5話
スペイン料理の芳醇な香りと、酔客たちの陽気なざわめき。
レンガ造りの壁に赤や黄色の原色が映える「バル・デ・グラシア」は、夜を彩る大人たちの隠れ家だ。
「どうして私の考案した新商品は、いっつも売れないんですかぁ!」
ドスン、と空になったワインボトルがテーブルを叩く。
顔を林檎のように真っ赤に染め、潤んだ瞳で訴えかけてくるのは、昼間の穏やかな面影が消え失せたスワロウだった。
そもそも今夜の集まりは、婚約破棄と退学処分という憂き目に遭ったソフィアを励ますためのものだったはずだ。
しかし、当のソフィアが案外ケロッとしていたため、話は思ったほど盛り上がらなかった。
「絶望の淵にいるソフィアを救いたい」その優しさで開催された今日の集まりだったが、パン屋の若旦那と客という関係以外で話をするのは、実は今日が初めてだ――そんな当たり前の事実に、二人は今さら気付いてしまったのだ。
沈黙を埋めるには、食べて呑むしかない。その結果、テーブルは完全にスワロウの独壇場となっていた。
「……前に作った『ちくわパン』だって自信作だったのに! 一個も売れなくて、結局私が全部食べたんですからね!? ちくわの穴に詰めたチーズの絶妙な塩気が、この世界の連中には早すぎたっていうんですか!」
「そ、それは大変でしたね……」
ソフィアは、パエリアの湯気の向こうで、やや引き気味に相槌を打つ。
店では常に周囲に目を配り、完璧な笑顔で接客をこなす「若旦那」のイメージは、今や木っ端微塵だった。
目の前にいるのは、酒に飲まれて管を巻く、ただの泣き上戸である。
「ソフィアさん、あなたもですよ!」
「えっ、私ですか?」
「『私ですか?』じゃないですよ! いっつもいっつも同じクロワッサンとサンドイッチばっかり買って! どうして新作を試してくれないんですかぁ!」
スワロウは指を突きつける。
「作り手はお客さんのリアルな反応に飢えてるんです。それなのに、あなたいっつも、同じものばかりを……!」
「すいません……どうしても、あの味が欲しくなっちゃって……」
「わかります、わかりますよ! どっちも手間暇かけて作ってますからね! でも……ううっ」
スワロウは再びワインを煽ろうとする。ソフィアの悩みは最初から解決しているので何の問題も無いのだが、スワロウは当初の目的をすっかり忘れているようだ。
「スワロウさん、もう飲まない方が……」
「いいえ、飲みます! 飲まずにいられますか!」
そして、ふと思い出したように続けた。
「……ソフィアさん、『プリンセスマジック』って店、知ってますか?」
「ええ、どこかで聞いたような……」
ぐびぐびと減っていくワイングラスの中身を見つめながら、ソフィアが答える。
「うちの店のすぐ近くにオープンした、あの『派手派手ベーカリー』ですよ! ソフィアさん、まさか……浮気してるんじゃないでしょうね!?」
「浮気って、なんの話ですか」
「『プリンセスマジック』に乗り換えたんじゃないかって、聞いてるんです!」
ドォン!
今度はテーブルを拳で叩き、スワロウが「痛っ……」と顔を顰めた。
「一度も行ったことはありませんよ。パンは『じゃんけんパン』でしか買わないと決めていますから」
「……偉い! そうでなくっちゃ!」
スワロウが、にんまりと笑う。
「だけど最近の若い子たちは、あっちの『映え』とかいう見た目だけに騙されて……。嫉妬で言ってるわけじゃないんです。本当に」
その声が、徐々に熱を帯びていく。
「あそこは最悪です。あんなの、パンへの冒涜よ!」
酔いが回ったスワロウの口調は、前世の「風花日暮」を彷彿とさせた。
「カラフルなクリームで誤魔化してますけど、あそこで使ってるのは、バターとも呼べないような最低ランクの脂です! 食べれば一瞬でわかります!」
さらに身を乗り出す。
「それに、何より許せないのは『発酵』ですよ!」
「……はっこう?」
「生地を熟成させる時間のことです! うちは低温でじっくり時間をかけているから、小麦本来の甘みが引き出されるんです!」
スワロウは一息にまくしたてた。
「そこをサボったら、美味しいパンなんて、絶対に焼けないのに……。あっちの店は、効率ばっかり優先して……それなのに……」
言葉が途切れ、スワロウはぐったりと椅子に背中を預けた。
「わからない……分からないんですよ、世の中が……」
ぽつりと呟き、視線をグラスの底へ落とす。
「どうして、本当に良いものが理解されないのか……」
ふぅ、と深い溜息。
その声音は、先ほどまでの怒りから、別の――もっと切実な悩みへと切り替わっていた。
「最近、結婚の話ばっかりされるんです……」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「ブックマーク」と「いいね」を頂ければ大層喜びます。
評価を頂ければさらに喜びます。
☆5なら踊ります。




