってそれほど苦ではなかった。
朝は、ベアトリス王太子妃の一日の予定を確認することから始まる。
茶会の準備、来客の取次、贈答品の記録、招待状の返礼の確認。女官見習いであるエレノアが任される仕事はまだ限られているものの、覚えることは山ほどあった。
ベアトリス王太子妃は、エレノアより少し年上の、若く美しい女性だった。
現王の息子である王太子に嫁いでまだ日が浅いが、すでに宮中では穏やかで聡明な妃として知られている。
王族としての気品がありながら、親しい者には気さくに声をかける柔らかさも持っていた。
「エレノア、また考え事?」
午後のひととき。
王太子妃宮の小さなサロンで、届いた招待状の差出人を控えていたエレノアは、ベアトリス王太子妃の声にはっと顔を上げた。
「申し訳ございません、妃殿下」
「責めているわけではないわ。あなたはいつもよく働いてくれるもの」
ベアトリス王太子妃は穏やかに微笑んだ。
「家のことで心配事?」
「……父が、少し腰を痛めてしまいまして」
「あら。それは心配ね」
「大したことはないと本人は言うのですが、書斎にこもる時間が長い人ですから。母も困っているようで」
ため息交じりに言うと、ベアトリス王太子妃はくすりと笑った。
「あなたは本当に面倒見がいいわね」
「弟妹が多いせいかもしれません」
「それだけではないと思うけれど」
意味ありげに微笑まれ、エレノアは首を傾げた。
その日の午後。
ベアトリス王太子妃から、宮廷魔導師へ届ける返礼状を預かったエレノアは、王宮の西棟へ向かっていた。
女官見習いであるエレノアにとっては、こうした文書の受け渡しもまた、宮廷内の人の流れを覚える大切な務めだった。
宮廷魔導師の執務室へ続く回廊に差しかかったところで、エレノアは再びあの青年に出会った。
相変わらず、襟元は少し曲がっている。
手には羽ペンと資料。指先にはうっすらとインク。
けれど今日は、前よりも少しだけ髪が整っていた。
「研究員さん」
呼ぶと、青年はぱっと顔を上げた。
「ああ、君か」
その声が、妙に嬉しそうに聞こえた。
「またお昼を抜かれたのですか?」
「どうして分かったんだい?」
「顔色と、手元の震えです」
エレノアは当然のように答えた。
青年は自分の手を見下ろし、感心したように頷く。
「君はよく見ているね」
「あなたが分かりやすすぎるのです」
「では、私は君に見つけてもらいやすいようにできているのかもしれない」
「……また妙なことを」
エレノアは呆れながら、持っていた包みを差し出した。
「厨房で余っていた焼き菓子です。倒れられては困りますので、少し召し上がってください」
「いいのかい?」
「はい。ただし、資料の上で食べないでくださいね。粉が落ちます」
「それは重要な注意事項だ」
青年は真面目な顔で頷き、焼き菓子を受け取った。
その様子がどこか弟たちに似ていて、エレノアは思わず頬を緩めた。
「君は、誰かの世話をするのが上手だね」
「上手かどうかは分かりませんが、下に弟が三人と妹が一人おりますので。気づけば、誰かに小言を言っているのです」
「なるほど。それで私も叱られるわけだ」
「叱られるようなことをなさるからです」
エレノアが少しだけ笑うと、青年も楽しげに目を細めた。
「では、君のお父上も叱られることがあるのかな」
「父は……今は、母に叱られていると思います」
「何かあったのかい?」
「少し腰を痛めてしまったのです。大したことはないと言い張っているのですが、書斎にこもってばかりいる人ですから、なかなか休んでくれなくて」
口にしてから、エレノアは少しだけ肩をすくめた。
「申し訳ありません。こんなことを話しても、困らせてしまいますね」
「いや。困らないよ」
青年は、手の中の焼き菓子を見下ろしながら、少し考えるように黙った。
「腰の痛みは、冷えで悪くなることもある。温めるものは使っている?」
「母が温布を用意しているようですが、父は面倒がってすぐ外してしまうのです」
「それはよくない」
「ええ。本当に、困った人で」
「君が困った顔をしている理由は、それか」
何気ない言葉だった。
