9 毒の爪
「今日から一緒に、夫婦の寝室を使ってくれないかな?」
思い詰めたように険しい表情からは、なんの感情も読み取れない。
だから私は、おずおずと遠慮がちに尋ねてみる。
「それは、その、いよいよ手を出す決意をされたという――」
「あー、いやいや、そうじゃなくて」
そうじゃない?
夫婦の寝室を使いたい=いよいよ初夜、という意味じゃないの?
百人いたら百人がそう解釈すると思うんだけど?
怪訝な顔つきになった私を見て、ゼノ様はなんだか妙に気まずそうである。
「今までは、夫婦になったとはいえまだお互いのことをよく知らないし、リアが嫌がるようなことだけはしたくないけど一度手を出したら確実に抱き潰す自信があったし、俺の愛がそこまで重いのをリアに知られたら引かれるどころか多分嫌われるだろうなと思ったから、あえて寝室を別にしてたんだけど」
「は、はい」
「その辺りのことをちゃんと説明しなかったから、かえってリアを不安にさせたんだよなと思ってさ。それに、俺たちが寝室を別にすることで不仲だとかリアが冷遇されているとか、変に誤解されるのもリアにとっては不本意な話なのかなと」
まあ、あれだけ毎日あけっぴろげに愛を叫ばれていれば、冷遇されているなんて噂にはならないだろうけど。
とはいえ、実際にはマルティナ様に痛くもない腹を探られたわけだから、夫婦の寝室問題というのは思った以上に影響力が大きいのだと思う。
「でも、一番の本音はさ」
そう言って、ゼノ様は徐に私の右手を取ったかと思うと、指先にそっと口づけた。
「リアとずっと一緒にいたいって、欲が出てきちゃったんだ」
「欲、ですか……?」
「うん。リアを知れば知るほど、近づけば近づくほど、もっとリアと一緒にいたい、もっとリアを独り占めしたいって思っちゃって。朝も昼も夜も、寝るときも眠っている間も、夢の中でさえリアのそばにいたいって思っちゃったんだ。ダメかな?」
端正な顔つきの美丈夫にねだるような甘い視線を向けられて、抗える人などいるのだろうか? いたら連れてきてほしい。
「もちろん、一緒に寝たとしても、絶対に手は出さないから」
神妙な顔つきで想像の斜め上をいく宣言をするゼノ様に、私はなんだか肩透かしを食らった気分になった。ズコー! である。
「……えっと、手は出さないんですか?」
「出さないよ」
「なんで……?」
「言っただろう? ちゃんと想い合ってからにしたいって。リアにも俺に溺れてほしいって」
「それは、そうですけど……」
なんとなく釈然としない思いで、私はゼノ様を見返した。なぜ自分がこんなにもモヤっているのか、よくわからないまま。
でもどういうわけかゼノ様は、これ以上ないほどのドヤ顔をきめている。
「大丈夫。今までは手を出さないでいられる自信がなかったけど、やっぱりリアが一番大事だから、『待て』を覚えることにしたんだ。リアがいいって言うまでそういうことは一切しないから、安心して」
「……はあ」
絶妙にモヤモヤした気分は相変わらずだったけれど、早速その日から、私たちは夫婦の寝室で一緒に眠ることになった。
でも、全然、眠れる気がしない……!!
