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初期培良時久における「粛清の論理」と東方統治の変質 —武綱氏頼暗殺と傍輩誅戮に見る徹底的合理主義—

一、 緒論:端原政権の「執行者」としての培良時久

培良時久は、端原壮真の被官として「下臈げろう」の出自を持ちながら、軍事的才覚と冷酷な政治判断によって東方観察府の軍主へと上り詰めた。彼の統治手法の最大の特徴は、**「旧体制の権威の徹底的な解体」と「恐怖による序列の再定義」**にある。これは、名門の自負を持つ旧官僚層とは対極に位置する、実力本位かつ非情な集権化のプロセスであった。


二、 瓜生合戦における軍事的プラグマティズム

2月11日の「瓜生合戦」において、時久は左右両翼の軍勢を率い、麻生廣頼を完璧に捕捉した。ここで注目すべきは、彼が単に武力で圧倒したのではなく、**「偽の返書」**という調略を最大限に活用し、敵の心理的隙を突いて短時間(わずか30分足らず)で決着させた点にある。 時久にとって、合戦とは武士道の場ではなく、目的を最短距離で達成するための「掃討作業」に過ぎない。この徹底した結果至上主義が、後の統治手法にも色濃く反映されることとなる。


三、 武綱氏頼暗殺——「秩序の衝突」の最終解決——

時久の冷徹さが最も顕著に現れたのは、3月18日の武綱氏頼暗殺事件である。 氏頼は東方奪還の功臣であり、麻生廣頼を捕らえた英雄であった。しかし、氏頼は「奥知呂一門」としてのプライドから、下臈出身の時久に指揮されることを公然と不服としていた。 時久はこの「感情的な反発」を単なる個人的な不仲とは捉えず、**「端原の直系支配に対する潜在的な反逆の火種」**と断じた。暗殺の口実に「番場事件の嫌疑」という不透明な理由を用いたことは、法的な正当性よりも「政治的な排除の速度」を優先した結果である。功臣であろうとも、新秩序に従わぬ者は一刻も早く除去するという時久の冷徹な意志が、この刃には込められていた。


四、 傍輩誅戮と「裏切り」の奨励——極限の組織統制——

氏頼暗殺直後に行われた寺地篤彦ら「傍輩ほうばい」への処置は、時久の統治手法における白眉と言える。 彼は、氏頼の与党を一度に皆殺しにするのではなく、**「裏切り者(姉賀久臣)だけを赦免する」**という残酷な選択肢を提示した。これにより、旧勢力の連帯感は内側から粉々に粉砕された。 「裏切りを奨励し、それによって生き残った者を忠誠の証として再利用する」というこの手法は、端原壮真が提唱する「深き恩情」という名の「究極の選別」を忠実に遂行したものである。恐怖と背徳感を植え付けることで、二度と反抗を許さない精神的隷属状態を作り出したのである。


五、 結論:培良時久がもたらした「新しい静寂」

培良時久の統治とは、旧来の家格や名誉といった幻想を剥ぎ取り、ただ「端原への絶対服従」のみを唯一の生存条件として突きつけるものであった。 3月18日、氏頼らの死を祝して壮真が祝儀を執り行った事実は、時久の冷徹な処置が政権の公式な意思であったことを証明している。彼が東方に築いたのは、伝統的な自治の調和ではなく、異論の余地を一切排した「静寂なる独裁」であった。培良時久こそ、中世的な名門支配を終わらせ、端原氏による近世的集権体制の扉を血塗られた手で開いた、稀代の統治者であったと言えよう。

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