けれど、自分の表情まで見られていたことに気づき、エレノアは少しだけ頬を熱くした。
「……それほど顔に出ていましたか?」
「少しだけ。君は人のことを心配している時、眉が下がる」
「研究員さんは、意外と人の顔をご覧になるのですね」
「君の顔は、見ていると分かりやすい」
「それは褒め言葉でしょうか」
「もちろん」
また、何の迷いもなく言われてしまう。
エレノアは返事に困り、視線を逸らして、小さく笑った。
すると、青年がふと手を止める。
「君は、笑うと周りの空気までやわらかくするんだね」
「……え?」
「不思議だ。さっきまで絡まっていた式が、少しほどけた気がする」
何気ない口調だった。
本当に、ただ思ったことを言っただけなのだろう。
けれどエレノアの胸は、なぜか小さく跳ねた。
「研究員さんは、そういうことを誰にでもおっしゃるのですか?」
「いや。君以外に言ったことはないよ」
さらりと返され、エレノアは言葉を失った。
青年は不思議そうに首を傾げる。
「どうかした?」
「……いいえ。何でもありません」
エレノアはそっと視線を逸らした。
頬が少し熱い。
それが恥ずかしさなのか、戸惑いなのか、自分でもよく分からなかった。
それから、エレノアと“研究員さん”は、会えば言葉を交わすようになった。
廊下で。
執務室の入口で。
中庭へ続く回廊で。
会う場所は決まっていない。
けれど不思議と、顔を合わせることが増えていった。
「また襟元が曲がっています」
「そうかい?」
「そうです。少し動かないでください」
「はい」
「……なぜ、そんなに素直なのですか」
「君が直してくれるから」
「ご自分で直してください」
「努力しよう」
「努力ではなく、実行してください」
そんなやり取りをするたび、青年は楽しそうに笑った。
エレノアは呆れていた。
呆れていた、はずだった。
けれどいつの間にか、王宮の廊下を歩く時、無意識に彼の姿を探すようになっていた。
今日はちゃんと食事を取っただろうか。
また袖口にインクをつけていないだろうか。
前が見えないほど資料を抱えていないだろうか。
そんなことを考えてしまう自分に気づき、エレノアは何度も小さく首を振った。
相手はただの研究者。
名前も知らない。
身分も知らない。
そもそも、こちらは伯爵家の令嬢で、相手がどの家の人間かも分からない以上、軽々しく親しくなりすぎるべきではない。
そう思うのに。
「エレノア嬢」
ある日、青年が初めて彼女の名を呼んだ。
エレノアは驚いて顔を上げる。
「私の名前を、ご存じだったのですか?」
「王太子妃宮の方がそう呼んでいたから」
「……そうですか」
自分だけが相手の名前を知らないのだと気づき、少し不公平な気がした。
けれど、尋ねるのも妙に勇気がいる。
すると青年は、小さな包みを差し出した。
「これを」
「何でしょう?」
「この前、君のお父上が腰を痛めていると言っていただろう」
エレノアは目を見開いた。
「覚えていてくださったのですか?」
「君が心配そうな顔をしていたからね」
包みの中には、小さな陶器の容器が入っていた。
「宮廷薬師に相談して調整した温湿布薬だ。腰の痛みによく効く。ただ、肌に合わなければすぐに洗い流してほしい。使用は一日に二度まで。温めすぎると逆に痛むこともあるから、そこだけ注意して」
説明はやけに詳しかった。
エレノアは容器を両手で包み込む。
「……ありがとうございます。父も、きっと喜びます」
「君の心配が少し軽くなるなら、それでいい」
また、そういうことを言う。
エレノアは俯いた。
胸の奥が、じんわりと温かい。
ただの親切だ。
そう思おうとした。
けれど、彼はエレノアが何気なくこぼした言葉を覚えていてくれた。
聞き流さず、形にして返してくれた。
そのことが、ひどく嬉しかった。
「研究員さん」
「うん?」
「あなたは……不思議な方ですね」
「よく言われる」
「でしょうね」
思わず笑うと、青年も笑った。
その笑顔を見た瞬間、エレノアは困ったように胸元を押さえた。
どうやら自分は、この少しだらしなくて、少し変わっていて、けれどとても優しい研究員に、思った以上に心を許し始めているらしい。
