1話
王立サンジェルマン学院の壮麗な時計塔が、午前十時の鐘を鳴らす。
フランスの都市部を彷彿とさせる街並みは、どこを切り取っても絵画のように美しかった。
その中にある一つの高級アパルトマン。
眩いほどに白い石造りの外壁が凛とそびえ立っている。その中心でひときわ目を引くのが、重厚なラピスラズリの青い扉だった。
その建造物の二階の隅にある大きな縦窓から、呪詛めいた声が微かに漏れ出している。
「うう、うううぅぅ……」
机に突っ伏し、後頭部を押さえて呻いている金色の髪の令嬢がいる。
ソフィア・トルバドゥール。王立サンジェルマン学院の二年生――であった。
彼女が重い頭を乗せている机の上には、二枚の羊皮紙があった。
「こっちは分かってたけどさ」
右手に取ったのは、貴族の紋章が刻印された『婚約破棄通知』。傲慢な元婚約者の顔を思い出し、ソフィアは鼻を鳴らす。
次に、もう一枚を震える左手で掴み取った。
「こっちは、完全に計算外だよ……」
そこには無慈悲な一文、『退学通知』と記されていた。
「もうクラスのみんなに会えないんだ、学院生じゃないんだ……私は、人生の落後者なんだ……」
再び机に突っ伏し、呻き声をあげる。
「『俺』っていうのは止めた方がいいよ。前世で男だったことがバレるから」
それは思春期の少年のような声だった。尻尾の先だけが銀色の黒猫――クロウが、つまらなそうに毛繕いをしながらソフィアを見上げている。
「仕草には人一倍気を配らないと」
「今さらバレたって困らないよ。私が転生者で、日本人で、男だったことがバレたところで……道を踏み外した落後者のことなんて、誰も見ちゃいないんだから……」
「やれやれ。相当落ち込んでるね、これ」
クロウは呆れたように首を振った。
「たった一発だけ叩いただけなのに、あんなので退学なんてひどい……」
「妥当じゃない?」
「なんで?」
顔を上げたソフィアが睨む。
「相手はソフィアよりも家柄が上だし、たった一発がすごいダメージだったからね。僕が見る限り、あの男は白目をむいて泡まで吹いてたよ」
「それはアイツが弱すぎるから」
「僕的には、ソフィアが強すぎるんじゃないかと思うけど……いいじゃないの。ソフィアには『神の手』があるんだから」
呻き声が止まった。
「どんな気性の荒い精霊猫も、ソフィアの手にかかれば思うがまま、あっという間に蕩けて陥落しちゃう。上流階級の顧客を山ほど抱えて、お金もがっぽがっぽなんでしょ?」
「そういう問題じゃないんだよ……」
「むしろ、そっちに集中した方が稼げるじゃない。僕はいいと思うけどね」
「全然良くない、良くないよ……」
再開された呻き声。しかし、その声が途切れた瞬間、静かな部屋に「ぐぅ〜〜」という、およそ貴族令嬢には似つかわしくない音が鳴り響いた。
「……落ち込んでいても、お腹は減るんだね」
「う……」
ソフィアが顔を上げる。その頬は、恥ずかしさで桃色に染まっていた。
クロウはイタズラっぽく目を細める。
「お腹が膨れれば元気も出るよ。例えば『パン』とか」
「パン……」
「ソフィアは、あのお店のパンが大好きなんだから。……あそこで働いている『若旦那』が目当てじゃなくて、あくまでパンが好きだから、ね。パンが」
「変な言い方しないでよ!」
ぶつくさ言いながらも、ソフィアは重い腰を上げ、向かったのは鏡の前だった。
そこにいるのは、透き通るような肌と、目の奥に強さを宿した金色の髪の美しい娘。没落寸前の貴族の娘とは思えないほどの気品があった。
「……今日、なんか調子いまいちかも。顔色、悪いよね?」
「そう? 僕には毎日まったく同じに見えるけど」
「デリカシーなさすぎ!」
ソフィアは手慣れた動作で身支度を始める。
絶望の底にいても、大好きなパンの香りと、あの人の顔を思い浮かべれば、体は自然と外の世界へと向き始めた。
「……行こう」
「オッケー」
ソフィア・トルバドゥールは、アパルトマンの扉を開けると明るい光が差し込んで来た。
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