端原中央帝国における筆廷の政治的権威と麻生・コンソメの両翼による制衡の諸相 ――執政官独裁の成立から「内周決議」と「陰朝排斥」に至る帝国創立期の権力構造――
端原帝国創立期におけるコンソメ(陰朝)の動向は、古代から続く差別と「尊厳主義」による苛烈な迫害の歴史を背景とした、「生存権の獲得」と「政治的自立」を巡る激動の軌跡である。彼らは端原壮真の母国という極めて重要な位置にありながら、中央政権や地方勢力の政争に絶えず巻き込まれ、翻弄され続けてきた。以下に、その政治史的変遷を四つの局面から論じる。
第一章:創立前夜における武装中立と「七赤の確約」
端原勢力が台頭する過程において、コンソメはその特異な出自から、中央勢力にとって最も警戒すべき存在であった。三月二十一日、新庄実伸の意を受けた素原親通や長縄宏政は、コンソメが端原勢力に加担することを未然に防ぐべく、王宮警察幹部を伴い武力交渉に及んだ。この際、コンソメ側の応接役であった景山長元らは、端原平定が成るまで一切の軍事行為を行わないという「七赤の確約」を宣言するに至った。
しかし、確約後もコンソメは武装勇士の動員を度々行っていた。これに対し団波皆兵らは、あくまでパレードや式典のための人員であると強弁することで、中央からの公然とした批難や処分を回避した。このように、外交上の制約を受けながらも、実質的な自衛力や組織力を維持し続けるという、高度な政治的駆け引きが展開されたのがこの時期の特徴である。
第二章:保護国化の進展と「コンソメ連絡官」の政治的役割
戦局が進展するにつれ、コンソメは独立した勢力から、特定勢力の保護下にある従属的な「新興コンソメ国」へとその性格を変質させていった。八月五日の蒼佐協定により、コンソメは新興国として保護国化され、軍縮や武器輸出の統制を受けることとなった。
この時期、両勢力の結節点として浮上したのがコンソメ連絡官の姉賀頼龍である。彼は神征連合の元君公の命を受け、東府真幸らの暗殺を主導するなど、影の工作員として暗躍した。しかし、後に中北の大王派が共和派への弾圧を強めると、頼龍は共和派との内通を疑われ、見せしめとして誅殺された。彼の悲劇的な最期は、コンソメという存在が常に中央の派閥抗争における「政治的スケープゴート」として利用される宿命にあったことを象徴している。
第三章:「裁明の乱」と新興コンソメ国の組織的壊滅
十月から十一月にかけて、コンソメは建国史上最大の悲劇に見舞われることとなる。尾賀瀬稙澄らによる「裁明の乱」において、コンソメの傭兵が蜂起に加担したことが、中央や護国党によるコンソメへの不信感を決定的なものとした。
護国党の名取実継らは、新興コンソメ国が共和派と結託していると断じ、コンソメ地区への全面侵攻を開始した。中北観察府の底場茜らが防衛要請に応じ、永畑要塞にて激戦が繰り広げられたものの、要塞は陥落した。この戦いの中で、芋茎恒光や大晴照国といった若き首脳陣が戦死し、新興コンソメ国としての組織的な自立性は事実上、完全に壊滅したのである。
第四章:排斥の法制化と実務層への再編
乱の終息後、中央政府はコンソメ民に対し、制度的かつ組織的な弾圧を強化した。十一月二十七日の臨時閣議では、緑川氏の乱などの混乱を背景に、「これ以後コンソメ民出身者を新規閣僚として登用しない」という極めて差別的な原則が可決された。これにより、コンソメ民は中央政界の意思決定層から恒久的に遮断されることとなった。
一方で、戦後の深刻な人材不足を補うため、聖公庁総裁の飛竜院靖勝らは、有能な旧新興コンソメ住民を実務役員として採用し始めた。神場智光や亜郎夏行といった人物が登用されたことは、コンソメ民が政治的中枢からは排斥されつつも、帝国の維持に不可欠な「技術・実務階層」として再編されていった過程を示している。
結論:政治史における「内なる他者」としての位置づけ
端原帝国創立期におけるコンソメは、王朝の正統性を脅かし得る血脈として恐れられると同時に、政局を左右する軍事的・商業的資源として利用され、さらには国内の混乱や反乱の責任を転嫁される標的として弾圧の対象となった。
彼らの政治史的位置づけは、中央の陽朝に対する「陰の鏡」であったと言える。帝国が自らの正当性を確立するためには、常にコンソメを排除し、監視し続けなければならなかった。十二月二十九日にコンソメ商人が反逆容疑で討たれた事件が示す通り、帝国が安定期に向かおうとする中においても、彼らは常に「潜在的敵対者」というレッテルを貼られ、帝国の影の中に置かれ続けたのである。