決定的だったのは、髪飾りのことだった。
その髪飾りは、妹がくれたものだった。
淡い青い小花を模した銀細工で、決して高価な品ではない。けれど、幼い妹が何日も悩んで選び、照れくさそうに差し出してくれた、大切な贈り物だった。
ある日、王太子妃宮の控え室で身支度を整えている時、金具が折れてしまった。
「あ……」
手のひらに落ちた髪飾りを見つめ、エレノアは思わず息を止めた。
使い込んでいたのだから仕方ない。
直せるかもしれない。
そう思おうとしても、胸が少し沈んだ。
その日、エレノアは髪飾りを外したまま仕事をした。
誰にも気づかれないと思っていた。
けれど、研究員さんは気づいた。
「今日は、いつもの髪飾りではないんだね」
研究塔近くの回廊で声をかけられ、エレノアは目を瞬いた。
「よくお気づきですね」
「似合っていたから」
あまりに当然のように言われ、返す言葉が遅れた。
「……壊れてしまったのです」
「そうか」
「妹がくれたものでしたから、少し残念で」
言ってから、しまったと思った。
こんな話をしても、相手を困らせるだけだ。
けれど青年は、困った顔をしなかった。
「見せてもらっても?」
「え?」
「無理にとは言わない。けれど、金具なら直せるかもしれない」
「研究員さんが?」
「魔道具の部品と似たようなものだ。細工は専門外だけれど、補強くらいならできると思う」
エレノアは迷った。
でも、その目があまりに真剣だったから、持っていた小箱を差し出してしまった。
「大切なものです。無理はしないでくださいね」
「ああ。約束する」
そして三日後。
青年は、綺麗に直された髪飾りを持って現れた。
折れた金具は、以前よりも滑らかに補強されている。銀細工の小花には、ほんのわずかに淡い光沢が増していた。
「勝手に少しだけ補強を入れた。元の雰囲気は壊していないつもりだけれど……気に入らなければ戻す」
エレノアは髪飾りを見つめたまま、しばらく言葉が出なかった。
「……戻さなくていいです」
「本当かい?」
「はい。とても……とても綺麗です」
指先でそっと小花に触れる。
胸がいっぱいになった。
「ありがとうございます。大切にします」
「それは私に礼を言うことではないよ」
「え?」
「君が大切にしていたから、髪飾りもまだ使われたがっていた。私は少し手伝っただけだ」
この人は、どうして。
どうして、こんなふうに言えるのだろう。
エレノアは唇を引き結び、視線を落とした。
泣きそうになっていることを、悟られたくなかった。
「……研究員さん」
「うん?」
「あなたは、本当に不思議な方です」
「それは、良い意味で?」
「……はい」
そう答えると、青年はとても嬉しそうに笑った。
その日、エレノアは王太子妃宮へ戻ると、さっそく直してもらった髪飾りを挿し直した。
鏡の中で、淡い青い小花がそっと光を受けている。
折れてしまった金具は、以前よりも滑らかに補強されていた。けれど、妹が選んでくれた可憐な雰囲気は少しも損なわれていない。
「あら、エレノア、その髪飾り直ったのね」
ベアトリス王太子妃に声をかけられ、エレノアは軽く礼を取った。
「はい。ありがたいことに、直していただけました」
「ふふ。そう。大切にしていたものね」
「……はい。妹が贈ってくれたものですから」
エレノアはそっと髪飾りに触れた。
淡い青い小花を模した銀細工で、決して高価な品ではない。けれど、幼い妹が何日も悩んで選び、照れくさそうに差し出してくれた、大切な贈り物だった。
「よかったわね」
「はい」
素直に頷いたエレノアの声は、自分でも驚くほど柔らかかった。
ベアトリス王太子妃は、その様子を見て楽しげに目を細める。
「……それで、直してくださったのはどなた?」
「え?」
「宮廷の細工師に頼んだにしては、ずいぶん丁寧な直し方だと思って」
「そ、それは……」
言い淀んだエレノアの頬に、ほんのりと熱が差す。
ベアトリス王太子妃は、それ以上追及せず、ただ楽しそうに微笑んだ。
「そう。大切にしなさいね」
「……はい」
その日から、エレノアは彼に会う日、直してもらった髪飾りを選ぶようになった。