夫婦の寝室を使うのは初夜以来だし、部屋に入ったら入ったで当然落ち着かないし、いつも通り心臓はどんどこどんどこうるさいし、湯浴みを終えたばかりのゼノ様は猛烈に色気だだ漏れだし、もうほんとにいろいろと勘弁してほしい。
それでも仕方なく、ぎくしゃくとぎこちない動きでベッドに入り、そろそろと隅っこに横たわりながら縮こまっていると、先に横になっていたゼノ様がふふ、と笑った。
「そんな隅っこで寝たら、落ちちゃうよ。もっとこっちにおいで」
「え」
「ほら」
どこまでもにこにこと、無邪気な笑顔を見せるゼノ様。
なんでだか複雑な気持ちになる自分を持て余しつつも、私はゆるゆるとゼノ様に近づいた。
するりと伸びてきた腕に引き寄せられ、あっという間にすっぽりとその腕の中に収まってしまう。
「……あー、なんか、落ち着く」
頭上から、うっとりとしたゼノ様の声が降ってきた。
「初めて抱きしめたけど、リアって柔らかいね」
「えっ?」
「それに温かい。安心する」
「そ、そうですか……」
「触れているだけでこんなにも満たされるなんて、知らなかったな……」
独り言のようにつぶやくゼノ様の声は、なんだか耳にとても優しい。
こんなふうに抱きしめられたら、どぎまぎしちゃって眠れるわけないじゃない、と思っていたのに、気づいたら私はゼノ様の胸に頭を預けていて、そのままあっさりと眠りに落ちていたらしい。
◇・◇・◇
それからしばらくは何事もなく、平和な日々が続いた。
私は少しずつ辺境伯領での生活に慣れ、屋敷の管理などの実務もすべて任せてもらえるようになり、使用人たちからも騎士団員からも、そして領内の民からも、名実ともに辺境伯夫人として信頼を寄せられるようになっていた。
当然のようにゼノ様の溺愛ぶりはとどまることを知らず、執務の間に騎士団の訓練を見学しにいけば真っ先に駆け寄ってきて「来てくれたんだね」と抱きしめられるし、夕食後に夫婦の寝室で過ごすときには有り体に言えば抱き寄せられて、「幸せ過ぎる」とか耳元でささやかれる。なんなら、膝の上に乗せられることもある。
同じ寝室で一緒に眠るようになってから、ゼノ様は事あるごとに私を引き寄せ、抱きしめて、片時も離さなくなった。スキンシップの類いは、格段に増えたと思う。でも約束通り、鋼の意志で『待て』を実践し続けている。
そんな穏やかな日々を切り裂いたのは、ある騎士団員の報告だった。
「今朝見回りに行った騎士団員が、森の東側で魔獣の足跡を発見したらしいんだ。森の入り口付近まで数匹来ていたようだが、どうやらスタンピードの兆候もある」
ゼノ様は、執務室にいた私と家令のバートにそう告げた。強張った表情は、否応なしに事態の重さを物語る。
「今、グイドに討伐隊を編成させている。準備が出来次第、討伐隊とともに森へ向かうからそのつもりでいてほしい。バート、いつも通り屋敷のことはお前に任せる。リアのことも頼んだぞ」
「承知いたしました」
「あ、あの、ゼノ様」
思わず立ち上がった私に、ゼノ様は見慣れた穏やかな笑みを浮かべる。
「どうしたの?」
「いえ、その――」
「もしかして、心配してくれてる?」
なんだかちょっとうれしそうな顔をして、ゼノ様は私に近づきふわりと抱きしめた。
「大丈夫だよ。いつものことだから」
「そうかもしれませんけど、でも……」
「まだスタンピードだって決まったわけじゃないし、すぐに戻ってこれると思うから。そんなに心配しないで」
それが本当のことなのか、それとも私を安心させるための方便だったのか、私にはわからなかった。この土地のことも魔獣のことも、まだまだ知らないことが多すぎると痛感する。
「少し不便な思いをさせてしまうだろうけど、リアは気にせず普段通りにのんびり過ごしてて」
「気にせず、なんて無理ですよ」
「そう? じゃあ、早く帰ってこれるよう祈っててくれる?」
「もちろんです」
「あと、帰ってきたら、いっぱいいちゃいちゃしてもいい?」
「……はい?」
なんだこの緊張感のない人は。
「帰ったらいちゃいちゃできる! と思えば、いつもよりがんばれるなーと思ってさ」
「……そ、そういうことなら……」
「リアってば、ほんとに可愛い。行きたくなくなっちゃうじゃん」
火照った頬に優しく触れて、ゼノ様はそのまま私の額にキスを落とす。
「仕方ない。行ってくるか」
「……ご武運を」
そうして、出撃の準備を終えたゼノ様を送り出し――――
強い毒性を帯びた魔獣の爪に襲われ、瀕死の重傷を負ったゼノ様が運ばれてきたのは、それから五日後のことだった。