無意識だった。
けれど鏡の前でそれに気づいた時、エレノアは自分の頬が赤くなるのを止められなかった。
王宮で、秋の夜会が開かれることになった。
隣国からの使節を迎えるための、格式ある夜会である。
王太子妃宮に出仕するエレノアも、女官見習いとして会場の準備に携わり、その後は伯爵令嬢として夜会に参加することを許された。
その夜のエレノアは、淡い青のドレスをまとっていた。
派手ではないが、銀糸の刺繍が控えめに光る、品の良い一着だ。
髪には、あの直してもらった髪飾りを挿している。
「エレノア、今日はいつもより少し緊張しているのね」
ベアトリス王太子妃に声をかけられ、エレノアは軽く礼を取った。
「夜会に慣れていないだけです、妃殿下」
「そうかしら」
ベアトリス王太子妃は、扇で口元を隠しながら、楽しげに目を細めた。
「誰かを探しているようにも見えるけれど」
「……そのようなことは」
「ないの?」
「ございません」
きっぱり答えたつもりだった。
けれど、自分でも分かるほど声がわずかに上擦ってしまう。
ベアトリス王太子妃は、ますます楽しそうに微笑んだ。
「そう。では、そういうことにしておきましょう」
「妃殿下……」
「ふふ。今夜は隣国からの使節だけでなく、国内の有力貴族も多く招かれているわ。思いがけない再会があるかもしれないわね」
その言葉に、エレノアの胸が小さく跳ねた。
誰を思い浮かべたのか。
考えるまでもなく分かってしまい、エレノアはそっと髪飾りに触れた。
会場には、きらびやかな貴族たちが集まっている。
音楽が流れ、シャンデリアの光が磨き上げられた床に反射している。
その中で、エレノアはふと、誰かの視線を感じた。
振り返ると、一人の青年がこちらへ歩いてくる。
深い紺の礼装。
きちんと整えられた銀髪。
胸元には、質の良い宝飾が控えめに光っている。
立ち居振る舞いは優雅で、周囲の貴族たちが自然と道を空けていた。
高位貴族だ。
それも、かなり上の。
エレノアはすぐにそう察した。
だが、その青年の顔に、妙な既視感がある。
どこかで会った気がする。
けれど、こんなに整った姿の高位貴族に声をかけられた覚えはない。
青年はエレノアの前で足を止めた。
「こんばんは、エレノア嬢」
声まで、どこか聞き覚えがある。
エレノアは慎重に礼を取った。
「恐れ入りますが……どこかでお会いしておりますでしょうか?」
一瞬の間。
青年は、心底楽しそうに笑った。
「あはは。私だよ。“研究員さん”だ」
「……えっ」
エレノアの思考が止まった。
研究員さん。
その呼び方を知っているのは、王宮で出会うあの青年だけだ。
でも、目の前の彼は、いつもの少し曲がった襟元でも、インクのついた袖口でもない。
髪に紙片も絡まっていない。
どう見ても、ただの研究者ではない。
「け、研究員さん……?」
「うん。いつも君に襟元を直してもらっている研究員さんだ」
「……」
血の気が引いていくのが分かった。
その時、近くにいたベアトリス王太子妃が、楽しそうに近づいてきた。
「あら。あなたたち、知り合いなの?」
エレノアはぎこちなく微笑んだ。
「いえ、知り合いといいますか……その……」
「そう。では紹介するわね」
ベアトリス王太子妃は、まるでこの瞬間を待っていたかのように微笑んだ。
「こちらは、アルヴィス・エルヴィン様。エルヴィン公爵家のご嫡男よ。とても博学で、少し変わっていて、面白いお方なの」
エルヴィン。
公爵家。
嫡男。
エレノアは、目の前が少し白くなった。
アルヴィスは優雅に一礼する。
「改めまして、エレノア嬢。アルヴィス・エルヴィンです」
その所作は、完璧だった。
どこからどう見ても、公爵家の子息。
由緒ある四大公爵家の若君である。
エレノアの脳裏に、これまでの自分の言動が一気に駆け巡った。
襟元を直した。
昼食を取れと叱った。
資料を抱えすぎるなと注意した。
髪についた紙片を取った。
焼き菓子を渡した。
父の腰痛の話まで、気安くこぼしてしまった。
何度も何度も、ただの研究者相手のように話しかけた。
よりにもよって、公爵家のご嫡男に。
「……わ、わたくし、大変なご無礼を……」
エレノアは真っ青になり、深く頭を下げようとした。
だが、その前にアルヴィスが一歩近づく。
「無礼などなかったよ」
「ですが、わたくしは……」
「私は、あなたに叱られる時間が嫌いではなかった」
エレノアは固まった。
ベアトリス王太子妃が扇で口元を隠しながら、目を細める。
「まあ。アルヴィス様がそんなふうに笑うなんて珍しいわ」
「そうですか?」
「ええ。いつも研究の話をしている時以外は、もう少しぼんやりしていらっしゃるもの」
「それは心外です」
「事実でしょう?」
ベアトリス王太子妃の言葉に、周囲にいた数人の貴族がくすくすと笑った。
エレノアは逃げ出したい気持ちになった。
けれど、逃げられない。
アルヴィスの視線が、まっすぐにこちらへ向けられているからだ。
「エレノア嬢」
「……はい」
「その髪飾り、今日もつけてくれたんだね」
なぜ今、それを言うのか。
エレノアはますます頬を熱くした。
「……大切なものですから」
「よかった。とても似合っている」
また、さらりと言う。
まるで、こちらの心臓の動きなど知らないかのように。
エレノアは視線を落とした。
アルヴィス・エルヴィン。
エルヴィン公爵家の嫡男。
北の要を守る、四大公爵家の若君。
それが、あの“研究員さん”だった。
夜会のあと、エレノアは彼を避けた。
避けた、と言っても、王宮内で完全に顔を合わせないことは難しい。
それでも、宮廷魔導師の執務室付近への使いは他の女官に譲り、回廊を歩く時間も変えた。
見かけても、少し遠回りをした。
自分でも情けないと思う。
けれど、どう接すればいいのか分からなかった。
ただの研究者だと思っていたから、気安く話せたのだ。
相手が公爵子息だと知っていたら、襟元を直すことなどできなかった。
食事を取れなどと言えるはずもなかった。
それに――。
気づいてしまった。
自分は、ただの親切心で彼に世話を焼いていたわけではない。
会えれば嬉しかった。
笑ってくれると、胸が温かくなった。
直してもらった髪飾りを選ぶたび、少し浮き立つような気持ちになっていた。
それが何なのか、もう誤魔化せない。
だからこそ、怖かった。
公爵家の嫡男と、伯爵家の長女。
縁談としてあり得ないわけではない。
けれど、簡単な相手ではない。
しかもエレノアは、相手に対して無礼とも取れる態度を何度も取っていた。
あの方は優しいから笑って許してくださっただけ。
そう思えば思うほど、胸が苦しくなる。
「エレノア」
ある日の夕方、王太子妃宮の小さな庭で、ベアトリス王太子妃に呼び止められた。
「最近、元気がないわね」
「……申し訳ございません」
「謝ってほしいわけではないの。アルヴィス様のこと?」
直球だった。
エレノアは言葉に詰まる。
ベアトリス王太子妃は、庭の薔薇を眺めながら穏やかに続けた。
「あの方、あなたを探していたわよ」
「……私を、ですか」
「ええ。王宮の廊下で、少し困った顔をしていらしたわ。『エレノア嬢に避けられている気がする』と」
「……」
「あなた、避けているの?」
エレノアは観念して、視線を落とした。
「どのように接すればよいのか、分からなくなってしまったのです」
「どうして?」
「アルヴィス様は、公爵家のご嫡男です。私はそれを知らず、あまりにも失礼な態度を……」
「アルヴィス様は怒っていないわ」
「分かっています。だからこそ、余計に……」
エレノアは胸元に手を添えた。
「私は、あの方をただの研究者だと思っていました。だから、自然に話せたのです。けれど今は……自分の言葉ひとつが、失礼に当たるのではないかと考えてしまって」
それに。
好きになってしまいそうで、怖い。
いや、もう惹かれている。
だが、その言葉は口にできなかった。
ベアトリス王太子妃は、少しだけ優しい目をした。
「エレノア。身分を知ったあとに態度を変える人は多いわ。でも、アルヴィス様が惹かれたのは、身分を知らなかったあなたでしょう」
「……私、ですか」
「ええ。公爵家の嫡男ではなく、研究に夢中で食事も忘れる一人の青年として、あなたは彼を見た。だから、あの方は嬉しかったのだと思うわ」
エレノアは何も言えなかった。
ベアトリス王太子妃は軽く扇を閉じる。
「逃げるなら、きちんと話してからにしなさい」
「逃げる、だなんて」
「違うの?」
違う、と言いたかった。
けれど言えなかった。
ベアトリス王太子妃はくすりと笑う。
「ちなみに、雪国の公爵様は、思ったより逃がしてくださらないと思うわよ」
その言葉の意味を、エレノアは翌日に知ることになった。
翌日。
王太子妃宮からの帰り道、エレノアは研究塔へ続く回廊で足を止めた。
そこに、アルヴィスが立っていたからだ。
今日の彼は、夜会ほど整った礼装ではない。
けれど以前のように乱れてもいなかった。
襟元は、きちんとしている。
袖口にも、インクはない。
髪に紙片もついていない。
それなのに、エレノアはなぜか少し寂しくなった。
「エレノア嬢」
アルヴィスが静かに名を呼ぶ。
逃げるべきではない。
そう分かっていたので、エレノアは立ち止まったまま礼を取った。
「アルヴィス公子」
「その呼び方は、正しいけれど寂しいね」
「……ご身分を知った以上、以前のようには」
「以前のように呼んでほしいと言ったら?」
「できません」
「どうして?」
アルヴィスは責めるような声ではなかった。
ただ、本当に理由を知りたいようだった。
エレノアは指先を握る。
「わたくしは、あなたが公爵家の方だと知っていたら、きっとあんなふうには話せませんでした」
「だから、知られたくなかった」
即答だった。
エレノアは驚いて顔を上げる。
アルヴィスは、どこか困ったように笑っていた。
「君は、私が誰かを知らなかった。だから、私を叱ってくれたし、心配してくれた。食事を取れと言ってくれた。襟元を直してくれた」
「それは……無礼でした」
「違う。嬉しかったんだ」
その声があまりに真っ直ぐで、エレノアは息を呑んだ。
「私は、エルヴィン公爵家の嫡男として見られることが多い。もちろん、それは当然のことだ。私はいずれ北の領地を背負う立場だから」
アルヴィスは少しだけ視線を伏せた。
「けれど君は、私をただの研究員として見た。だらしないと叱り、倒れたら困ると菓子を持たせ、私の話を聞いてくれた」
「……」
「君の前では、私は少しだけ息がしやすかった」
エレノアの胸が、締めつけられるように痛んだ。
嬉しいのに、苦しい。
「アルヴィス様……」
「私は、君に最初に会った時から惹かれていた」
「最初、ですか?」
「廊下で額をぶつけた時だ」
「あれは、ときめくような出会いではなかったと思いますが……」
「私にとっては十分だった」
アルヴィスは真面目に言った。
「あの時、君は私を叱っただろう。けれど、同時に資料を半分持ってくれた。髪についた紙も取ってくれた。正しいことを言いながら、手を差し伸べる人なのだと思った」
エレノアは頬が熱くなるのを感じた。
そんなふうに見られていたとは、思わなかった。
「そして、会うたびに確信した。君は誰に対しても自然に手を差し伸べる。相手の身分に関係なく、困っているなら助ける。私は、そういう君の優しさに惹かれた」
「……私は、ただおせっかいなだけです」
「そのおせっかいに救われる人間もいる」
アルヴィスは一歩近づいた。
近い。
けれど、不思議と怖くはなかった。
「エレノア嬢」
「はい」
「私は、君に求婚したいと思っている」
世界が、一瞬止まった気がした。
「……求婚」
「今すぐ返事をしてほしいわけではない。だが、逃げられる前に伝えておきたかった」
「逃げるだなんて」
「逃げていただろう?」
穏やかに指摘され、エレノアは言葉に詰まった。
アルヴィスは少し笑った。
「私は研究者でもあるからね。観察は得意なんだ」
「……そういう時だけ、研究者らしくならないでください」
「では、エルヴィン公爵家の嫡男として言おう」
アルヴィスの表情が、少しだけ改まった。
普段の柔らかい青年ではなく、北の公爵家を背負う者の顔だった。
「エルヴィン領は雪深い土地だ。冬は長く、厳しい。王都の華やかさとは違う。領主の妻となれば、楽しいことばかりではない」
エレノアは黙って聞いていた。
「私は研究に夢中になると食事を忘れるし、身なりにも気が回らなくなる。領地のこと、研究のこと、王家からの仕事。きっと君を困らせることも多い」
「……それは、もう少し自覚して直してくださいませ」
「努力する」
「努力ではなく、実行してください」
思わずいつもの調子で返してしまい、エレノアははっとした。
アルヴィスは、嬉しそうに笑っている。
「そういうところが好きだ」
「……っ」
「だから、来てほしい。私の隣に」
その声は、静かだった。
けれど、逃げ道を塞ぐような強引さではなく、寒い日に差し出される手のような温かさがあった。
「君に、私の帰る場所になってほしい。私も、君が安心して笑える場所を作りたい」
エレノアは目を伏せた。
頭の中に、いくつもの不安が浮かぶ。
公爵家。
雪国。
領主の妻。
自分に務まるのか。
けれど同時に、思い浮かぶものもあった。
研究に夢中で昼食を忘れる彼。
父の腰痛を覚えていてくれた彼。
壊れた髪飾りを直してくれた彼。
笑うと空気がやわらかくなると言ってくれた彼。
公爵家の嫡男である前に、エレノアにとって彼は、放っておけない“研究員さん”だった。
そして、尊敬できる人だった。
知識を誇るためではなく、誰かの暮らしを守るために研究する人。
きっとこの人は、北の厳しい冬の中でも、人々のために考え続けるのだろう。
その隣で、襟元を直し、食事を取るよう叱り、時には共に悩む未来。
想像すると、胸が静かに温かくなった。
「……アルヴィス様」
「うん」
「私は、あなたが公爵家の方だから惹かれたのではありません」
「知っている」
「研究員さんだと思っていました」
「うん」
「少しだらしなくて、放っておけなくて、でも、とても優しい方だと」
「……うん」
「ですから」
エレノアは顔を上げた。
「これからも、襟元が曲がっていたら直します。食事を抜いていたら叱ります。無理をしていたら止めます」
アルヴィスの目が、わずかに見開かれた。
「それでもよろしいのですか?」
彼は、ゆっくりと微笑んだ。
「願ってもない」
エレノアも、少しだけ笑った。
「では……お返事は、前向きに考えさせていただきます」
「前向きに?」
「はい。即答するには、大きなお話ですから」
「それはそうだ」
アルヴィスは頷いた。
けれど、その表情はどこか満足げだった。
「では、私は君が逃げないよう、毎日会いに来よう」
「毎日は困ります」
「では、一日おきに」
「そういう問題ではありません」
「君に会えないと、研究効率が下がる」
「それを私のせいにしないでくださいませ」
いつものやり取りが戻ってきた。
それが嬉しくて、エレノアは小さく笑った。
するとアルヴィスが、ふと真面目な顔になる。
「エレノア嬢」
「はい」
「もう一度だけ、呼んでくれないか」
「何をですか?」
「研究員さん、と」
エレノアは目を瞬いた。
それから、少しだけいたずら心が湧いた。
「……研究員さん」
アルヴィスは、心底嬉しそうに笑った。
「うん」
「ですが、公の場では呼びませんからね」
「二人の時だけでいい」
「……そういう言い方は、ずるいです」
「私は君に関しては、少しずるくなるらしい」
エレノアは頬を染め、視線を逸らした。
遠くで鐘が鳴る。
王宮の窓の外には、秋の夕暮れが広がっていた。
まだ雪は降っていない。
けれど、いつか彼の故郷である北の地へ行く日が来るのかもしれない。
長く厳しい冬。
白く閉ざされた世界。
それでも、この人となら。
温かな家を作れるかもしれない。
エレノアは、直してもらった髪飾りにそっと触れた。
アルヴィスが、その手元を見て微笑む。
「似合っているよ」
「……ありがとうございます」
「やはり、君の笑顔はいい」
「またそういうことを……」
「本当のことだから仕方ない」
さらりと言われて、エレノアは困ったように笑った。
その笑顔を、アルヴィスは眩しそうに見つめている。
雪国の公爵様は、どうやら本当に、伯爵令嬢を逃がすつもりがないらしい。
そしてエレノアもまた。
もう、逃げる気はなくなっていた。




